第36話「そして、夏が来る」

文字数 3,484文字

 その日は終業式だった。

 授業はないし、夏休みの幕開けを告げる日なだけあって、誰も彼もが浮かれてた。

 クラスで浮かない顔をしてたのは、この僕くらいじゃないだろうか。

 別に夏休みが憂鬱なわけじゃない。
 単に体調が優れなかったからだ。

 学校を休むほどではないけれど、お腹が痛くて、終業式に出るのは少し、しんどそうだ。

 なので僕は、いつものあの場所へ向かった。

 ☆ ☆ ☆

 終業式のためにみんな講堂へ向かったから、特別棟の廊下は、いつにもまして静かだ。

 ぺたぺたという、僕の足音だけが響く。

 初めてその部屋プレートを見た時には驚いたものだが、今やすっかりお馴染みの、『第二保健室』。

 その引き戸を、コンコンとノック。
 
「――どうぞー」

 少しだけ間があり、中から、これまた馴染みの返事。

「失礼します」
「いらっしゃい、一号くん」

 引き戸を開くと、いつものように、ミナちゃん先生が笑顔で僕を迎えてくれた。




 いや、〝いつものように〟ではない。




 違和感があった。
 そしてその正体にも、すぐに気づいた。
 だから――、

「どうかし――」
「どうかしましたか? ミナちゃん先生」

 ミナちゃん先生の言葉を遮って、そっくりそのまま、お返しした。

「え……」と、ミナちゃん先生が固まる。

 その反応で、図星だったと確信する。

 違和感の正体は、ぎこちない笑顔。

「…………」

 ミナちゃん先生の目が泳ぐ。
 小さな唇が、きゅっと結ばれる。

 何か、胸のうちに秘めているものがあるのだろう。
 けれどそれを僕に話していいものかどうか、考えあぐねているようだった。

 ならばと、僕はこう続けた。

「僕はちょっとお腹痛いので、休ませてもらおうと思って来ました」
「あ、……だったらベッドに――」
「でも、ミナちゃん先生がそんな様子じゃあ、休めませんよ。心配で」
「!」
「だから、何かあったなら言って下さい」
「…………」

 ちょっとずるくて、強引な手だと思う。

 だからこそミナちゃん先生も、困り顔でくたりと笑ったのだろう。

 けれどその甲斐あってこそ、ミナちゃん先生は観念したように、口を開いてくれた。

 ☆ ☆ ☆

 寝ないと何も話してあげないと、今度は逆に脅されたので、僕はベッドに潜り込む。

 するとミナちゃん先生は、ベッド脇にスツールを転がしてきて、腰掛けた。

 そして、ぽつりぽつりと話し始める。

「今日、終業式じゃない?」
「はい」
「だからこの一学期を振り返って、ちょっと考え事をしてたの」
「ええ」
「それで、ふと思ったのよね。
結局、第二保健室をまともに利用してくれたのは、一号くんただ一人だったなぁって」

 自嘲、徒労感、無力感……その声音には、そんな響きがあった。

「朱雀井さんもいるじゃないですか」

 僕がすかさずフォローするも、ミナちゃん先生は首を横に振り、「あの子は一号くん目当てだもの」と笑った。

 もどかしいが、僕はそれに、異論を挟めない。

 ミナちゃん先生が続ける。

「それでわたしね、すっごく悪い子だって気付いちゃったの」
「悪い子?」
「うん。だってわたし、もっと人が来ればいいのにって考えてる」
「あ……」

 ここまででもう、なんとなくわかってしまった。
 ミナちゃん先生が、一体何を思い詰めているのかを……。

「それって、誰かが怪我すればいいのに、病気すればいいのにって考えてるのと一緒」

 ミナちゃん先生の声が震える。

「本当は保健室の先生なんて、あくびしてるくらいのほうがいいのにね。
おまわりさんとか消防士さんとかと一緒で、平和な証拠だもん。
なのに、自分が認められたいばかりに、人の不幸や不運を望んでる」

 ミナちゃん先生の瞳がうるむ。

「……一号くんに対してもそうなんだよ? わたし……。
一号くんがうちに来ないのは、元気な証拠のはずなのに……一人でこの部屋にいると無性に寂しくなって、どっかで一号くんの体調不良を望んじゃってるわたしがいる……。
そういう、ひどい気持ちが、どんどん強くなってる……っ」

 そして絞り出すように、一言、呻いた。

「醜い……!」
「…………」

 自己嫌悪――ミナちゃん先生を(さいな)んでいたのは、それだった。

 理屈はわかる。なるほど、確かにその論法なら、自分を悪い子とも捉えられよう。

 共感もする。自らのそんな悪性に気付いてしまったら、ショックも受けよう。

 でも……。

 それでも……。




 僕はそれに同意しない。




「豆腐メンタルですね。ミナちゃん先生って」




 僕は強く言い放った。

「――……へ?」

 ミナちゃん先生が、意表を突かれたように顔を上げた。

 キョトンとするミナちゃん先生に、僕は言い連ねる。

「知ってますか? 豆腐メンタルの意味」
「え? えっと、精神的に脆くて弱い人のことじゃ……」
「はい。そうです。でも、白くて綺麗って解釈もあるそうですよ」
「…………」

 マブダチから借りた言葉――それは、目から鱗といったように、ミナちゃん先生をはっとさせる。

 凝り固まっていた心をほぐす。

 そうしてほぐれた心の隙間に、僕はそっと注ぎ込む。

 今度は誰からの借り物でもない、自分の言葉を――思いの丈を――。

「醜いもんですか。
先生は白くて綺麗すぎるから、とるに足らないことまで汚く見えてしまうだけです。
それに、体調不良は忌むべきことのはずなのに、どっかで望む気持ちもあるのは、僕も同じですよ。
なんでかってそりゃあ、先生に会えるからです。
僕、ずっと自分の虚弱体質のことが大嫌いだったのに、最近はちょっと感謝すらしてるんです。
なんでかって、この体質のおかげで、先生とこうして仲良くなれたからです」

 そこまで言い切った時にはもう、ミナちゃん先生は俯いてしまっていた。
 
 膝の上でぎゅっと拳を握り、肩を震わせていた。

 そしてそれが、苦痛によるものではないことはわかっていたから、僕は最後、こう続けた。




「僕は悪い人と仲良くなれて、喜べるような人間じゃないですよ。
僕が保証します。先生はいい子です」




 少しだけ、沈黙があった。

 やがてミナちゃん先生は、ずずっと(はな)をすすり、涙声で言った。

「……生徒の前で泣く教職員って、失格だと思うのよね」
「そうですか?」
「そうよ。絶対そう。だから、一号くん。ちょっと寝返りうって、あっち向いてて」

 言われた通り、僕は寝返りをうつ。

「こっち見ちゃダメだからね」

 ミナちゃん先生が言った。

 僕がそれに返事をすると、毛布をめくられた。

 そしてもぞもぞと、僕の背中にしがみつくように、ミナちゃん先生がベッドに潜り込んでくる。

 その直後。




「ふ、ふ、ふいーーーーーーー……」




 堰き止めていたものが決壊したように、ミナちゃん先生は声を上げて泣いた。

「ありがどぉ、一号ぐん~~~……」
「……こちらこそ。ミナちゃん先生、あったかくて、お腹の痛みにちょうどいいです」
「! ふ、ふ、ふええええええええ」

 背中にしがみつく力が強くなる。

 背中に顔を押し付けられる感触も強くなる。

 きっと、ワイシャツは涙と鼻水でぐしゃぐしゃだろうな――そんなことを考えながらも、僕はじっとミナちゃん先生の抱きまくらとして、静かに横たわっていた。

 ☆ ☆ ☆

「保健室の先生って、夏休みの間、何してるんですか?」

 ミナちゃん先生が落ち着いて、僕の腹痛も落ち着いて、二人してぬるめのお茶を飲む。

「本当は出勤らしいけど……おじいちゃんがお休みをくれたわ。
だからわたしも、一号くんたちと同じように夏休みね。
まぁ、養護教諭のための研修とかセミナーには積極的に出るつもりだけど」
「そうですか……。じゃあ、たくさん遊べますね」
「そうね」

 ミナちゃん先生が頷くと同時、チャイムが鳴った。

 それは、放課を告げるチャイムで――、

「……なりましたね、夏休みに」
「ええ、なったわね」
「それじゃあ早速ですけど、遊びに誘っていいですか?」
「わたしのほうこそ!
一号くんと行ってみたいところ、したいことがたっくさんあるの!
誘っていーい!?」

 


 そして、夏が来る――。
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