第9話「約束」

文字数 2,262文字

(……あぁ、しんどいな……)

 その日の体調は、朝目覚めた瞬間から最悪だった。

 胸から胃にかけて、ヘドロが循環しているような気持ち悪さがある。

 頭が重く、少しばかり発熱もあるようで、意識がぼーっとしている。

 それでも――いや、だからこそ、だったのかもしれない。

(……行かなくちゃ……今日は……)

 僕はいつもより重いバッグを肩に掛け、重い体を引きずり、家を出た。

 ☆ ☆ ☆

 一時間目と二時間目は何とか持ったが、三時間目が始まる前に限界に達した。

 これ以上は無理と今更ながら判断し、荷物をまとめた。

 そして第二保健室の戸を叩いた。

「あ、一号くーん! いらっしゃ――」

 ミナちゃん先生の明るいお出迎えは、急転直下でトーンダウン。

「――あらあら。うん。がんばったわね。体重預けちゃって平気よ。すぐベッドに行きましょう」

 ミナちゃん先生は、ひと目で僕の体調不良に気付いたらしい。

 気遣わしげに駆け寄ってきて、僕のスクールバッグを持ってくれる。

 さらには素早く制服の上着を脱がせ、肩まで貸してくれた。

 小さくて、やわで、華奢な、10才の女の子の身体……それが今の僕にとっては、なんと頼もしい支えであることか。

「――あぁ大丈夫よ。上履きのままベッドに入っちゃって? あとでわたしが脱がしといてあげるからね。うん。そうそう」

 ミナちゃん先生に言われるがまま、よれた身体をベッドに潜り込ませる。

 僕が横たわると、ミナちゃん先生はテキパキと介抱の準備に入った。
 見てはいないが、物音や気配で分かる。

 そしてそれが、僕の緊張の糸を切ったのだろう。

「…………っ」

 僕は慌てて上体を起こす。

(あ、ダメだ間に合わな――)

 絶望的な気分が胃の奥からせり上がってきた。

 けれど、間一髪のところで、目の前に洗面器が差し出された。

「いいわよ」

 優しい囁きが耳にそよぐ。

 涙が出るほどありがたい。

 ミナちゃん先生に背中をさすられながら、僕は洗面器を抱え込んだ。

 ☆ ☆ ☆

 実は今日、僕は日直だった。

 英語の小テストもあった。

 班でやる宿題と、授業での発表なんかもあったし、他にも……やらなきゃいけないことがたくさんあった。

 だから無理を押して、学校に来た。

 ……まったく、はた迷惑な責任感だ。

 結局はこの通り、ミナちゃん先生の厄介になっているのだから、褒められたものではない。

「……具合は朝から悪かった?」

 言いながら、ミナちゃん先生はベッドまで水を持ってきてくれた。

「…………」

 それで口をゆすぎながら、僕はこくんと頷く。

「そう」とミナちゃん先生も相槌を打つ。

 きっとその後に続くのは、お叱りの言葉だろう。

 そう思った。

 けれど――、




「――ありがとう。わたしとの約束を守ろうとしてくれて」




 ミナちゃん先生は穏やかにそう言って、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。

「…………っ」

 胸が詰まって、言葉が出ない。

 実は今日、ミナちゃん先生と、とある約束をしていたのだ。

 日直、小テスト、宿題、発表……それも確かに、学校に行かなければと思わせられた理由だ。

 けれど、一番大きかったのは――、

――へ~、面白そうね。その漫画。
――え!? 貸してくれるの!? 
――それじゃあ明日、楽しみにしてるわね! 一号くん!

 期待に彩られたその一言――。
 
 無邪気な笑顔――。

 そう。
 僕はミナちゃん先生に、漫画を貸す約束をしていたのだ。

 いつもよりバッグが重いのはそのためだ。
 十冊近い漫画が入っている。

 それを楽しみにしてくれているミナちゃん先生のためにも、登校しなければと思ってしまったのだ。

 もちろん、そんなことを言えば、ミナちゃん先生に責任を感じさせてしまう。

 だから決して口にはすまいとしていたが、ミナちゃん先生のほうから、その話題を切り出した。

 しかも、迷惑がるでも、叱りつけるでもなく、「ありがとう」と、そう言ってくれた。

「でも、次からはこんな無理しなくていいからね。わたしも子供じゃないんだから、約束を破られたーなんて、怒ったり拗ねたりなんかしないから」

 そしてやんわりと、頭を撫でてくれた。

 学校に来た〝頑張り〟が報われた気がした。

 学校に来た〝愚かしさ〟を赦された気がした。

 全部ひっくるめて、救われた。

 相変わらず体調は最悪だけど、さっきまでの自己嫌悪や自責の念が、嘘みたいだ。

 心は水のように澄み、綿毛のように軽い。

「ごめんなさい。汚いものを……」

 僕が言うと、ミナちゃん先生はあっけらかんと笑った。

「なに言ってるの。汚くなんかないわ」

 嫌な顔ひとつせず、ミナちゃん先生は僕の口元をウェットティッシュで拭いてくれる。
 弱りきった僕には、その献身が逐一刺さる。

「……少し寝ます……」
「ええ。何かあったら遠慮なく言うのよ。――そばにいるからね」

 ぽそりと付け足されたその一言で、どれほど僕の気持ちが安らいだか。

「……はい。ありがとうございます」

 ああ……ようやく言えた。言いそびれないで済んでよかった。

「どういたしまして。おやすみなさい」

 ミナちゃん先生の手の温もりと柔らかさ――それを頭に感じながら、僕は深い眠りに就くのだった。
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