古いオペラグラス

文字数 3,775文字

 土曜の午前中に用事を済ませると、後はフリーになった。僕はそのまま自分の部屋に直行する事はせずに、少し回り道をして、普段歩かない道を歩く事にした。
 僕が歩く事にした道は、駅前ロータリーに通じる交通量の多いメインストリートから二本ほど奥に入った、高台の谷間に沿って家が立ち並ぶ道だ。立ち並ぶ家は古いがつくりが立派な家が多く、時間帯や季節によっては不気味さや奇妙な迫力がある。僕は道を歩くと、大きな収蔵品を納めた博物館を一人で歩くような、不思議な感覚を覚えた。
 その道を歩いていると、立ち並ぶ家の中では比較的新しそうな、築三十年程の家がある。普段なら気にもせず前を通り抜けてしまうのだが、今回ばかりは足を停めた。理由は家の駐車場に繋がる鉄格子の門の隣に、『ご自由にお持ちください』とコピー用紙にマジックで書かれた張り紙と、その下に置かれた菓子の紙箱があったからだ。
 僕は張り紙の前まで来て、まず駐車場に繋がる鉄格子の中を見る。駐車場の中に車は無く、コンクリートの車止め二つだけが死骸の骨のように虚しく残っていた。
 僕は『ご自由にお持ちください』と書かれた張り紙の下にある菓子の紙箱を観た。アイボリーの紙箱の中を見ると、銀製のケーキ用フォークが一本と、青銅製のペーパーウェイトが一つ。それに古いオペラグラスが一つあった。
 僕はその中から古いオペラグラスを手に取った。大きさはハガキ一枚程度しかないが、ずしりとした指先に伝わる重さとひんやりした感触が、高度な技術で精密に作られている物であると僕に伝えてくる。外見をよく見ると、製造国は不明だが一九三七年とアラビア数字で刻印されており、かなり古い物であることが判る。
 僕は凄い歴史ある物を手にしたと思い、オペラグラスの中を覗き込んだ。拡大されたレンズの中の世界は雨模様で、今僕が居る場所の曇り空の天気とは異なっていた。
 驚いた僕はオペラグラスから目を離し、自分の居る場所の天気を見る。空を見上げると、春特有の埃っぽく生暖かい空気を含んだ曇り空が広がっている。どうしてこのオペラグラスは雨模様を映したのだろうと疑問に思った僕は再びオペラグラスを覗き込み、今度は家の方を見た。
 するとレンズの向こうには雨の中作業に追われる工務店の白いトラックとカバーに覆われた建設中の家、出入りする作業服姿の職人が見えた。視線をずらすと、建築中の家には大手建設会社の名前が書かれた看板が有り、『**様邸。工期・令和五年二月一四日から四月二十日まで』と書かれていた。工期に書かれていた年号は、今から二年後だ。オペラグラスを拾ってくれと張り紙を出した家は壊されて、新しい家が建つらしい。
 僕は再びレンズから目を離し、古いオペラグラスを見た。このオペラグラスは未来を予測できる物だ。僕は得も言えぬ感情の昂ぶりを覚え、オペラグラスを持っていた鞄に仕舞って、小走りにその場を離れた。


 僕はそのまま駅前ロータリーまで来ると、鞄からオペラグラスを取り出して周囲を見回した。駅前ロータリー周辺の建物は建て替えや取り壊しなどは無かったが、携帯電話の販売店の前には新しいスマートフォンの機種が入荷した事と、新しい通信サービスの広告が見た事の無い芸能人の写真と共に宣伝されている。飲食店が立ち並ぶ方に視線を移すと、新しいチェーン店の店舗が開業していたり、個人経営のラーメン屋が廃業しドラッグストアになっているのが見えた。駅前の乗降口に視線を移すと、区議会選挙が開かれているのか、さえない四十過ぎの男性候補者が拡声器を提げて立ち、何かを訴えているが道行く人は無視している。もしこの候補者が当選するならば名前を憶えても良かったが、選挙中では結果が判らないので覚えない事した。
 僕は感情の昂ぶりを持ったまま、駅近くの輸入食品の店を見た。数年後の未来ではパスタとスペイン産ワインのセール販売を行っているらしく、印刷されたポップが風に揺れている。僕はパスタとワインを買おうと思いつき、輸入食品の店に向かった。
 輸入食品の店に着くと、数年後にセール販売を行うパスタ類とスペイン産ワインは定価での販売だった。僕は店舗の中でもオペラグラスを覗き込み、数年後の未来で販売されている品々の値段を見た。販売価格は今と変わらない商品もあれば、四十円も値上がりしている商品もあった。消費税率が変わったか、あるいは世界情勢や日本経済の変化で仕入れ値が変化しているのだろうか。するとエプロン姿の女性店員が近付くのが判ったので、僕は慌ててオペラグラスを鞄に仕舞った。
 僕は店で一番安いトルコ産のペンネ五百グラムと、メルローとピノ・ノワール種を使ったアルゼンチン産の赤ワイン、それにトマト缶とケッパーの瓶詰を買った。レジ袋を追加で購入し、店を離れて電車に乗り込む。電車が東京を超えて埼玉に入る途中、僕は電車の中をオペラグラスで覗きたい衝動に駆られたが、人目が多く不審者に見られてしまうので我慢した。
 目的の駅に着いて電車降りると、僕は自分が住んでいる、新しく出来たタワーマンションとは別の、二階建てのワンルームマンションに向かった。部屋に入ると、数年後の僕はこのマンションに住んでいるのか、それとも別の場所に住んでいるのかが気になって、オペラグラスを取り出して部屋の中を覗こうと思った。だがオペラグラスに手を伸ばすよりも先に、ズボンのポケットに入れたスマートフォンがLINEの通知を報せた。手に取ると、相手は二年前から付き合い始めた派遣社員の成美からだった。
 スマートフォンのロックを解除し、LINEを開く。彼女も早く仕事が終わり、残った時間をどうやって過ごしていいのか分からず、僕に連絡を取って来たらしい。僕は自分の部屋で夕食を作る予定だと返信すると、すぐに既読が付いて「あたしも食べたい」という言葉が返って来た。僕は「良ければ食べに来なよ」と返信した。成美の住む場所とは、徒歩で十分も掛からない距離にある。成美は「御馳走になります」と返信を返してきた。僕は小さくため息を漏らして、夕食の準備に取り掛かった。
 
 夕食は輸入食品の店で買った材料を使った、トマトソースのペンネにする事に決めた。ペンネを茹でるのと並行して、刻んだ唐辛子とニンニクをフライパンにひいたオリーブオイルにゆっくりと低温で香りを移す。その後トマト缶と水、ケッパーの塩漬けと、チューブのバジルを入れて煮込む。用意する飲み物は同じく輸入食品の店で買ったアルゼンチン産の赤ワインでいいだろう。その後にワインが回って肌を重ねるような事になっても別に構わない。今後の僕と成美の展開がどうなるのか、オペラグラスを覗いて確かめたいと思ったが、あのオペラグラスは数年後の世界しか覗けない事に気付いた。すぐ先の未来ではなく、少し先の未来を覗く事が出来るオペラグラス。上手く使えば株式市場や世界情勢を先読みして、株式投資や先物取引で大儲け出来るに違いない。そうなればワンルームマンションから電車で勤め先に行く生活ではなく、ドバイやシンガポールにファーストクラスで移動する生活だって実現可能なはずだ。僕は後であのオペラグラスを使い、株式市場や世界情勢に関する内容の情報を集めようと決心した。
 そんな事を腹の中で考えている内に、成美が部屋にやって来た。僕は成美を部屋に招き、作っていたトマトソースのペンネを作り終えて、皿に盛りつけた。簡素な料理だったが、成美にはご馳走に見えるのか、彼女は小さく歓声を上げた。僕はグラスを二つ用意して、買ってきた赤ワインを注ぐ。常温であったが構わなかった。
 僕と成美はペンネとワインを口にしながら、ここ二、三日にあった事をお互いに話した。やがて僕の作ったペンネを食べ終えて、買い置きのロースハムとチーズでワインを飲むようになると、やがて酔いが回り始めて意識が朧げになって来た。

 ワインが空になり、酔いも空腹も満たされると、安心しきった僕は少し眠ってしまった。自分が眠ってしまった事に気付くと僕は慌てて目を覚まし周囲を見回す。すると、ワインが入って上機嫌になった成美が、僕の鞄からオペラグラスを取り出して勝手に覗き込んでいるのが見えた。
 僕は人のモノを勝手に使うなと、酔いが醒めるほど大真面目な声で成美を叱った。軽い気持ちで手を出したらしい成美は急にしおらしくなり、ごめんなさいと小さく謝ってオペラグラスを僕に返した。僕は成美に対して少し怒りを滲ませた事を後悔した。
 怒られて酔いの醒めた成美は、古くて面白そうだからとオペラグラスを手に取った理由を話した。そのグラスは不思議なグラスで、僕の姿が映らず、空っぽの部屋だけが映ると答えた。その言葉に驚いた僕は、持っていたグラスで成美の事を観た。
 そこに映っていたのは、遺影に収まった成美の写真と喪服に身を包んだ人達の後ろ姿だった。白菊の花で彩られ、果物がお供えとして置かれているから、恐らく何処かの葬儀場だろう。僕は口を開いたままレンズ越しの光景を見ていたが、僕の姿は何処にも無かった。
 大丈夫?と成美の声が虚しく耳に入る。それをきっかけにして、僕の中で脆い何かが壊れるのを感じる。


                                     (了)
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