第26話「遅刻の理由」
文字数 1,975文字
「廊下に立っとれ」
「はい……」
よりにもよって、一時間目が古典の日に遅刻をしてしまった。
古典の先生といえば、僕と折り合いの悪い、あのおじいちゃん先生だ。
遅刻の理由を問われたので「寝坊です」と答えたところ、先の退室命令を受けたというわけだ。
さてどうしよう。
素直に廊下に立ち続けるには、残りの授業時間は長すぎる。
ということで、僕は例のごとく第二保健室へ向かった。
そこで自主学習をさせてもらおう。
するとその道中、白衣の女性とばったり鉢合わせになった。
「あ~、おはよう一号く~ん」
「おはようございます」
ミナちゃん先生ではない。ゆるふわな声音と雰囲気を振りまく、芽野先生だ。
芽野先生は人差し指を唇に当てて、「あれ~?」と小首を傾げる。
「もう授業始まってるよ? 体調悪い?」
「いえ、実は遅刻しちゃって、教室に入れさせてもらえなくて」
「えー……ケチだねぇ。遅刻の理由は? ちゃんと言った?」
「まぁ、しょうがないですよ。ただの寝坊ですし」
「えー」
芽野先生は眉尻を下げて、唇を尖らせる。今ひとつ釈然としていない様子だ。
すると、
「なんで嘘つくの~?」
「え……」
出し抜けにそう言われ、僕はドキッとしてしまった。
「一号くん、寝坊したわけじゃないよねえ?」
「……見てたんですか?」
なんとなくばつの悪さを覚えながら、僕は訊ね返す。
「うん。
駅から学校来るまでに、一回駅の方に引き返してったよね。
お年寄りと一緒に」
そう答える艷やかな唇の端には、小さな嘆息が滲んでいた。
実を言うと、芽野先生の言う通り、僕は嘘をついた。
寝坊なんてしてない。
ちゃんと始業時間に間に合うように登校していた。
けれど途中で道に迷っているおばあさんと会ってしまって、その対応をしていたら遅刻してしまったのだ。
「ちゃんと説明すればよかったのに。
そういうことがあったんです~って」
まったくもって芽野先生が正論なのだが、僕は苦笑いで頭を振った。
「相手が相手だったんで、言っても信じてもらえませんでしたよ」
むしろ激怒されかねない。
お年寄りを助けていて遅れる――そんなの、ベタすぎて現実では早々滅多に起きないシチュエーションだ。
すると芽野先生は、ますます釈然としない顔で「えー」と唸った。
僕にはそれが、少し嬉しかった。
普段は僕をからかってばかりいるけれど、この人はこういう時こうして、僕のために怒ってくれると知ったから。
そんな芽野先生に報いたい気持ちもあり、僕はさらなる本心を打ち明けた。
「それに相手が古典の先生じゃなくても、やっぱり僕は寝坊だって言ってたと思いますよ」
「どうして?」
「なんか嫌じゃないですか。遅刻をおばあさんのせいにするの」
「…………」
おばあさんはなーんにも悪くない。
ただただ、間が悪かっただけ。
だからおばあさんとのことを、遅刻という災難の原因にしてしまうのは、例え口先だけでも憚られたのだ。
「まぁ、これは単に僕の気分の問題なんで――」
なので芽野先生には理解できないかもしれないですけど、僕は今、何一つ後悔してないし、落ち込んでもないですよ――そんな本心を告げようとしたけれど、柔らかな抱擁によって遮られた。
「!?」
驚きのあまり、僕は体を強張らせた。
混乱のあまり、言葉を失った。
なんと芽野先生が、僕を真正面から抱きしめたのだ。
しなやかな腕の感触が、僕の背中にまで回る。
肉感的な弾力が二つ、僕の胸に押し付けられている――。
「一号くん、ほーんと損な性格してる」
甘い囁き声が、吐息とともに僕の耳元をくすぐる。
耳たぶに触れそうなほどの近距離に、芽野先生の唇があることがわかる。
「でも大丈夫。私がちゃんと見てるから……。
その、不器用なくらいの誠実さで損した分は、私が埋めてあげるからね」
「ちょ、ちょっと、マズいですって! 誰かに見られたら……!」
芽野先生の囁き声は、確かに耳に滑り込んでいるのだが、言葉として頭に染み込んでこない。
挙句、抱え込むように頭を撫でられて、僕は慌てて芽野先生を引き剥がそうとした。
けれど思いのほか、芽野先生が僕を抱く力は強い。
「そうだねー。
一号くんのいいところは、私だけが見て、私だけが知ってればいいかな~♪」
「は、離してくださいってば~!」
僕の情けない悲鳴も虚しく、芽野先生はその後もなかなか抱擁を解いてくれなかった。
ずーっと頭を撫で続けられた。
こんな現場を誰かに見られたら本当にどうなってしまうのか――後にも先にも、この時ほど心臓が高鳴ったことはない。
「はい……」
よりにもよって、一時間目が古典の日に遅刻をしてしまった。
古典の先生といえば、僕と折り合いの悪い、あのおじいちゃん先生だ。
遅刻の理由を問われたので「寝坊です」と答えたところ、先の退室命令を受けたというわけだ。
さてどうしよう。
素直に廊下に立ち続けるには、残りの授業時間は長すぎる。
ということで、僕は例のごとく第二保健室へ向かった。
そこで自主学習をさせてもらおう。
するとその道中、白衣の女性とばったり鉢合わせになった。
「あ~、おはよう一号く~ん」
「おはようございます」
ミナちゃん先生ではない。ゆるふわな声音と雰囲気を振りまく、芽野先生だ。
芽野先生は人差し指を唇に当てて、「あれ~?」と小首を傾げる。
「もう授業始まってるよ? 体調悪い?」
「いえ、実は遅刻しちゃって、教室に入れさせてもらえなくて」
「えー……ケチだねぇ。遅刻の理由は? ちゃんと言った?」
「まぁ、しょうがないですよ。ただの寝坊ですし」
「えー」
芽野先生は眉尻を下げて、唇を尖らせる。今ひとつ釈然としていない様子だ。
すると、
「なんで嘘つくの~?」
「え……」
出し抜けにそう言われ、僕はドキッとしてしまった。
「一号くん、寝坊したわけじゃないよねえ?」
「……見てたんですか?」
なんとなくばつの悪さを覚えながら、僕は訊ね返す。
「うん。
駅から学校来るまでに、一回駅の方に引き返してったよね。
お年寄りと一緒に」
そう答える艷やかな唇の端には、小さな嘆息が滲んでいた。
実を言うと、芽野先生の言う通り、僕は嘘をついた。
寝坊なんてしてない。
ちゃんと始業時間に間に合うように登校していた。
けれど途中で道に迷っているおばあさんと会ってしまって、その対応をしていたら遅刻してしまったのだ。
「ちゃんと説明すればよかったのに。
そういうことがあったんです~って」
まったくもって芽野先生が正論なのだが、僕は苦笑いで頭を振った。
「相手が相手だったんで、言っても信じてもらえませんでしたよ」
むしろ激怒されかねない。
お年寄りを助けていて遅れる――そんなの、ベタすぎて現実では早々滅多に起きないシチュエーションだ。
すると芽野先生は、ますます釈然としない顔で「えー」と唸った。
僕にはそれが、少し嬉しかった。
普段は僕をからかってばかりいるけれど、この人はこういう時こうして、僕のために怒ってくれると知ったから。
そんな芽野先生に報いたい気持ちもあり、僕はさらなる本心を打ち明けた。
「それに相手が古典の先生じゃなくても、やっぱり僕は寝坊だって言ってたと思いますよ」
「どうして?」
「なんか嫌じゃないですか。遅刻をおばあさんのせいにするの」
「…………」
おばあさんはなーんにも悪くない。
ただただ、間が悪かっただけ。
だからおばあさんとのことを、遅刻という災難の原因にしてしまうのは、例え口先だけでも憚られたのだ。
「まぁ、これは単に僕の気分の問題なんで――」
なので芽野先生には理解できないかもしれないですけど、僕は今、何一つ後悔してないし、落ち込んでもないですよ――そんな本心を告げようとしたけれど、柔らかな抱擁によって遮られた。
「!?」
驚きのあまり、僕は体を強張らせた。
混乱のあまり、言葉を失った。
なんと芽野先生が、僕を真正面から抱きしめたのだ。
しなやかな腕の感触が、僕の背中にまで回る。
肉感的な弾力が二つ、僕の胸に押し付けられている――。
「一号くん、ほーんと損な性格してる」
甘い囁き声が、吐息とともに僕の耳元をくすぐる。
耳たぶに触れそうなほどの近距離に、芽野先生の唇があることがわかる。
「でも大丈夫。私がちゃんと見てるから……。
その、不器用なくらいの誠実さで損した分は、私が埋めてあげるからね」
「ちょ、ちょっと、マズいですって! 誰かに見られたら……!」
芽野先生の囁き声は、確かに耳に滑り込んでいるのだが、言葉として頭に染み込んでこない。
挙句、抱え込むように頭を撫でられて、僕は慌てて芽野先生を引き剥がそうとした。
けれど思いのほか、芽野先生が僕を抱く力は強い。
「そうだねー。
一号くんのいいところは、私だけが見て、私だけが知ってればいいかな~♪」
「は、離してくださいってば~!」
僕の情けない悲鳴も虚しく、芽野先生はその後もなかなか抱擁を解いてくれなかった。
ずーっと頭を撫で続けられた。
こんな現場を誰かに見られたら本当にどうなってしまうのか――後にも先にも、この時ほど心臓が高鳴ったことはない。