フローラルな香り

文字数 2,397文字

 六本木のパーティー会場で談笑していると、急に鼻先にフローラルな香りが漂ってきた。
 最初は招かれた女性ゲストの付けた香水の香りが鼻先に漂ってきたのかと思ったが、相手との会話を終えて注意深く探っていると、それは人工的に調合された香りではなく、花の蜜や香辛料から仄かに漂ってくる、天然素材由来の香りをより強くしたものである事に気づいた。
 僕は相手との会話が終わると、僕はその香りの正体が何なのか確かめた。会場に設けられたフラワーアレンジメントの花は、会場の雰囲気を乱さないために強い香りを放つ花は使われていない。そうなれば香りの元は提供されている料理だろうか。興味を抑えきれなくなった僕は会場をうろついて、その正体を確かめる事にした。
 少し会場を歩き回ってみると、ビュッフェ用の料理が冷めないように保温トレーに置かれた、ショートパスタの料理がその香りを放っている事に気づいた。
 僕は近くにあった皿を手に取り、トレーに入っていたショートパスタの料理を盛って確かめてみた。内容はロールしたフジッリに豚ひき肉とホールトマトを絡めて、チリパウダー等のスパイスで少し辛味を利かせた一品になっている。僕は鼻を近づけ、フローラルな香りがこの料理から漂っている事をもう一度確認し、フォークで一口食べた。ニンニクとオリーブオール、豚ひき肉にトマトと各種スパイスの香りが、弾力のあるフジッリの食感と共に口に広がる。だがそれは自分がすでに知っている既知の感覚で、フローラルな香りの正体まではまでは分からなかった。
「どうかしましたか?」
 不意にしわがれた男の声が聞こえた。振り向くと、そこにはコック服姿の小太りの中年男が不安そうな顔で僕を見ていた。僕が訝しげな表情で食べていたから、料理に何かあったのかと、不安になったのだろう。
「いえ、この料理から何とも言えないフローラルな香りがしていた物ですから」
 僕は思った事を素直に料理人に話した。すると料理人は驚いた表情になってこう続けた。
「やはり独特な香りがしますか!私もなんですよ、他のスタッフやお客様は感じなかったのですが」
「なにか隠し味を入れたのですか?」
 僕が率直に料理人に質問すると、料理人は「いいえ」と小さく呟いて頭を軽く振った。
「足し味も何もしておりません。多くのゲストの方に召し上がっていただけるように、レシピ通りに作っただけです」
「そうなんですか」
 僕は期待外れに頷いた。何か特殊な方法、僕みたいな素人にも真似できるような何かがあると思っていたのだが、違うようだった。
「あの、お味の方は」
 不安そうに料理人が訊いてきたので、僕は笑顔になって「美味しいですよ」と答えた。
「それはどうも、ありがとうございます」
「よろしければ、作り方を教えてくれませんか?家に帰ってこの料理を再現したいのです」
 僕の言葉に料理人は笑顔になった。


 パーティーの後、僕は帰り道に家の近くのスーパーに立ち寄って必要な食材を全てそろえた。そして翌日、僕は仕事を提示で終わらせると、パーティー会場で料理人が教えてくれた通りの調理法で問題のパスタ料理を作った。だが味は再現できても、パーティー会場で感じたフローラルな香りを醸し出す事は出来なかった。
 もしかしたら、使う食材のメーカーや産地が違っていたのかもしれない。そう思った僕は休日を返上し、インターネットで必要な食材がどの産地やメーカーで作られているのかを確かめて、休日を返上して料理作りに没頭するようになった。
 そうして二週間が経ったある日の日曜日、僕の部屋の呼び鈴が鳴った。誰だろうと思ってドアスコープを覗いてみると、交際している美香がすこし怒ったような表情でドアの向こうに立っていた。
「ああ、美香。どうしたの」
 僕は扉を開けて部屋に招き入れようとすると、美香が急に眉をひそめた。
「何?この臭い」
 美香は苦しむようにして口を開いた。ニンニクやスパイス、トマトを来る日も来る日も調理していたから、部屋の匂いが変わっていたのだろう。
「ああ、ごめんよ。実は料理の研究をしていたんだ」
「料理の研究って、私の連絡を無視するほどに美味しい料理を作り出そうとしているの?」
「研究というか、再現なんだ」
 僕が答えると、美香は匂いの正体が何なのかを確かめるべく僕の部屋に入った。美香を追ってキッチンに入ると、美香は大量に積まれたトマトの空き缶や、フジッリの空き袋を見て愕然としていた。
「私の事もほったらかすくらいに、再現しようとした料理は美味しかったの?」
「味は再現できたよ。でも香りが再現できないんだ」
「香り?」
「そう、香り。あのフローラルな香りがどうしても再現できないんだ」
 僕が素直に事実を答えると、美香はあきれたように深いため息を漏らして、僕の事をにらみつけた。
「匂いに取りつかれているなんて、あなたこの前のパーティーで変な物でも食べたんじゃないの?」
「食べていないよ。でも忘れられないし、もう一度味わいたいんだ」
 僕の言葉にまた美香は小さく溜息を漏らした。そして僕の腕をつかんだ。
「とにかく、外の空気を吸えば多少違うよ……」
 美香がそう言って足を踏み出した瞬間、美香は床に転がっていたトマトペーストの空きビンを踏んで転がり、後頭部から床に落ちた。何か硬い殻が割れる鈍い音がして、美香が苦悶の表情を浮かべて動かなくなる。それと同時に、美香の後頭部からトマトやトウガラシの赤味とは異なる色合いの鮮血が、ゆっくりと流れ出してくる。その瞬間、僕があの時パーティー会場で感じた、天然素材由来のフローラルな香りが漂い始める。その瞬間、僕は苦労して探し求めていた物の正体がようやくわかった。
 僕は跪いて美香の手を取り、こういった。
「ありがとう美香、君のおかげで欲しかった物が手に入ったよ」
 僕の言葉に、美香は苦悶の表情を浮かべたままで何も答えなかった。

(了)
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