第17話

文字数 1,419文字

 だが、ここで大いなる誤算が生じた。卵を割るという難関が、依里子の目前に立ちはだかったのだ。
「なにこれ、難しい! 本物の卵って、こんななの?」
 そう、彼女が今まで使っていた“卵”は、それらしく味付けをした紙パック入りの“卵風”合成液。よって、これまで殻を割るという作業をしたことがなかった。

 ちなみに、これは、この家に関して依里子を驚嘆させたことの1つだった。
 卵といい、ほうれん草といい、この家の食材ときたら、合成や代替食品が全盛のこのご時世に“本物”ばかり! 卵には鶏が(しかも地鶏が)産んだことを証明するシールが貼られているし、コーヒー・紅茶用の生クリームもちゃんと牛乳から作られたものだし。今どきこんな高級品ばかり使ってるだなんて、さすが金持ち。そのおかげで、今はちょぉっとだけ苦労させられているけど、私もいずれはその金持ちの仲間入りをして―そんな夢想で心を励ましつつ、作業に戻ることにした。

 ボウルに割り入れた卵には、殻がちらほらと浮かんでいる。どろっとした半透明の液体に箸を入れると、小さな欠片はつるつると逃げて行った。ああ! ピンセットがほしい!
 ようやく殻をすべて取り除いて、箸で卵を混ぜる。混ぜるべし! 混ぜるべし! …この透明なところと黄色いところを混ぜ合わせるの、かなりの重労働だわ。筋肉痛の体には地味に堪える。そうしてようやく混ぜ終えた卵に塩胡椒を加えて、あとは、あらかじめ熱しておいたフライパンに入れて焼くだけ―。

 じゅわっ!

「うひゃあ!!」

 卵を入れた途端、ものすごい煙が出て一瞬で焦げついた。もしかして、フライパン熱すぎた? 一旦冷やそうと水道水をかけると、今度はもうもうと煙が立ち上り再び心臓が跳ね上がる。それを何とか鎮めながら、

「と、とにかくこれで冷えたはず…」

 と呟き、焦げ付きをざっと落としてから、もう一度フライパンを火にかけた。
 残りの卵をそろそろと流し入れると、今度は何も音がしない。冷やし過ぎた? ま、そのうち温かくなるでしょ。と、そのとき、ごぼごぼと言う音が耳に入った。視線を向けると、お浸し用のお湯がすごい勢いで沸き立っている。

「やばっ!」
 慌てて火を弱めて、ほうれん草を取り出してザクザク切って投入する。
「あ! そうだ! 塩!」
 投入した瞬間、昨夜見ていたネットの情報が蘇り、塩を一つまみ湯に投入した。何のためなのわからないけど、何か意味があるんでしょう、きっと。
 ほうれん草はすごい勢いで鍋の中を回遊し、あっという間にぐんにゃりとした感じになった。すぐに火を止めて、ざるに上げる。お料理チャネルで見た盛り付けを再現するには、これを絞ればいい、のよね??―
 と思ううちに、何かの匂いが鼻をつく。しまった! 卵!
 慌てて駆け寄り火を止めるが、卵は、再び焦げ付いてしまっていた。こんなの出すわけにいかない。泣きたい。新たに卵を割り混ぜるけれど(あら今度は割とうまく行った)、でも卵、どう見ても分量が足りない。どうしよう??
 と見渡すと、依里子の目に、味噌汁の出汁から引き揚げた昆布と鰹節の下に水分が溜まっているのが映った。これ、まあ、出汁の親戚みたいなものよね。世間には、出汁巻き卵という食べ物もあることだし、これを卵に入れたらどうかしら?
 朝食を出す時間まであと30分。大幅にゆとりを見たつもりがギリギリになっている。もう、やってみるしかない。

 意を決して、考えを実行に移すべく動き出した。
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