調和を乱す声 下

文字数 7,434文字

 月曜日、僕は仕事を休んだ。診察を受ける心療内科は彩香がネットで検索してくれたので、僕は保険証その他一式を用意して、都内にある心療内科に向かった。外部にある様々な物からの声を聞きたくないから車で行きたかったのだが、近くに駐車場が無かったので、僕は耳にイヤホンを差し込み、スマートフォンでストリーミングの音楽を聴きながらタクシーを利用した。普段ならイヤホンを耳に差し込んでタクシーを利用する人間など、躾がなっていない人間だと思って軽蔑している僕だったが、今回はやむを得なかった。もしかしたら常に自分の好きな音楽を聴いている人間は、「自分の周囲は穢れや邪気に満ちている」と思っているから、自分の世界に引きこもる。あるいは感覚に蓋をしてしまうのだろうかと思った。
 僕を乗せたタクシーは、十五分ほどで心療内科の前に着いた。僕は音楽を聴いたまま電子決済で代金を支払い、仏頂面のままだった運転手に小さく礼を言ってタクシーを降りた。
 建物に入り、耳に着けていたイヤホンを外す。受付の女性に今日予約したものだと伝えると、保険証の提示を求められたので保険証を出した。保険証を出すと、質問事項が書かれた紙を手渡されたので、僕は待合室のソファーに座り質問事項を記入する事にした。
 待合室にはBS放送の美術番組で使われるBGMのような音楽が流れていた。心をリラックスさせる効果があるのだろう。美術番組であれば壮年の男性がナレーションで美術品や歴史について解説をするだろうが。この診察室からそのような人間の声は聞こえてこなかった。あるのは落ち着かせるための音楽と、質問事項を記入する僕がペンを動かす音のみだ。
 質問事項に記入する事は、心療内科を受けるのは初めてか否か、今飲んでいる薬はあるか、事故や病気で長期間入院したことがあるか。などだった。僕は心療内科に来るのも初めてだし、飲んでいる薬もないし、入院した事もないと記入して受付に質問事項の書かれた紙を返した。
 それから程なくして僕を呼ぶ声が聞こえた。恐らく診察を受ける人間は僕以外に居ないのだろう。僕は小さく「はい」と答えて診察室と書かれた部屋の扉を開けた。
 入った診察室と言うのは、診療所のように消毒液の匂いが充満し、奇妙な医療器具や薬などがあるような場所ではなく、応接室のような造りになっていた。椅子に座っている、還暦間際の医師の男性も、白衣ではなく普段着で文化人のような印象を与える。机の上にあるノートパソコンや書類の山も、ここが医療施設だとは到底思えないような印象を僕に与えた。
「どうぞ、お掛けになってください」
 座っていた医師は僕にそう促した。言われるまま椅子に腰かけた。
「よろしくお願い致します」
 初対面の相手だったので、僕は小さく挨拶をした。自分が心の闇を抱えて心療内科に通う事など、出来れば夢であって欲しかったが、現実だった。
「あまり緊張せず、リラックスしてください」
 一目見ただけで僕の事を見抜いたのだろうか。医師の言葉はフランクだった。薬や注射などを使わず、言葉で不調を直す医者だから、人の心を解す事を心得ているのだろうか。
「どのような事があったのですか」
 医者は再び声を掛けた。僕の異常は自分から口に出せと言う事なのだろう。罪の告白のようだと僕は思った。
「意思を持たないもの声が聞こえるようになったのです。ワインボトルとか、橋の起点とか」
「お酒は飲まれますか?」
「この前にワインを山梨で買って、彼女一緒に飲もうとしたのですが、購入する時も、飲もうとした時も話しかけてきました。それで耐えられなくなって、取り乱してしまったのです。その時に彼女に言われて、ここに来ました」
 僕はこの病院に来た理由を簡潔に述べた。最初の日本橋で起きた事は言わなかったが、後は事実だった。
「そうですか。それ以前に何か不安になる事や、強いストレスを感じる事などは有りませんでしたか?事件事故など」
 医者は平坦な口調で僕に質問する。僕に刺激を与える事無く話しかけるその言葉は、マッサージオイルを肌に塗りその上から馬の毛を使った刷毛で撫でられているような、不思議なあ心地良さがある。
「ありません。突然急に始まったのです」
「子供時代に、何か嫌な経験や辛い過去などは?」
 医者は躊躇なく僕の過去について質問してきた。もしかしたら僕の心の闇を覗いて、原因を突き止めようとしているのだろうか。それにしては、単刀直入過ぎる質問ではないかと僕は思った。
「記憶に残って、今でも自分を苦しませるような事は有りませんでした」
 僕は正直に答えた。今でも過去の記憶に苦しめられているならば、もっと早く心療内科に通っているは筈だ。
「そうですか」
 医師はつまらなそうに答えた。僕のように原因不明の声が聞こえる人間など、掃いて捨てる程いるのだろうか。
「今は、身体の具合はどうですか。辛いとか心細いとか」
「ありません」
 僕は小さく答える事しか出来なかった。ここに来れば多少気分が楽になるかも知れないという淡い期待を抱いていたが、結果はそうではなかった。



 結局、その心療内科では期待したほどの成果は得られなくなかった。一応、心療内科の患者リストに入り、何かあれば連絡して欲しいという了解は取り付ける事は出来たが。
 心の問題と言うのは、もしかしたらけがや病気のように、患部に手当を施せば直るという類の問題ではないのかもしれない。まっさらな人間が志を立てて、時間をかけて自分の人生の充足や社会的地位を得られる為に努力するのと同じで、目標を立ててその方向に進もうという意思と実行が無ければ成り立たないのかもしれない。そう言えば、僕は今までそんな気分になり今までを過ごしてきたであろうか。平均より少し上の収入の家庭の次男として生まれ、世間からすれば頭の良い学校を渡り歩いて就職し、今は都内で部屋を借りて一人暮らしをしている。だがそれは僕が望んだ将来図ではなく、手に入る物を手にして作り上げた人生と生活に過ぎない。行ってしまえば、作るのではなく買って間に合う消費者視点の人生だ。不自由は無いが物語にするにはつまらない。そう思うと、僕は自分が無価値な人間であるように思えた。
 心療内科からの帰りはタクシーではなくバスを使った。バスは通勤ラッシュの時間帯を過ぎた事もあり、押し寿司の箱に入った寿司飯のような圧縮されたような閉塞感は無かった。気持ちも酷く落ち込んでいるせいなのか、バスの車内の中にある物が僕に話しかけてくるような事もなかった。
 目的のバス停で降りると、僕は家に通じるまでの道をとぼとぼと歩いた。途中、博多ラーメン屋の向かいに建つ本屋を見つけて、何か心の悩みに関係する本を売っているのではないかと思ったが、入らずに素通りした。今僕が陥っている状態を解決できる方法は、海外の精神医学に関する論文の中くらいにしか無いだろう。インターネットで僕と同じような症例を持つ人の事を調べようかと思ったが、勤め先の同僚の「精神異常者のサイトは芸術ではないキュビズムで彩られている」という言葉を聞いた事があったので、見ない事にした。他人の不幸と自分の不幸を共有しても、不幸な事実には変わりはないのだ。
 住んでいるマンションの前に来ると、共同駐車場に入っている僕のベンツ・GLKと、同じマンションの住人が乗っているスバルのアウトバックが、量販店の紳士服テナントに、看板替わりに展示されているスーツのように並んでいる。マンションや住宅の駐車場に停まる型落ちの車は、中古で車を買おうとしている人間にとってショーウィンドウ的な存在かも知れないと僕は思った。
「お帰りなさい」
 誰かが出迎えの言葉を漏らした。近くに僕以外の人間は居なかったから、また人間以外の誰かが僕に話してきたのだろう。
「ありがとう。声を掛けてくれたのは誰だい?」
 僕は声を出して答えた。
「あなたのクルマ。中古で買って頂いたベンツです。暇なので隣の彼と話していました」
 駐車場に収まっていた僕のベンツはそう答えた。人間なら恭しくお辞儀をする筈だ。
「こんにちは。同じマンションの住人である斎藤の車です」
 隣のアウトバックも僕に挨拶をした。お互いのオーナーの不満をそれぞれ口にしていたのだろうか。
「オーナー様。そろそろガソリンを入れてください。この残量では浦和まで行って往復できません」
「わかったよ。今度入れよう」
 僕はベンツの言葉に生返事を返した。
 部屋に戻った僕は、キッチンに向かいコーヒーメーカーでコーヒーを淹れる事した。冷蔵庫を開けてコーヒーストッカーを取り出し、ペーパーフィルターとも用意してコーヒーの準備をする。
「コーヒーを召し上がるのですか?お身体の調子が優れないのでは」
 僕を気遣う言葉をかけてくれたのはコーヒーメーカーだった。コーヒーを提供する者らしく、落ち着いて紳士的な口調だった。
「いいや、飲むよ。好きな飲み物が飲みたいんだ」
「そうですか」
「美味しいやつを頼む。コーヒーが入ったら、後で綺麗にしてあげるよ」
「かしこまりました」
 町はずれの純喫茶の店主のような口調で、コーヒーメーカーは答えてくれた。僕はコーヒーが入るまでする事が無かったので、ソファーに寝そべってテレビを見る事にした。
 リモコンを操作しながらチャンネルを変えたが、民法は知性とは程遠い内容の番組を垂れ流し、NHKは家にいる人間を対象にした、温かいが刺激の少ない番組を流している。BS放送の番組表を画面に出すと、NHKは同時通訳の国際ニュースか、アフリカの野生動物の生態のドキュメンタリー。民放は通販か古いドラマを放送しているかのどちらかた。ケーブルテレビを契約していれば、国際的なネットワークで配信される良質なドキュメンタリーや旅番組等を視聴できたが、ケーブルテレビは契約していなかった。
「コーヒーが入りました」
 キッチンにあるコーヒーメーカーが僕に報告する。電子音声などではなく。きちんと意思を持った人間のような声だ。
「ありがとう」
「後二分ほど待っていただくと、美味しく召し上がれます」
 僕は飲み頃をおしえてくれるコーヒーメーカーに感謝の気持ちを抱いた。機械とは言え、細かい気配りをしてくれたのが嬉しかったのだ。
 二分待って、僕は立ち上がりコーヒーメーカーの元に行きコーヒーをマグカップに注いだ。コーヒーメーカーに小さく「ありがとう」と呟くと、コーヒーメーカーは「どういたしまして」と恭しく返してくれた。
 二分ほど待って、僕はコーヒーをマグカップに注いだ。そしてソファーに戻ると正面に鎮座するテレビが語り掛けてくる。
「あと四分で、あなたが好きそうな外国映画が有料放送で始まります」
「そうか。ありがとう」
 僕は感謝の言葉を返した。何時も僕の好みの番組を映しているから、僕の趣味を覚えてしまったのかもしれない。
 そうやって寛いでいるうちに、何気なく点けていたNHKが正午のニュースの時間になった。昼食の事をすっかり忘れていた僕はソファーから立ち上がって、車にガソリンを入れるついでに昼食を取る事を思いついた。
「これから食事と車にガソリンを入れてくるよ」
「わかりました。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
 答えたのはコーヒーメーカーだった。もしかしたら、彼は名家の屋敷に使える執事の様に、この家にある家具たちリーダー的な存在なのかもしれない。
 財布とキーを持ちマンションを出る。駐車場に向かうと、先程隣の車と会話していた僕のベンツGLKは、他の住人達の車と談笑していたようだ。
「遅くなってすまん。出掛けるぞ」
「わかりました」
 僕の言葉にベンツは素直に答えた。彼と楽しく会話をしていた車たちは急に静かになって、何も言わなくなった。僕は車に乗り込みエンジンを掛け、車にこう言った。
「普段通りに会話しても構わないのに」
「人間が来ると自動車は静かになります。人間の付属品になるように生まれつき躾けられています」
「人間が車の調和を乱すのかい?」
「違います。車や機械が発する声が、人間の調和を乱す声になります」
「人間達に遠慮しているんだな」
 僕はそう言い捨ててアクセルを踏んだ。言葉を発することが出来るなら、人間の様に知能と知性を持ち、自分で勝手に動いて欲しいと思ったが、それは叶わぬ願いの様だった。
「ガソリンは何時もの、大塚のセルフスタンドで入れる。その後食事で少し走るぞ、いいな?」
「いつもの所ですね」
 ベンツはつまらなそうに答えた。別の場所を期待していたのだろうか。僕はその言葉に答えず国道を大塚方面に向かって走った。
 大塚のセルフスタンドは、時間のせいか空いていた。会員登録してあるクレジットカードを機械に挿入し、ハイオクガソリンを四〇〇〇円分程給油する。給油が終わると、僕は昼飯を求めて再び車に乗り込んだ。
 僕は住んでいるマンションの方向には戻らず、大塚から板橋方面に車を走らせた。車で外出した以上、無料の駐車場がある店にする必要がある。どの店にしようかと考えていると、僕は高島平にある回転寿司の店を思い出し、その店に行く事にした。
 十五分程車を走らせると、目的の回転寿司店に着いた。僕は日の当たらない店舗下の駐車場に車をバックで停めた。
「すぐ戻るから、大人しくしていなさい」
「悪戯されたら、警報音を出します」
 ベンツの言葉に僕は「よろしい」と答えて車を降りた。
 食事はそれから四十分程で終わった。職人が握ってツケ場で出す寿司と比べて、機械で握った寿司は料理ではなく食品と呼ぶべき代物であったが、特に不満はなかった。車に戻ると、ズボンのポケットに入れていたスマートフォンがブルルと振動したので、取り出してロックを解除すると、彩香から着信だった。
「もしもし」
 僕は電話に出た。
「もしもし、私。今日病院に行けた?」
 彩香は心配そうな声で訊いてきた。不安そうな表情で電話の向こうに居る彩香の姿が何となく想像できる。
「ああ、病院に行って先生に話してきた。その後一旦帰宅して、食事に出て戻る所」
「そう、良かった。今は何ともないのね」
 溜息と共に彩香の安堵する声が聞こえる。
「今は楽だ。不安に駆られているような気分はない」
「仕事が終わったら、そっちに行くわね」
「ああ、ありがとう」
 僕はそう答えて、電話を切った。その会話を聞いていたベンツは僕にこう話し掛ける。
「彼女の彩香さんからですか?」
「そうだ。戻るぞ」
 僕はエンジンを掛けて、家路についた。



 帰宅した後は、家で残ったコーヒーを飲み、ゲームをプレイしたり読書をして時間を潰した。ゲーム機やスマートフォン、持っている文庫本なども何か話しかけてくるのではないかと思ったが、音声や言葉が出る物は自分の意志を持っていないようだった。それにも飽きると、僕はリビングのテレビをネットの動画サイトにつないで、ネット配信の動画を見て時間を潰した。何のプラスにもならない行為の積み重ねは、以前の僕であれば非合理的だとか生産性が無いとか屁理屈を捏ねて、嫌っていたはずだ。だが今はすんなりと受け入れる事が出来る。何故だろう?
 何も考えずにテレビの画面を見つめていると、玄関のインターホンが鳴った。キッチンのコーヒーメーカーが「来客の様です」と僕に報せる。
「ああ、すぐに出る」
 僕はそう答えて玄関に向かった。玄関に着きドアスコープを覗くと、最後に会った時と同じ表情で玄関前に立つ彩香の姿があった。
「彩香か、今開けるよ」
 僕はドアの鍵を開けて、彩香を招き入れた。
「こんにちは。病院はどうだった?」
「行ってきた。先生に今どんな状態なのかしっかり話したよ」
 僕が彩香の言葉に答えると、彩香は僕が自分の言いつけを守ってくれた事に安堵したらしく、ため息を漏らして僕にもたれかかって来た。
「良かった。今の状態はどうなの?」
「大丈夫。落ち着いているし、リラックスしている」
「それならいいの」
 彩香は嬉しさが滲んだ声で答えた。玄関で立ち話するのも不自然な感じだったので、僕は彩香をリビングに招き入れた。
 僕は彩香をソファーに座らせて、まだ残っているコーヒーとマグカップを取りにキッチンへ向かった。
「コーヒーでも飲むかい?新しく淹れようか?」
 僕はソファーに座る彩香に訊いた。
「お構いなく。アルコール以外なら何でもいいわ」
 彩香が答えたので、僕はサーバーに残っているコーヒーを出す事にした。親しい相手に出す飲み物として相応しいかは微妙だったが、飲む本人が構わないと言うのだから気にしない事にした。
「彩香さんにお出しするのですか?」
 コーヒーメーカーが用意する僕に質問した。
「ああ、本人が構わないらしい。今度は頼むよ」
 僕はそうコーヒーメーカーに言って、マグカップに注いだコーヒーをリビングに待つ彩香の元へと持って行った。彩香はちょっと意外そうな表情をしたまま、呼び出しを待っている子どもの様にお行儀よく座っていた。
「お待たせ。昼のコーヒーで申し訳ないけれど」
「いいえ、出してくれてありがとう」
 彩香は少しぎこちなく答えた。先程の会話を聞かれてしまっただろうか。
「何か、音楽でも流されたらどうですか?」
 窓際に置いたコンポが僕に訊いたが、僕は「今はいい」と答えた。
「病院はどうだった、先生には何か話せた?」
 彩香が探りを入れるように僕に訊く。僕がその表情を覗くと、先程までの安心感が消えて得体の知れない何かに怯える彩香の顔があった。
「まあね。今まで身の回りに起きた事は話せたよ。その後気分が楽になって、車にガソリンを入れたり外食したりして過ごしたよ」
「そう」
 彩香は小さく答えて、こう続けた。
「さっき誰かと話していたよね。あれは誰と?」
「コーヒーメーカーとコンポ。昼間は車にテレビも話してくれた」
 彩香の質問に僕は素直に答えて、そのまま続ける。
「調和を乱していた声が、いつの間にか身近な物として思えるようになった。常に誰かと会話していると、ややこしいかもしれないが、普段は楽しいと思えるようになったよ」
 僕がそう語ると、彩香は表情を凍り付かせたまま動かなかった。

 それから一週間後に僕は入院措置を取られた。調和を乱す声を聞き入れている内に、僕は世間から調和を乱す声を出す人間と判断されてしまったのだ。



                               (了)
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