第51話

文字数 1,307文字

「もう、もう、なによもう、大概にしてよね!? あれこれ細かいこと、好き勝手に言ってくれちゃって! 皮は捨てるな? なによ、ケチくさい!!」

 自室に戻って扉をきっちりと閉めてから、心の底からふつふつと沸き上がる怒りに任せ依里子はそう毒づいた。慣れない丸のままの食材との格闘だけでも一苦労なのに、そこに貴禰のかくも細かな指導が入るのだから、本当にたまったものではない。陰でこの程度の罵詈雑言を吐くことくらいは許されてしかるべきだ、と心から思う。

 両の掌を広げ、たくさんのキズ保護テープが巻かれた手指をじっと見つめ、マンガみたい、と呟く。そばであれこれ言われてすっかりペースを崩し、うっかり指を切ったり熱い食材が跳ねる直撃を受けたりして、作る料理は、ことごとくどこかしら失敗が伴ったものとなった。もったいないの一言で食卓に上ったそれらを、依里子は惨めな気分で眺め、味わった。
 でも。
 そこで、ふと思い当る。どんなに自分が惨めな気持ちになる料理でも、味がひどくても、そのことについては、ばあさん、何も言わないわね。
 くたくたに煮え過ぎたり逆に固すぎたりした野菜類も、ちょっとどころではなく焦げ付かせてしまった炒め物も、いただきます、と手を合わせた後は、ただ一心に味わっている。たまに、『この味付けいいわね、美味しいわ』みたいなことを言うものだから、つい、キレて料理を投げ出す機会を失ってきたのだ。

「変な人よね、貴禰さんって」

 珍しく(というか初めて)焦げずに作れた卵焼きを絶賛した彼女の顔を思い出して、依里子は顰め面でため息を吐いた、つもりだったが。その顔にはわずかに穏やかさが漂っていた。本人も、気づかないほどに。

        ***

 料理だけじゃないのよね、ばあさんのこうるさ…もとい、懇切丁寧、ありがたーいご指導は。

 ひとしきり毒づいて落ち着いたところで、依里子は貴禰の“指導”を思い返した。
 食卓では、それこそ箸の上げ下ろしまで疎かにさせてくれない。“美しい所作”とやらも、教え込もうとしてくる。どこに出ても恥ずかしくないマナーを叩き込む! それは人生の大事な財産! という信念だそうで、とんだ有難迷惑だわ。
 それに、食事関連だけじゃない、掃除、洗濯アイロンかけに繕い物(今どき、穴が空いても着続けるなんて、極貧でもない限りあり得ないって! まあ、私は、そんな理由でこれは結構得意だけれど)などなど、家事全般に及んでいるのよね。さらには、お茶や着付けのお稽古に余裕が出てきたら生け花もやりますよ、ああ、その前に一度お着物でお茶会に行って、お点前を実践してみましょう、なんて恐ろしい予告も聞かされている。
 この状況を一言で表すなら、これがぴったり―お先真っ暗。

 だが、貴禰のそんな信念に基づく特訓をとんだ有難迷惑と思いながらも、依里子は必死に教えられたことをメモパッドに書きつけ頭の中で復習するのを、完全に習慣化させていた。そして、時間と機会が許す限り実際にそれらを反復し実践し続けた。今だけの辛抱、一度覚えたらこっちのもの、と呟きながら。

 そうして、確かに、彼女が書きつけた内容には『クリア』が確実に増えていた。
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