第48話
文字数 2,145文字
「好きな色はあるかしら? 柄は? あなた、普段からおとなしい服ばかり着てらっしゃるわよね。あんまり派手やかなのは、好みじゃないのかしら?」
それならこの辺がお奨め、そう言いながら貴禰が示したのは、薄いピンクの無地の着物と、一見無地のようでよく見るとわずかに柄が浮き出た薄紫の着物だった。どちらのほうがお好き? そう聞かれた依里子は、だが、咄嗟に答えられなかった。なぜなら、思ってしまったから。
『どちらも、特にピンクのほうなんて模様も何もないただの無地。何それ、面白みのない。私には、そんなもんで十分ってこと?』
華やかな色や柄がまばゆく散らばる中から奨められた着物のあまりの地味さに、なぜかムッとした。私が普段地味な格好をしているのは、そのほうが無難だし幅広いシーンに応用が効くからに過ぎなくて、決して地味好みというわけではない。もちろん、貴禰さんはそんなこと知らないわけで、私が単なる地味好きなんだと思ってもしかたがない。それに、そもそも着物はごめんだと思ってるくせに、何か面白くないだなんて、我ながら矛盾しているとは思うけれど。
ま、何でもいいわ、どうせ着せられることになるんだし。何となく反抗的な気持ちになって、依里子はあえて地味で面白みがないと思ったピンクのほうを示し、
「ええ、どちらも素敵だと思います。特にこちらが、よいですね」
と言った。途端に、あら、と貴禰が驚きの表情になり、ドキリとする。
え? 私、何か変なこと言った? まさか、本音が伝わっちゃったの? 依里子が慌てて猫を被りなおし言葉を探していると、
「そう思う? このお着物の味わいがわかるのかしら?」
と、聞き返され、え、と言葉に詰まった。味わい? この、地味で面白みのなさげな着物の? よく意味がわからないけれど、ここはとりあえず話を合わしておくべきね。とっさにそう判断し、依里子は慎ましやかな笑みを浮かべて口を開いた。
「味わいとかは不勉強でわかりませんけれど。でも、なんとなくですけど、素敵だと思います。なんとなく品があると言うか…あの、なんとなく…」
「あらそう。これは、江戸小紋って言うんですよ。小紋はね、基本カジュアルなものだけれど、江戸小紋は、フォーマルな席で着る色無地と同等に扱うことができるの。もちろん、カジュアルな場でも着られるし、とっても応用が効くお着物よ」
「江戸顧問? 色むじ?? カジュアルだけど、フォーマルなんですか?」
意味がわからない言葉が次々に出てきて、しかも矛盾することを言われ、依里子は混乱した。つまり、高級扱いされることもあるけどその実は普段着で、そのなんちゃって感が面白い、ってこと? それが私に合うってこと? …まあね、我ながら、上等な着物が似合うような柄じゃあないと思うし。品があるとか言って、わかってないと思われたかしら。ていうか、顧問って誰のこと?
首を傾げていると、眉間にしわが寄っているわよ、と注意された。
「色無地はね、柄が入っていない無地のお着物のことよ。格が高いとされているの。小紋は、細かな柄が一面に入ったお着物で、普段着に使うことが多いわね。でも、こんな風に一目見て模様がわからないものは、色無地の代りに使えることもあるのよ」
「え? これ、柄が入っているんですか?」
どう見てもピンク一色だけど、そう思いながら訊ねると、
「そうよ、ほら、近づいてよく見てごらんなさい」
そう言いながら貴禰が差し出した着物をよく見てみると、そこには、小さなうさぎや亀の模様が細かな紅い点々でびっしりと描かれていた。
うわあ、何これ、細かい! この細かい模様の点々が、遠目には薄いピンクに見えていたのか。丸っこいうさぎは雪うさぎみたい、何だか可愛らしい―。
そんなことを思いながら依里子がしげしげと着物を眺めていると、その様子に貴禰は、満足げに頷き、こっちは宝づくし、と、もう1枚の着物を依里子の前に置いた。
あ、これも遠目には薄紫だけど、よく見るとやっぱり点々で絵が描かれている。これは…打出の小槌? それに、小判? 巾着?
「そう、だから『宝づくし』よ」
「宝、づくし?」
「ええ。いろいろな宝物が描かれている、縁起の良い柄とされているの」
「縁起がよい。そうなんですね」
昔の人って、面白いことを考えるなあ。そんなことを考えながら依里子がさらに見入っていると、貴禰はさらに奥の箪笥からいろいろと出してきた。何? ああ、帯? これも随分いろいろあるのねえ。キラキラのものから抽象画みたいなものまで。
「お着物には難しいルールがあってとっつきにくい、という人もいるけれど」
「はあ…。ルール、ですか?」
「そう、柄や仕立て方によって着られる時季が決まるとか、帯とお着物の格は揃えなきゃ、とか。でもね、こんなものは割と最近、お着物を高級品に仕立てようって戦略の一環として考えられたものだそうだから、そう堅苦しく考えなくていいんですよ。自由に楽しむのが一番! それにはね、自分ひとりで着られるようになることね。着られるようになると、いろいろと楽しめるようになるのよ、本当よ?」
「はあ」
心の中ではため息を漏らしつつ、依里子は、楽しげに語り続ける貴禰の話に神妙な顔で耳を傾け続けた。ざっと2時間ほど。
それならこの辺がお奨め、そう言いながら貴禰が示したのは、薄いピンクの無地の着物と、一見無地のようでよく見るとわずかに柄が浮き出た薄紫の着物だった。どちらのほうがお好き? そう聞かれた依里子は、だが、咄嗟に答えられなかった。なぜなら、思ってしまったから。
『どちらも、特にピンクのほうなんて模様も何もないただの無地。何それ、面白みのない。私には、そんなもんで十分ってこと?』
華やかな色や柄がまばゆく散らばる中から奨められた着物のあまりの地味さに、なぜかムッとした。私が普段地味な格好をしているのは、そのほうが無難だし幅広いシーンに応用が効くからに過ぎなくて、決して地味好みというわけではない。もちろん、貴禰さんはそんなこと知らないわけで、私が単なる地味好きなんだと思ってもしかたがない。それに、そもそも着物はごめんだと思ってるくせに、何か面白くないだなんて、我ながら矛盾しているとは思うけれど。
ま、何でもいいわ、どうせ着せられることになるんだし。何となく反抗的な気持ちになって、依里子はあえて地味で面白みがないと思ったピンクのほうを示し、
「ええ、どちらも素敵だと思います。特にこちらが、よいですね」
と言った。途端に、あら、と貴禰が驚きの表情になり、ドキリとする。
え? 私、何か変なこと言った? まさか、本音が伝わっちゃったの? 依里子が慌てて猫を被りなおし言葉を探していると、
「そう思う? このお着物の味わいがわかるのかしら?」
と、聞き返され、え、と言葉に詰まった。味わい? この、地味で面白みのなさげな着物の? よく意味がわからないけれど、ここはとりあえず話を合わしておくべきね。とっさにそう判断し、依里子は慎ましやかな笑みを浮かべて口を開いた。
「味わいとかは不勉強でわかりませんけれど。でも、なんとなくですけど、素敵だと思います。なんとなく品があると言うか…あの、なんとなく…」
「あらそう。これは、江戸小紋って言うんですよ。小紋はね、基本カジュアルなものだけれど、江戸小紋は、フォーマルな席で着る色無地と同等に扱うことができるの。もちろん、カジュアルな場でも着られるし、とっても応用が効くお着物よ」
「江戸顧問? 色むじ?? カジュアルだけど、フォーマルなんですか?」
意味がわからない言葉が次々に出てきて、しかも矛盾することを言われ、依里子は混乱した。つまり、高級扱いされることもあるけどその実は普段着で、そのなんちゃって感が面白い、ってこと? それが私に合うってこと? …まあね、我ながら、上等な着物が似合うような柄じゃあないと思うし。品があるとか言って、わかってないと思われたかしら。ていうか、顧問って誰のこと?
首を傾げていると、眉間にしわが寄っているわよ、と注意された。
「色無地はね、柄が入っていない無地のお着物のことよ。格が高いとされているの。小紋は、細かな柄が一面に入ったお着物で、普段着に使うことが多いわね。でも、こんな風に一目見て模様がわからないものは、色無地の代りに使えることもあるのよ」
「え? これ、柄が入っているんですか?」
どう見てもピンク一色だけど、そう思いながら訊ねると、
「そうよ、ほら、近づいてよく見てごらんなさい」
そう言いながら貴禰が差し出した着物をよく見てみると、そこには、小さなうさぎや亀の模様が細かな紅い点々でびっしりと描かれていた。
うわあ、何これ、細かい! この細かい模様の点々が、遠目には薄いピンクに見えていたのか。丸っこいうさぎは雪うさぎみたい、何だか可愛らしい―。
そんなことを思いながら依里子がしげしげと着物を眺めていると、その様子に貴禰は、満足げに頷き、こっちは宝づくし、と、もう1枚の着物を依里子の前に置いた。
あ、これも遠目には薄紫だけど、よく見るとやっぱり点々で絵が描かれている。これは…打出の小槌? それに、小判? 巾着?
「そう、だから『宝づくし』よ」
「宝、づくし?」
「ええ。いろいろな宝物が描かれている、縁起の良い柄とされているの」
「縁起がよい。そうなんですね」
昔の人って、面白いことを考えるなあ。そんなことを考えながら依里子がさらに見入っていると、貴禰はさらに奥の箪笥からいろいろと出してきた。何? ああ、帯? これも随分いろいろあるのねえ。キラキラのものから抽象画みたいなものまで。
「お着物には難しいルールがあってとっつきにくい、という人もいるけれど」
「はあ…。ルール、ですか?」
「そう、柄や仕立て方によって着られる時季が決まるとか、帯とお着物の格は揃えなきゃ、とか。でもね、こんなものは割と最近、お着物を高級品に仕立てようって戦略の一環として考えられたものだそうだから、そう堅苦しく考えなくていいんですよ。自由に楽しむのが一番! それにはね、自分ひとりで着られるようになることね。着られるようになると、いろいろと楽しめるようになるのよ、本当よ?」
「はあ」
心の中ではため息を漏らしつつ、依里子は、楽しげに語り続ける貴禰の話に神妙な顔で耳を傾け続けた。ざっと2時間ほど。