覗き込んだ穴は

文字数 1,100文字

 僕が埼玉県北部に引っ越して、四か月。周囲に草むらや田畑が広がる一本道を歩いていると、目の前に「のぞくな!」と書かれた立て看板が有る事に気付いた。
 僕はその看板がある所まで進み、近くを見回した。何も覗くものなんてないじゃないか。と騙されたような気分を味わってその場を離れようとすると、ガサガサと近くの草むらで何かが蠢く音が聞こえた。
 立ち止まって音の聞こえた方向に振り向くと、その部分だけ草むらが無くなっている事に気付いた。僕はそこに向かって進み、草むらの無くなっている所を開くと、直径一メートルほどの大きさに開いた穴がそこにあり、澱んだ泥水が溜まっていた。それだけ何ともないただの水たまりであったが、僕の顔がその水に映るとさざ波が立ち、中心部が黒く開いたと思うと、僕の意識は真っ暗になった。

 気が付くと、僕は濁った世界の中に居た。上を見上げると、さっきまで僕が居た場所の空が見える。どうやら僕はこの水たまりの中に引き込まれてしまったらしい。
「あんたも、この水の中に引き込まれたんだね」
 背後で女の声がする、また振り向くと、そこには浅黒い肌に黒い髪の、古い着物に身を包んだふくよかな感じの女が一人いた。侍がまだいた頃の、農家の娘のような雰囲気だ。
「この穴はね、覗いた人間を引きずり込むの。私も言いつけを守らずにこの穴を覗いたから、ここに引き込まれたの」
「君はずっとここに一人でいたのかい?」
 僕は女に質問した。
「何年も昔に。あなたが二人目」
「ここから出られる方法はあるの?」
「知らない。誰も教えてくれないの。あなたも知らないからこの穴に落ちたんでしょ」
 女の言葉に、僕は返事を返す事が出来なかった。僕はこの土地の事を何も知らずに穴を覗いてしまったから、落ちてしまった事に今更だが気付いた。
「ここに居たら、いずれ死ぬだろうね」
「ここに居たら死なないよ。永遠にこの姿のままでこの場所に居るの」
 女は力なく答えた。容姿からして、彼女がここに落ちたのは百年くらい前だろうか、飲まず食わずで永遠に生きられるなら、悪いことでは無いような気もする。
「一人で寂しかったかい?」
 女に声を掛けると小さく頷いた。生まれた時代も育った環境も違う僕達だったが、会話できる相手が居るなら悪い気は無かった。
 それから僕と女はお互いの事を話しあい、自分の知っている知識を披露しあったりしてしばらく過ごした。そうして仲が深まると、飼育されている実験動物よろしく肌を重ねた。

 しかしそれにも飽きてしまうと、僕と女は再び空を見上げた。そうしてまた誰かが穴を覗いて入り込んでくるのを待っているのだが、一向に誰かが覗き込む気配はない。


(了)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み