第47話 依里子、着付けに奮闘する

文字数 1,146文字

 一息ついたら私の部屋に来て頂戴ね、見せたいものがあるから。
 玄関に入ると貴禰はそう言い置いて、さっさと自室のほうへと消えて行った。これからネットで副業探ししようと思っていたのに、何かしら? 本当に、年寄りってば勝手なんだから。
 そう言いながらも、実は、依里子の気分はちょっとだけ昂っていた。なぜなら、今、初めて、貴禰の自室に呼ばれたから。これまでは居間や談話室(そんな部屋まであるのよ、このお屋敷ってば!)なんかに呼ばれはしたけれど、こうして部屋に呼ばれることはなかった。これはつまり、信頼を得られてきたってことかしら?

        ***

「失礼します」
 屋敷に住むことになったときに念のためにともらった見取り図(!)を見つつ訪れた貴禰の部屋は、屋敷の最奥、庭に面した洋室と和室のスイートだった。足を踏み入れて、驚嘆する。広い。そして、おしゃれ。
 そう言えば、と思い出す。今日、出がけに会ったときに、貴禰は、お茶の道具みたいなものを持っていたっけ。お茶を習えって言われるのかしら。おそるおそる手前の洋室に足を踏み入れると、ほらこっちよ、と、奥の和室のほうへと導かれた。部屋の床は、一面、布、布、布! え、これって、着物? すっごく高そうなものが何枚も畳の上に広がっていた。全部でいくらになるの、これ? 久々に脳内計算機が立ち上がりそうになるのを何とか押しとどめ、貴禰に尋ねた。

「どうしました、これ? 虫干しですか?」 
「何言ってるの。あなたが着るのよ。どんな感じのが好きかしら?」
「へ? 私が着る? そんなもったいない、結構です!」

 着物は着たことはないけれど、絶対にごめんだわ、と依里子は思った。なぜなら、覚えていたからだ。子どものころ、七五三やら1/2成人式やらの折に和装させられていたクラスメイトが、動きづらいし重たいし、とにかく苦しい! と、文句たらたらだったことを。成人式の日に会った“友人たち”が、道行く人の視線を集め澄まし顔で歩いていたくせに、お茶しようと一度座ってしまうと、着物がこんなに動きづらいとは、重たい、きつい、と、愚痴りっぱなしだったことを。あのときには自分だけ洋装で(ここに面接に来たときの、あの紺のワンピ)、たいへんね、と口先だけで同情してみせたのだけれど。
 あんな目に、今になって遭うなんて、やだやだ、無理無理! そう思いながらも、床に広がる華やかな布の波から目が離せない。…数十万から百万を超えるものもあるらしいのに、それが、こんな無造作に広がっていたら、まあ、無理もないわよね。

「結構です、じゃないわよ。着てもらいますよ。いいこと?」
 ぼうっとしていたら、叱るような諭すような口調で言われた。拒否権は、無しですか。そうですか。…ほんと、強引なんだから。
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