第32話「濡れ鼠のフェニックス・その2」

文字数 2,061文字

 6時間目の授業が終了し、放課を告げるチャイムが鳴った。

 そのチャイムが鳴り止まぬうちに、廊下の方からドドドドド……!という足音が、猛烈な勢いで接近してくる。

 捕食者の気配を察知した草食動物の群れのごとく、教室内に緊張が走った。

 そして、

――バッターン!

「一号ォォォオオオ! 帰ろうぜ!」

 破れんばかりの勢いで、教室のドアが開け放たれ、朱雀井さんが満面の笑みで叫んだ。

 その服装は、朝の濡れ鼠な惨状とは見違えて、ぴしっとアイロンの掛かった制服になっている。

 さすがはミナちゃん先生、結構なお手前です。

「うん。帰ろうか」

 僕はテキパキと勉強道具をバッグに詰めて、早々に立ち上がった。

 まだみんな、朱雀井さんのこと怖いみたいだからね。

 教室の平穏を脅かすのも忍びない。

 ☆ ☆ ☆

「いや~、嬉しいぜ~。一号の方から誘ってくれるなんてさ~」

 朱雀井さんはいつにも増して上機嫌だった。

 というのも、僕の方から朱雀井さんに、今日は一緒に帰らないかと声を掛けたからだ。

「どういう風の吹き回しだ? おい~」

 昇降口の下駄箱へ降りていきながら、朱雀井さんが僕の脇を肘で小突く。
 痛くすぐったい。

「傘、ないんでしょ?」
「ない」

 靴を履き替えながら僕が尋ねると、朱雀井さんは歯切れよく頷いた。

「また濡れて帰るつもり?」
「はっ、見くびるなよ一号。同じ轍は踏まねえさ……全部避ける」
「雨を? 無理だよ?」

 朱雀井さんはシャドウボクシングみたいなフットワークをしたが、(そしてやたら上手かったが)僕は冷静に諭す。

 小雨ならまだしも、雨脚は未だ強い。

 傘も差さずに帰ればまた濡れ鼠。元の木阿弥だ。

 だから僕は、傘立てから自分の傘を引き抜いて言った。

「送ってくよ」
「……ゔぇっ!?」

 意外な申し出だったのか、朱雀井さんは変な声を出して驚いた。

 ☆ ☆ ☆

「悪いなー、一号。わざわざあたしの地元まで」
「いいよ別に。今日暇だったし」

 朱雀井さんを濡らさずに家まで帰すには、学校から駅まで送り届けてハイさようなら――というわけにはいかない。

 朱雀井さんの地元の駅から自宅までも、同行する必要が当然ある。

 なので僕は今、朱雀井さんを傘に入れて、朱雀井さんの地元を歩いていた。

「一号は〝全人類良い奴グランプリ〟のヘビー級王者だな」

 世界観がよくわからないが、褒められてることは伝わったので、曖昧に相槌を打っておいた。

 そして、何の変哲もない住宅地の歩道を歩いていた時のこと。

「――お、もういねえや」

 朱雀井さんが、ふと呟いた。

 その視線の先、電柱の麓に、一本の傘が無造作に立て掛けてある。

 朱雀井さんは僕の傘から小走りで飛び出して、その傘を引っ掴んで開いた。

 すると、ヒラリと一枚のメモ用紙が舞って落ちる。折り畳まれた傘の中に差し込まされていたのだろう。
 
 朱雀井さんはそのメモ用紙を、空中でキャッチ。
 目を通して――ふっと頬を緩ませた。

 それは僕がこれまでに見た中でも、トップクラスに柔らかな表情だった。

「……これ、あたしの傘」
「うん」
「今朝ここに、ダンボールに入った捨て犬がいてさ」
「うん」
「でも、誰かが引き取ってくれてったみたいだ」

 言って朱雀井さんは、僕にメモ用紙を見せてくれる。

 そこには『ワンちゃん、預かりました。責任を持って育てますのでご安心を』と書かれていた。

 これで全ての合点がいった。

 朝から降り通しだったのに、傘を持って出ないなんておかしいと思っていたのだ。

 けれど理由はこの通り。

 朱雀井さんは、捨て犬に傘を貸してあげていたようだ。

 ☆ ☆ ☆

「え~!? ここまで来といて帰っちゃうのか!? 
うち寄ってけよ! すぐそこだし!」

 朱雀井さんの傘が手元に戻ったので、僕はもう用済み。
 帰路に着くことにした。

 朱雀井さんは僕を引き止めたけれど、僕は丁重に断った。

「急にお邪魔するなんて悪いよ」
「なに遠慮してんだよー! 
一号だったら深夜早朝に奇襲してきたってウェルカムだ!」

 奇襲て。
 食い下がる朱雀井さんに思わず噴いたけれど、僕はやっぱり固辞。

「また、日を改めて遊びに来させてもらうよ」
「え~」

 ぶーたれる朱雀井さんだったけれど――、




「せっかくだもん。
天気が良くて、時間もたっぷりある時がいいよ。
それで、朱雀井さんの地元を案内してほしいな」




 僕がそう付け加えると、曇っていた朱雀井さんの表情が、一転して晴れ渡った。

「! なんだ、そういうことか! もちろん!」

 言うまでもなく、これは方便や社交辞令ではない。
 本気でそうしたいと思ったのだ。

 もっとよく知りたい。
 もっと仲良くなりたい。
 今この瞬間、強くそう思わせられた相手だからこそ……。
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