第1話 チルンハウス伯爵の苦悩

文字数 1,499文字

 灰色の空を一途に目指して、ドレスデンの町は上へ上へとその手を伸ばしている。

 王宮も大聖堂も、尖塔の高さを競い合ってそこに林立しているのだ。まるで苦しみから逃れようとあがき、天の光を求めているかのように。
 あらゆる建物に備え付けられた尖頭アーチ、通りを斜めに行き交う飛び梁(フライング・バットレス)は自然に目を高みへと誘い、雨樋に取り付けられた魔物の彫刻は口から水を流しつつ、やはりその視線は空へと向いている。

 教会の鐘の音が響きわたる中、広場にいた鳩の一群が一斉に飛び立ち、塔を回ってより高く飛んでいく。小さな窓からその一部始終を見送り、私は再び背もたれに身を預ける。

 古い馬車の振動はひどく、私は銀髪巻き毛の鬘を片手で押さえていなければならないほどだった。おまけに正装するだけで疲れを感じるのは、やはり年齢のせいか。
 何しろもう若くはないのだ。今年はグレゴリウス暦1701年。50年の歳月はこの額にしっかりと皺を刻んでいる。

 だが今はぼんやりしている場合ではなかった。
 古代の神々の彫像で飾られた王宮の門をくぐってまもなく、私は御者に合図をし、人目につかぬように庭園の小道で馬車を止めさせた。このような場面ではいつものことだが、興奮と緊張とで顔が上気している。

 足音をしのばせ、目立たぬよう大階段も端の方を登る。

 しかし半ばまで上がったときだ。ふいに階上の柱の影から刺すような声が飛んできた。
「……伯爵。チルンハウス伯爵」

 はっと身構え、私は全身で警戒した。
 だが今の声は聞き慣れたものだ。心に鎧を着せずとも良い、数少ない友人の一人の声である。

 果たしてフォン・フュルステンベルク侯爵が、柱の影からすっと出てきた。
 彼もまた周囲を気にするように視線を左右に走らせているが、その小太りな体や、金糸織に大量の飾りボタンがついた上着は十分に目立っている。

 侯爵の表情はいつになく厳しかった。私の方へすっと身を寄せると、彼はまるで風が木の葉を揺らすようにささやいてきた。
「国王陛下にお目通り願うのですか」

「まさか」
 私は反射的に笑顔を作った。
「なぜ私が陛下に会うと?」

「だってこんなに早くいらしたわけですから」
 侯爵はなおも疑念を含んだまなざしを私に向けてくる。
「噂があるんですよ。あなたがまたベトガーのために動くのではないかと」

 めまいを起こしそうだった。この友人のみならず、世間はそこまでお見通しというわけか。

「私はあんな錬金術師とは、何の関係もないぞ」
 急ぎ、そう答えた。侯爵の目を見つめ、声に力を籠める。
「君に迷惑をかけてしまったなら、心から謝る。だがもうあのような愚かな真似はしない。あんな男をかばったところで、我々には何の利益もないからな」

 友人には素直に感謝すべきだった。時おり自分を見失いがちな私を止めるために、侯爵はそこで待ち伏せしていたのだろう。さすがはザクセン公国きっての代官というべきか、何をどうすべきか、侯爵はよく分かっている。

「本当に分かってらっしゃるなら、別にいいんですけどね」
 言葉とは裏腹に、友人の口調はむしろ同情的と言っていいほどだった。
「それでもあなたは、ベトガーを気に入っている。可愛がっている。あの青年のためなら、何だってするでしょう。別にそれを責めはしませんよ。そのお人好しがあなたという人なんですから」
 なだめるように言いつつ、ですが、と前置きして侯爵は追及を続けた。

「あの男とこれ以上関わり合うのは危険です。この件でどんな不利益をこうむるか、分かったものじゃないでしょう。ベトガーのことは、もうおあきらめ下さい」

 それは、まさしく板挟みになっている私の苦悩を言い当てたものだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み