第3話 錬金術師ヨハン

文字数 1,890文字

 その直後、黒髪を短く刈り上げた若者が兵士に両脇を抱えられ、引きずられるようにして広間へ入ってきた。
 くだんの錬金術師、ヨハン・フリードリヒ・ベトガーである。

 私は呼吸を忘れて凍りついた。ヨハンの全身は汚れ、自力で歩くこともできないほど弱っている。ひどい拷問が行われたに違いなかった。

 聞くところによると、逃亡したヨハンはボヘミアのエンスの町で捕らえられ、ドレスデンへと引き戻されたという。そして城の地下牢に閉じ込められたそうだ。

 私は地下牢を見たことがないが、噂だけはいろいろと聞いている。何でも全身引き伸ばしの道具、全身に針を刺す道具など、残虐の限りを尽くす器材がひとわたり揃っているそうだ。
 戦慄が体を突き抜ける。身の毛もよだつ恐ろしい事態が、哀れなヨハンの身に降り掛かったというのか。

「ベトガー。この不届き者め!」
 重たい扉を押し開くように、芝居がかったネーミッツの声がその場に響き渡った。

「恐れ多くも陛下を騙した上、さんざん贅沢をし、黄金作りの約束を果たせないとなるとドレスデンより逃亡した。重罪は明らかである。到底許すことはできぬ」

 その時、ネーミッツ派の貴族の一人が歩調を合わせようとしたのだろうか。ヨハンにずかずかと近づいて行き、床に転がっているヨハンの頭を威勢良く蹴り上げた。
「お前など、処刑と決まりだ! せいぜい地獄でも実験を続けるが良い」

 ははっと彼は空疎な笑いを漏らしたが、他の者は誰一人として同調しない。国王の機嫌を損ねることが怖くて、口を挟めないのだ。ネーミッツも余計なことを、と言わぬばかりに顎を動かし、その貴族に引き下がるよう命じている。

 それでも勝てる自信があるのだろう。ネーミッツは唇の端をわずかに上げて人々を睥睨し、最後にアウグスト王をうやうやしく振り仰いだ。
「処刑が順当であると思われます。陛下、ご裁断を」
 
 人々がさっと視線を寄せるのは、容貌魁偉な異色の国王である。

 アウグスト王は片手で馬の蹄鉄をへし折るような怪力の持ち主で、「強健王」とか「ザクセンのヘラクレス」などといった異名がこの王のありようを物語っている。
 姿かたちのたくましさだけではない。何につけても派手なやり方を好み、数え切れないほどの愛妾を抱えていることでも有名である。

 だが、王の寵愛争いは女たちだけでなく、廷臣たちの間でも泥沼だった。
 現在のところ、そこで最も優位を占めているのはこのネーミッツである。その老獪な弁舌にはフュルステンベルク侯爵さえねじ伏せられてしまうほどで、少々鼻の効く貴族なら間違いなくネーミッツに媚び、少しでも宮廷に自分の居場所を確保しようとするものだった。つまり、今のドレスデンはネーミッツの天下と言ってもいい。

 では私自身はというと、立ち位置は実に微妙である。

 本職は研究者だと、自分では思っている。難題とされる五次方程式の解法につながる「チルンハウス変換」の発見者として数学界ではそれなりに名を知られ、ドイツ系の学者としては初めてパリの王立科学アカデミーに名を連ねる栄誉を得た。

 そのためフュルステンベルク侯爵には、うまく使われているという気がしないでもない。何かというと私の名がザクセンの学会の権威のように取り沙汰され、すっかりネーミッツ派への対抗の旗印にされてしまっているのだ。今のドレスデンでネーミッツに嫌われる立場というのは、なかなか厄介である。

 せめてもの救いは、私が国王陛下からも直接信頼を得ていることだろうか。
 私がガラスの製法に通じているため、陛下からは二つのガラス工場の設立を命じられ、今もその運営を任されている。技術のないネーミッツは、ここには踏み込めない。

 危険を冒して錬金術師ヨハンをかばう理由。自分でもはっきりとは分からないのだが、一つだけ言えることがあるとすれば、私は青年ヨハンの生真面目さに自分と同じものを見たのだ。

 確かにヨハンのひねくれた言動は、自ら他人の尊敬を拒む結果を招いている。しかし一方で、彼の奥に何か固い芯のようなものがあるのも確かだった。彼のような勉強熱心な若者を見て、ぜひとも成果を上げさせてやりたいと思うのは、何も私だけではあるまい。

 しかし、である。
 今回ヨハンは黄金を作らずに逃亡した。これには陛下のみならず、私自身も裏切られたような気がしたものだ。
 もはや情けは無用。可哀想だが、ヨハン自身が招いた顛末だ。私もこれ以上は頑張れない。

「ベトガーを処刑せよ」
 と、国王がひとこと発すればすべてが片付く話である。

 この身が引き裂かれそうな悲しみをこらえつつ、私はヨハンの数奇な運命を思った。


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