調和を乱す声 上

文字数 6,789文字

 最近、僕に妙な事が起こっている。
 本来なら意思を持たず、大勢の人達が無視している周囲の様々な物が、僕に何か言葉をかけてくるのだ。日本語の言葉で。自己主張をせず押し黙り全体の調和を作る様々な物たちが。
 最初に変化があったのは、五月半ば。取引先との打ち合わせがあって銀座方面から三越本店方面へ、銀座線に乗るため神田川に掛かる日本橋を渡ろうとしていた時だ。
「ちょっと兄さん」
 僕の耳に入って来たのは、性別不明の声だった。僕は誰かに迷惑を掛けてしまったかと思い、足を止めて周囲を見回した。
「ここです。こちらにおります」
「誰ですか、何処に居るのですか?」
 僕は正体不明の声に場所を訊ねた。
「ここです。道の真ん中におります」
 声に言われた通り、僕は橋の真ん中に視線を合わせた。だがそこに人間の姿はなく、行き交う車たちに挟まれた。国道一号線の起点の目印があるだけだった。
「まさか、あなたは其処に居る起点ですか?」
「はい。そうです」
 起点は僕の言葉にそう答えた。人間なら気付いて貰えたことに喜んで口元が緩むだろうが、相手は日本橋の起点らしく表情は分からなかった。
「気付いてくれて良かった。私の存在は知っていても、声に気付く人は殆ど居ないのです」
 日本橋の起点の言葉に、僕はようやく冷静さを取り戻して、自分に起きている事が異常なものである事に気付いた。いくら日本橋の真ん中にある起点が、道路上における東京の中心地であろうと、意思を持って人間に言葉を投げかけたりするだろうか。僕は恐怖心を覚えて、何もしゃべろうとせずに、足早にその場を離れる事にした。
「行かれてしまうのですか。どうかお気を付けて。また日本橋にいらしてください」
 僕はその言葉から逃げるようにして、近くの銀座線の駅へと急いだ。


 それから二日ほど、街中の道路から何か話しかけられるという事は起こらなかった。だがあの時日本橋で体験した奇妙な出来事は僕の脳裏について離れなかった。
 その嫌な気分を払おうと、僕は休日に東京郊外に出掛ける事にした。家から中古で買ったベンツのGLKに乗り込み、中央自動車道を通って山梨の勝沼へと向かう。目的は美しい緑を見て気分をリフレッシュしたかったのと、気になっていた山梨のワインを手に入れる為だ。
 途中、談合坂のサービスエリアで休憩を取ったあと、再び車にのり勝沼インターで降りた。勝沼の街は内陸故に気温が高く、『ぶどう狩り』『甲州ワイン』と書かれた看板たちが二車線の道路脇に立ち並び、地元の名物であることを観光客たちにアピールしている。中古であるがベンツに乗りワインを買いに行くなど、自分が貴族のような身分になった錯覚を覚えた。
 僕はナビに入力した目的地の酒造メーカーの販売店にたどり着くと、以前購入してお気に入りになった赤ワインと、食後酒用の酒精強化ワインの二本を買った。
 その販売店から車で数分の所に、美味い白ワインで有名なワイナリーがあったので、そこに立ち寄って白ワインを買う事にした。車で来ているから試飲が出来ないので、僕は使われているブドウ品種の名前と値段を見て購入するワインを選ぶ事にした。
 僕が選んだのは日本品種の白ブドウである甲州を使った三〇〇〇円の白ワインを買う事にした。深緑のボトルに手作業で張られた優しい手触りのラベルが、僕にとっては好印象だった。
「そのボトル。ラベルが優しい感じでしょ」
 何処かで声が聞こえる。優しい感じの女の声だ。
「ええ、試飲は出来ないのですが、良いかなと思って」
「その子は、うちのお店で一番人気なんです。冷やしてお飲み頂くと美味しいですよ」
「そうですか」
 僕は小さく答え、自社のワインを人間に例えるなんて可愛い感性の人が居るなと思い、どんな人物だろうかと思って、後ろを振り返ったが誰も居なかった。
 何故だ。と僕は思った。確かに人間の声が僕の耳から頭のなかに入り込んできたのだ。それなのに人間の姿が見えないと言う事は、この前の日本橋と同じ事が起きたのだろうか。
「いま僕に声を掛けてくれたのはどちら様ですか?」
 僕は店内の誰も居ない方向に向かって呟いた。店内にはレジの店員と、ワインを買おうとしている五十代の女性とその応対の店員に、赤ワインのコーナーでテイスティングをしている二十代のカップルがいるのみだ。売り場に出ているのはテイスティングの応対をしている店員のみで、僕の近くに女の店員は居なかった。
「私です。一段下の棚にある二五〇〇円のボトルです」
 再び女の声が僕に聞こえる。僕は白ワインが置いてある棚を見た。そして二五〇〇円の値札が点けられている白ワインのボトルを見る。
「私です。私は外国産の品種を混ぜて使っているから安いんです」
 二五〇〇円のワインはそう答えた。目も付いていないのに、僕が自分を向いた事が分かったのだろうか。
「美味しいワインですよ。きっとあなたを喜ばせる事が出来ると思います」
 白ワインは僕に語った。僕は気味が悪くなり、買おうとしていた白ワインを棚に戻そうとした。
「待って下さい」
 今度は別の声がした。もしかして手にしているワインだろうか。
「嫌な思いをされましたか?申し訳ありません。別のワインが変な事を言って」
 声は僕の手に持ったワインから聞こえてきた。驚いた僕はワインのボトルを離して落としてしまいそうになるかと思ったが、感覚がおかしくなっているのか、ボトルを持ったまま力が入らなくなった。
「嫌なら戻しても構いません」
「お願いだから静かにしてくれ。二度と話しかけないでくれ」
 僕は話しかけて来た二本のボトルに対して言った。店内の他の客は、僕の様子がおかしい事に気付いたようだが構わなかった。ワインは襟を正すようにかしこまったのか何も言わなくなった。
 僕はワインを持ったまま無言でレジに向かい、会計を済ませて店を出た。勝沼の空はこの地が肥沃な事を示すかのように青く澄み渡り、遠くに見える山々と盆地は濃い緑色と翡翠色のグラデーションを作っている。だが僕の頭はそんな光景を愛でる余裕がないほど混乱していた。
 買ったボトルをベンツの後部座席にある他のボトルと一緒にして、ベンツに乗り込む。可能なら山梨で何か美味しい物でも食べてから東京に戻ろうとしていたが、それを中止にして帰る事にした。



 途中で休憩も入れずに中央自動車道をひた走り、首都高に入って永福の料金所まで来ると、ようやく僕は落ち着きを取り戻した。バックミラー越しに荷物を置いた後部座席を見ると、袋に入れた三本のワインボトルが横になっている。突然動き出したり、言葉を発するような気配はなかった。その事実を受け入れた僕は肩の筋肉が重くなり、鈍く痛んで嫌な汗が一気ににじみ出て来た。僕は空気を入れ替えようと窓を少し開けて、新板橋の出口へと車を走らせた。
 新板橋から高速を降りると、僕は板橋にある自宅マンションへと向かった。車をマンションの車庫に駐車すると、車のガソリンが底をつきかけているのに気付いたが、ガソリンを入れに行く精神的な余裕はなかった。車を降りて後部ドアの前に移り、ドアノブに手をかけて少し開く。ワインボトルは先ほどと同じように横たわっており、静物画のような静寂と澱んだ空気の中にあった。
 僕はまだ恐怖を感じていたが、思い切ってボトルの入った袋に手を伸ばした。そして袋を掴んで車を離れ、自分の部屋に戻った。
 部屋に入った僕は部屋の冷房を入れてすぐさまシャワーを浴びた。自分からにじみ出た嫌な汗と、染みついた奇妙な感覚を洗い落としたかったのだ。シャワーを浴び終え身体を拭きながらリビングに入る。冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、僕はそのまま一気に飲み干して、ソファーに沈み込んだ。そして目をつぶって眠りについた。
 冷房の効き過ぎた部屋で眠り込んでしまったせいか、僕は肌寒さを覚えて目を覚ました。テーブルに置いたスマートフォンを手に取り時間を確認すると、午後四時五十七分という表示と、付き合っている彩香からの電話着信を知らせる通知があった。パスコードを入力してロックを解除すると、僕は彩香に電話を入れた。心が不安定な時は親しい人の声を聞くと落ち着くはずだ。
 僕は彩香に電話をかけて、彩香に繋がるのを待った。三回ほど呼び出し音が鳴って、彩香に繋がった。
「もしもし?」
 彩香の声が電話越しに聞こえる。機械を経由しているとは言え、血の通った人間の声だ。
「もしもし。俺だよ。連絡をくれたのに気づかなくてごめん」
「ああ、それね。気にしないで。近所まで寄ったから電話をしてみたんだけれど、今日は出掛けるって言っていたよね」
「ああ、出掛けた。でももう東京に帰って来たんだ」
 僕は東京に帰った事実のみを離した。戻った理由は話せる訳がなかった。すこし驚いているような彩香の表情が僕の頭の中に浮かぶ。
「戻っているの?」
「そうだよ」
 僕は続ける。そしてひと眠りの後、彩香の声を聞いて落ち着きを取り戻している自分に気付いた。
「もし暇なら、ちょっと会わない?今水道橋に居るの。三田線でこっちまで来る?」
 彩香の言葉を聞いて、僕は部屋を出て都営三田線に乗り込む自分の姿を想像した。だが水道橋に向かう行程の途中で、街にある何かが僕に語り掛けてくるかもしれない。そんな不可解な出来事が起こるのではないかと思うと、僕は背筋に寒気が走るのを感じた。
「いや、あまり出たくはないな」
 僕は曖昧な表現を使って、外出を拒否した。電話の向こうで彩香が何か考えたようなうめき声を漏らす。彼女の気分を害してしまっただろうか。
「もし彩香さえ良ければ、俺の部屋に来るかい?ストックしてある酒で良ければ、一杯飲もうよ」
 僕が提案した言葉に彩香は少し考え込んだようだった。
「何があるの?」
 彩香は僕に訊いた。落ち着きを取り戻した僕は無造作にテーブルへ置いたままの三本のワインボトルを見た。
「山梨で買ったワインがある。赤と白の両方。おつまみは有り合わせの物で良ければ」
「それじゃ、三田線でそっちに行くわ。途中何か買ってくる物でもある?」
「弁当屋のチェーン店があれば、唐揚げか鶏むね肉のサラダを」
「わかった。じゃあ、そっちに行くね」
 彩香はそこで電話を切った。来客を招く事になった僕は。買ってきたワインを冷やし、提供する際に使うワインクーラーを用意して、冷蔵庫にある食材で料理を作る事になった。
 僕が作る料理は、早ゆでマカロニとツナ缶を使ったペペロンチーノ風と、ルッコラと生ハム、細かくしたカマンベールチーズを合わせたサラダ。湯むきしたトマトを使った卵炒めだった。最初にサラダを作り、その後マカロニとトマトを茹でた。マカロニはザルに上げてくっつかないようにオリーブオイルを回し、湯むきしたトマトと溶き卵、中華だしを使ってトマトをサラダ油で炒めた。程よい固さに卵が固まると、僕はトマト卵炒めを皿によそり、その後チューブのニンニクと鷹の爪をオリーブオイルで炒め、ゆでたマカロニとツナ缶を一缶入れて、ペペロンチーノ風を作り始める。すると僕の部屋の呼び鈴が鳴った。
「はい」
 僕は火を止めてキッチンを離れた。鍵を開けると、そこにはレジ袋を下げた彩香の姿があった。
「おまたせ。唐揚げを買ってきたよ」
「ありがとう。こっちこそ悪かったね。呼びつけたりして」
 僕は自分の身勝手を詫びたが、彩香は気にしないでと微笑んだ。
 僕は作りかけのマカロニを作り終え、彩香の買ってきてくれた唐揚げを並べて、二人だけの家飲み時間に入った。
「飲み物はワインがあるのよね」
「あるよ」
 彩香の言葉に僕は何気なく返したが、すぐにまた嫌な感覚がワインクーラーを用意し忘れた事と一緒に胸を駆け巡った。
「山梨のワイン、赤にしようか白にしようか?」
「白がいいわ」
 彩香はそう答えた。僕は気が進まなかったが。彩香と一緒なら変な声も聞こえてこないだろうと思い、席から立ち上がってワイン棚に入れたボトルを手に取った。やはり言葉を話すのは錯覚だったのだと思った矢先の事だった。
「私を開けるのですか?」
 やはり白ワインのボトルは僕に言葉をかけて来た。僕はその言葉を無視して、棚の近くに置いたソムリエナイフに手を伸ばした。
「新しいワインですか?国産品とはお珍しい」
 手に取ったソムリエナイフは、紳士的な言葉遣いで僕に語り掛けて来た。僕は心臓が凍り付きそうになり手元が止まったが、無視してナイフの刃を起こした。キャップシールを剥がしてコルク栓にスクリューをねじ込み、フックを飲み口にかけて引き抜く。
「私を選んでくれてありがとう。大切な人と楽しい時間を過ごしてください」
 コルク栓を開けた瞬間、白ワインは感謝の言葉を漏らした。思わず僕は変事をしそうになったが、ギリギリのところで口を噤んだ。
 僕はグラスを二つ用意して、その二つにワインを注いだ。白ブドウ由来の透き通った液体から放たれる酸味のある香りが、本来ならいい雰囲気を演出してくれるのだがそうはならなかった。僕は動揺を押し殺して席に着く。彩香はまだ僕の変化に気付いていない様子だった。
「それじゃ、乾杯」
 僕はグラスを軽く持ち上げて、彩香と一緒に過ごせることを祝った。彩香も照れくさそうにそれに答える。そのあと一口白ワインを飲んだが、動揺していた僕にはそれが美味いのかイマイチなのか判断できなかった。いつもなら様々なコメントが頭に浮かんでくるのに、白ワインを飲んでいるという事実以外、何も感想が無かった。
 同じようにワインを一口飲んだ彩香は、まず僕が作った料理を自分の小皿に盛り始めた。まずサラダ、次にトマトと卵。僕はマカロニと彩香が買ってきてくれた唐揚げを二個、自分の皿によそった。
「あなた料理が上手だよね。羨ましい」
 彩香は微笑みながら僕の事を褒めて、まずトマトと卵を口に運んだ。普段なら照れくさくなって、会話が弾む入り口になる筈の言葉だったのだが、今回はそうならない。
「ありがとう」
 当たり障りのない言葉を僕は返した。動揺を押し殺すようにして、傍らのワインクーラーに置いたワインのボトルを見た。恐ろしい事に、僕はワインのラベルを自分の方に向けてボトルを冷やしてしまっていた。
「よかったですね。褒めて頂いて」
 ワインボトルは嬉しそうな言葉を僕に投げかけた。自分がこの時間に役に立っている事が嬉しいのだろう。
「あの人は普段から料理もするし、ワイン選びにもこだわりがあるよ」
 傍らに置いたソムリエナイフがワインボトルの言葉に答える。
「じゃあ、私はこだわりのある人に買われたのですね」
「そうだよ。良かったね」
 ワインボトルとソムリエナイフの言葉は、楽しげに続いた。まるで歓楽街の客引きの二人が、お客が通らない事を理由に立ち話をしているような感じだ。この会話が聞こえない彩香は美味そうに僕の作った料理を口に運び、またワインを飲んでいる。すると、僕の様子がおかしい事に気付いたのか、彩香は僕の事を不安そうな眼差しで見た。
「どうしたの?」
 それまで楽しそうにしていた彩香が、急に神妙な声になって僕に訊く。僕は小さく「何でもない」と答えたが。隣に居たワインボトルが僕の変化を悟ったのか、こう口を開いた。
「どうかしましたか?」
「やめろ!」
 僕は耐えられなくなって大声を出した。そしてワインボトルをワインクーラーごと殴って、床に叩き落した。ガラスの砕ける音と共にボトルが砕けて、ワインと破片が床に散らばる。床にこぼれたワインの上にガラス片が浮かんでいる光景を見ると、僕は自分がわなわなと震えている事に気付いた。そして体中から嫌な汗がにじみ出ているのが分かると、一体何が起きたのか理解できないまま怯えている彩香の視線に気付いた。
「どうしたの?」
 震えながら彩香が僕に質問する。先程のように丸く弾性があった声は、古くなり後は腐るだけの果物のように弱々しかった。
「すまない」
 僕は全身に嫌な感覚が駆け巡るのを感じながら、彩香に詫びた。
「実は、この前から聞こえない筈の声が聞こえるようになったんだ。道路の印やワインボトルなんかからの言葉が。ごめんよ、驚かせてしまって」
 僕は涙をこらえる子供みたいに、そう事実を彩香に話した。彩香にだけは、嘘はつきたくなかったのだ。そうして事実を告白すると、体中の力が抜けて僕は床にへたり込んだ。ゴムの風船の中に入っていた空気が、ゆっくりと抜けてしおれるような感覚だ。
「そう、辛かったでしょ」
 彩香の言葉は微かに震えていたが、僕を労わる気持ちに満ちていた。そしてへたり込んだ僕の左手をそっと手に取って、こう続ける。
「明日、仕事を休んで病院に行った方がいいよ。私もあなたが治るように協力するから」
「ありがとう」
 僕は力なく答えた。それ以外に言葉が出なかった。

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