第18話 せめぎ合いと、決裂
文字数 3,149文字
スピノザの思想は、あまりにも斬新だった。
新し過ぎる思想というのは、そう簡単に世の中から受け入れられるものではない。いかに正鵠を射、この世の真実を言い当てた言説であろうと、今の教会勢力への忖度なしにものを言うなど、到底許されることではないのだ。
結果、古い価値観を持つ人々とことごとく対立していたのだから、スピノザの敵の数たるや尋常ではなかった。私も決して器用に人付き合いができる方ではないが、スピノザには相手がどんな権力者であってもひるまない強情なところがあり、それは傍から見ていても戦慄を覚えるほどだった。
その激しさゆえに、ユダヤ系でありながらユダヤ人社会からも排斥されていたほどである。他の弟子から聞いたところによると、著書が発禁処分になるぐらいでは済まず、暗殺されかけたことも一度や二度ではなかったらしい。
そこはかとない懸念は、スピノザを取り巻く全員が抱いていた。これほどに危険視されている男と、果たして付き合いを継続して良いものか。その迷いは堂々と口にできるものではなかったものの、徐々に恐れをなし、離れていく者がいるのは致し方ないことだった。
不安はやがて現実のものとなった。
「スピノザは異端だ! 福音書の全真実を破壊する存在だ!」
教会勢力はついにそう決めつけ、スピノザの逮捕拘留に踏み切ったのだ。
ああ、と私は頭を抱えた。ついにこの日が来たかと思った。
事実は全く逆なのだ。スピノザは哲学の力をもって隣人愛や正義を説いている。むしろキリスト教の真髄を、聖書の伝えるこの世の真実を支える側にいる。どうしてそこを誰も理解しないんだと言いたかった。
私は群衆の後ろで、兵士に引っ立てられていくスピノザの後ろ姿を見送った。助けることなどできようもない。自分の無力がひたすら腹立たしかった。
いや、聖職者たちもたぶん分かっていたのだろう。ただ聖書を文字通りに受け取らないスピノザの哲学に、自分たちの権威を貶めかねない危険を感じたのだ。
しかしその小さな懸念こそが、いつ果てるともない怒りの業火と化していく。
ある日私は、獄中のスピノザから暗号のような手紙を受け取った。
原稿を守ってくれとだけあった。
ただならぬ事態が察せられた。はっきりと感じたのは、スピノザは自らの命をなげうつことになろうとも、生み出した言葉だけはこの世にとどめておきたがっているということだ。
私は直ちに留守中のスピノザの自宅に向かい、中に入り、その隠し場所を探り当てた。
だがもう大丈夫とばかり、紙束が入った袋を私が胸に抱きしめたその時である。
外で物音がした。
窓から首を出すと、数人の兵士の姿が見えた。教会側が雇った奴らだ。彼らはもう建物の入り口まで来ている。
私は原稿を脇にかかえて窓から脱出した。
夢中だった。ハーグの街の屋根から屋根へと飛び、滑り落ちそうになりながら私はただ走り抜けた。屋根瓦が激しく音を立て、羽根を休めていた鳥が驚いて飛び立っていく。
スピノザの哲学は、全人類が悪魔から解き放たれるために生み出されたものだ。その科学的論証の成果が焼却されてはならなかった。
這う這うの体で私がパリに戻ったとき。
待っていたのは、冷ややかな目をしたゲッツだった。
「何をやってるんだ、レオン」
一部始終を話すと、ゲッツは私の腕の中にある袋を汚い物でも見るように一瞥した。
「君はようやく一流の学者の仲間入りをしたところじゃないか。これからという時に、君はスピノザなんかのために死ぬ気だったのか」
「……君にも分かって欲しい、ゲッツ。君が友達だから話すんだ」
私は袋を改めてぎゅっと抱きしめた。
「この原稿は、命がけで守る価値のあるものなんだ。世界がこれから科学の時代に踏み出すために、どうしても必要なものなんだ」
「……結局のところ、やっぱり君は貴族のお坊ちゃんなんだよ」
ゲッツは皮肉な薄笑いを浮かべ、顔をそむけただけだった。
「自分の置かれた立場がどれほど恵まれているか、まるで分かっていない。君はスピノザの生き方に対して一種の美を見出したに過ぎないんだ。その哲学というより、隠遁者のような彼のありようにね」
君に何が分かるんだ!
私は冷たい怒りに燃えた。ゲッツを見損なった。そこまでして自分が一番だと言いたいのか。私が彼に見くびられるのは構わないが、スピノザを馬鹿にするのは許せない。
しかもゲッツは上の者に媚びへつらって、自分が出世できればいいというような、そんな生き方を選択しようとしている。
もはや言い返す気にもなれなかった。もうこの男に振り回されるのは御免だと思った。スピノザの価値が分からない奴に用はない。勝手に自分の道を行ったらいいんだ。
折しも、私は引っ越しの準備をしていたところだった。これからパリの学者たちとの親交が増えることも踏まえ、より中心部に家を借りたのだ。いつまでも貧しい学生寮にいるわけにはいかない。
私はゲッツと目を合わせぬまま、自分の荷物をまとめた。ゲッツは何か察したのか、不本意そうに声を掛けてくる。
「おい、引っ越しはまだ先なんだろ? それよりオレの話を聞けよ。スピノザより革新的な論文を書いたんだぜ」
私は応じなかった。こいつにはもう二度と会うまいと固く心に決めていた。
「……じゃあな」
本当にそれだけで出てきたのである。親友の別れの言葉さえ聞かなかった。
ところで、原稿を守ったのは私だけではない。それは断章ごとに分割され、他の弟子や友人も隠し持っていたのである。
スピノザは結核でこの世を去ったが、息を潜めていた者たちは、当局の目をかすめるようにして連絡を取り合い、密かに集合した。
暗い地下室だった。
机の上に、それぞれの守り抜いた分が差し出される。
原稿を元通りに連結させたその時、私はスピノザがそこに再び立ち上がったのを見たような気がした。それは胸を静かに押されるような、底知れぬ感動の瞬間だった。
聖なる革命家が遺した、最後の思想。
題名は『エチカ』という。
私たちはついにそれを出版した。哲学史上、最高の名著だ。
しかしここでゲッツを見返してやった、などという気持ちにはなれなかった。むしろ寂しかった。彼がここにいて、一緒に喜んでくれたらいいのにという思いでいっぱいだった。
そう。私が本当に好きだった友人は、ゲッツに他ならなかったのだ。
あのとき、彼は何を感じていたんだろう。
ゲッツは周囲と違う苦労を強いられていて、極めて現実主義だった。だからこそ理想主義に近いスピノザの思想に反発したのかもしれない。私がそんなスピノザを崇拝するのを、彼は許せなかったのだ。
私たちはあともうちょっとだけ歩み寄り、分かり合う努力をすべきだったのではないだろうか。そうすれば、こんなにも長く決裂したままではいなかったのに。
実はゲッツが本を出すたび、私は必ず入手して読みふけってきた。だから彼もまた不断の努力を重ね、独自の哲学の道を打ち立てつつあるのは知っている。
ああそうだ。私はゲッツに言いたい。君の気持ちは、他の誰より私が知っていたのだと。
今ならもっと穏やかに向き合えるような気がして、私はペンを走らせる。今や最高の役職にまで出世したゲッツに、返事などもらえなくても良いのだ。ただ私の気持ちだけはここで伝えておきたい。一生仲直りせずに終わるのは、あまりに悲しいものだ。
私は手紙をしめくくる。
「……いまだ荒廃と停滞の暗黒時代にある故国において、私は変わらず磁器発明に向け、若い科学者とともに悪戦苦闘を続けています。ザクセンの未来のため、どうかあなたのお力をお貸しくださいますように。
1701年10月15日 エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウス」
新し過ぎる思想というのは、そう簡単に世の中から受け入れられるものではない。いかに正鵠を射、この世の真実を言い当てた言説であろうと、今の教会勢力への忖度なしにものを言うなど、到底許されることではないのだ。
結果、古い価値観を持つ人々とことごとく対立していたのだから、スピノザの敵の数たるや尋常ではなかった。私も決して器用に人付き合いができる方ではないが、スピノザには相手がどんな権力者であってもひるまない強情なところがあり、それは傍から見ていても戦慄を覚えるほどだった。
その激しさゆえに、ユダヤ系でありながらユダヤ人社会からも排斥されていたほどである。他の弟子から聞いたところによると、著書が発禁処分になるぐらいでは済まず、暗殺されかけたことも一度や二度ではなかったらしい。
そこはかとない懸念は、スピノザを取り巻く全員が抱いていた。これほどに危険視されている男と、果たして付き合いを継続して良いものか。その迷いは堂々と口にできるものではなかったものの、徐々に恐れをなし、離れていく者がいるのは致し方ないことだった。
不安はやがて現実のものとなった。
「スピノザは異端だ! 福音書の全真実を破壊する存在だ!」
教会勢力はついにそう決めつけ、スピノザの逮捕拘留に踏み切ったのだ。
ああ、と私は頭を抱えた。ついにこの日が来たかと思った。
事実は全く逆なのだ。スピノザは哲学の力をもって隣人愛や正義を説いている。むしろキリスト教の真髄を、聖書の伝えるこの世の真実を支える側にいる。どうしてそこを誰も理解しないんだと言いたかった。
私は群衆の後ろで、兵士に引っ立てられていくスピノザの後ろ姿を見送った。助けることなどできようもない。自分の無力がひたすら腹立たしかった。
いや、聖職者たちもたぶん分かっていたのだろう。ただ聖書を文字通りに受け取らないスピノザの哲学に、自分たちの権威を貶めかねない危険を感じたのだ。
しかしその小さな懸念こそが、いつ果てるともない怒りの業火と化していく。
ある日私は、獄中のスピノザから暗号のような手紙を受け取った。
原稿を守ってくれとだけあった。
ただならぬ事態が察せられた。はっきりと感じたのは、スピノザは自らの命をなげうつことになろうとも、生み出した言葉だけはこの世にとどめておきたがっているということだ。
私は直ちに留守中のスピノザの自宅に向かい、中に入り、その隠し場所を探り当てた。
だがもう大丈夫とばかり、紙束が入った袋を私が胸に抱きしめたその時である。
外で物音がした。
窓から首を出すと、数人の兵士の姿が見えた。教会側が雇った奴らだ。彼らはもう建物の入り口まで来ている。
私は原稿を脇にかかえて窓から脱出した。
夢中だった。ハーグの街の屋根から屋根へと飛び、滑り落ちそうになりながら私はただ走り抜けた。屋根瓦が激しく音を立て、羽根を休めていた鳥が驚いて飛び立っていく。
スピノザの哲学は、全人類が悪魔から解き放たれるために生み出されたものだ。その科学的論証の成果が焼却されてはならなかった。
這う這うの体で私がパリに戻ったとき。
待っていたのは、冷ややかな目をしたゲッツだった。
「何をやってるんだ、レオン」
一部始終を話すと、ゲッツは私の腕の中にある袋を汚い物でも見るように一瞥した。
「君はようやく一流の学者の仲間入りをしたところじゃないか。これからという時に、君はスピノザなんかのために死ぬ気だったのか」
「……君にも分かって欲しい、ゲッツ。君が友達だから話すんだ」
私は袋を改めてぎゅっと抱きしめた。
「この原稿は、命がけで守る価値のあるものなんだ。世界がこれから科学の時代に踏み出すために、どうしても必要なものなんだ」
「……結局のところ、やっぱり君は貴族のお坊ちゃんなんだよ」
ゲッツは皮肉な薄笑いを浮かべ、顔をそむけただけだった。
「自分の置かれた立場がどれほど恵まれているか、まるで分かっていない。君はスピノザの生き方に対して一種の美を見出したに過ぎないんだ。その哲学というより、隠遁者のような彼のありようにね」
君に何が分かるんだ!
私は冷たい怒りに燃えた。ゲッツを見損なった。そこまでして自分が一番だと言いたいのか。私が彼に見くびられるのは構わないが、スピノザを馬鹿にするのは許せない。
しかもゲッツは上の者に媚びへつらって、自分が出世できればいいというような、そんな生き方を選択しようとしている。
もはや言い返す気にもなれなかった。もうこの男に振り回されるのは御免だと思った。スピノザの価値が分からない奴に用はない。勝手に自分の道を行ったらいいんだ。
折しも、私は引っ越しの準備をしていたところだった。これからパリの学者たちとの親交が増えることも踏まえ、より中心部に家を借りたのだ。いつまでも貧しい学生寮にいるわけにはいかない。
私はゲッツと目を合わせぬまま、自分の荷物をまとめた。ゲッツは何か察したのか、不本意そうに声を掛けてくる。
「おい、引っ越しはまだ先なんだろ? それよりオレの話を聞けよ。スピノザより革新的な論文を書いたんだぜ」
私は応じなかった。こいつにはもう二度と会うまいと固く心に決めていた。
「……じゃあな」
本当にそれだけで出てきたのである。親友の別れの言葉さえ聞かなかった。
ところで、原稿を守ったのは私だけではない。それは断章ごとに分割され、他の弟子や友人も隠し持っていたのである。
スピノザは結核でこの世を去ったが、息を潜めていた者たちは、当局の目をかすめるようにして連絡を取り合い、密かに集合した。
暗い地下室だった。
机の上に、それぞれの守り抜いた分が差し出される。
原稿を元通りに連結させたその時、私はスピノザがそこに再び立ち上がったのを見たような気がした。それは胸を静かに押されるような、底知れぬ感動の瞬間だった。
聖なる革命家が遺した、最後の思想。
題名は『エチカ』という。
私たちはついにそれを出版した。哲学史上、最高の名著だ。
しかしここでゲッツを見返してやった、などという気持ちにはなれなかった。むしろ寂しかった。彼がここにいて、一緒に喜んでくれたらいいのにという思いでいっぱいだった。
そう。私が本当に好きだった友人は、ゲッツに他ならなかったのだ。
あのとき、彼は何を感じていたんだろう。
ゲッツは周囲と違う苦労を強いられていて、極めて現実主義だった。だからこそ理想主義に近いスピノザの思想に反発したのかもしれない。私がそんなスピノザを崇拝するのを、彼は許せなかったのだ。
私たちはあともうちょっとだけ歩み寄り、分かり合う努力をすべきだったのではないだろうか。そうすれば、こんなにも長く決裂したままではいなかったのに。
実はゲッツが本を出すたび、私は必ず入手して読みふけってきた。だから彼もまた不断の努力を重ね、独自の哲学の道を打ち立てつつあるのは知っている。
ああそうだ。私はゲッツに言いたい。君の気持ちは、他の誰より私が知っていたのだと。
今ならもっと穏やかに向き合えるような気がして、私はペンを走らせる。今や最高の役職にまで出世したゲッツに、返事などもらえなくても良いのだ。ただ私の気持ちだけはここで伝えておきたい。一生仲直りせずに終わるのは、あまりに悲しいものだ。
私は手紙をしめくくる。
「……いまだ荒廃と停滞の暗黒時代にある故国において、私は変わらず磁器発明に向け、若い科学者とともに悪戦苦闘を続けています。ザクセンの未来のため、どうかあなたのお力をお貸しくださいますように。
1701年10月15日 エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウス」