第79話 依里子、ピグマリオンに迷う

文字数 1,083文字

 秋とは思えないほど暑くなった、10月初旬のある日。たかなしと一緒の勤務になった依里子は、休憩時間も勉強に勤しむ彼に、がんばっていますね、と声を掛けてみた。以前だったら、ああ、とか、はあ、とか仏頂面で一言返されてすぐ沈黙が続くところだったろうけれど、今の彼は違う。ぱっと笑顔になって、もうすぐ一次試験ですからね、と返してきた。
「勉強に付き合ってくれるアイさんに報いるためにも、がんばらないと」
「ああ、アイさん。ずっと教えてくれているんですか?」
「うん、仕事の合間なんかに過去問を出してくれる。で、俺が間違えやすいところ、勉強がまだ足りていないところを分析してくれるんです」
「ふーん」
「彼女は本当にすごい! 勉強の進み具合を把握して、進捗を教えてくれるんです。ここはクリアしています、今度はこの分野をもっと勉強するとよいでしょう、って。…クリアしたときには、すごく褒めてくれて、つい乗せられている感じ?」
 最後のほうはちょっと照れ混じりの声で言われ、思わず『ピグマリオン』と呟いてしまった。そう、あれから調べたの。自分が作った生命の無い彫像に恋をした、古代の王様の話を。読んでいて思った、これってあれ? フィギュアが嫁、みたいなもの?
「そう、まさにそれ!」
「えっ!?」
 呟きに意外な大声で反応されて仰天する。まさにそれって、認めちゃうわけ?
 依里子の困惑に気づくことなく、たかなしは、それもまたアイさんのすごいところじゃないかな、と続けた。すごいところ? って?
「え? 何が?」
「え? だから、ピグマリオン効果のことでしょ? アイさん、とにかくすっごく褒めてくれるんだよね。試験問題出してくれて、前回よりちょっとでもアップすると、すごいです! って。成績下回っても、でも、この項目は伸びています、苦手とされていたところを克服されていますよ、って。やっぱ、お前はダメだ、もっとがんばれって言われるより、気分よく勉強できるじゃないですか?
 ほんと、人って、褒められると伸びるもんなんですね。アイさん、それをわかっていて巧みに褒めてくれてるんじゃないかって、そう思ってるんだけど」
 ピグマリオン、効果? よくわからないけど、とりあえず調子を合わせておく。
「そう言えば、私のこともよく褒めてくれます。がんばろうって思いますね」
「でしょ? やっぱりそうだよね!」

 嬉しそうなたかなしさんを見ていたら、今さらな感じがして聞けなくなった。ピグマリオン効果…これも、後で調べなくちゃ。
『聞くことは一時も恥じゃない』、以前そう言われたけれど、わかってはいるけれど…なかなか難しいのよね。
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