第10話 真鍮の棒

文字数 2,472文字

 しかしそれも長くは続かなかった。
 ヨハンと話すうち、私は次第に冷静ないつもの自分を取り戻した。彼の巻き起こす旋風から逃れていったのだ。というのも、この若者は真面目で純粋だが、それ以上に不器用で視野が狭く、相手の気持ちを想像する能力に乏しいと分かってきたのである。

 もちろんヨハンを嫌いになったわけではないし、軽蔑するわけでもない。ただそういう強烈な個性の持ち主なのだろう。
 真面目なのは確かだった。机の上には、私以外の著者の書物が数冊積まれているが、それらの表題からして彼の勤勉さを物語っている。

「……なかなかよく勉強しているじゃないか、ヨハン」
 私は思わず目を細めた。
「君のお父さんは、マクデブルクの立派な建築家だそうだな。今の君があるのは、お父さんのお陰なんだろう?」

「あんなの、父親じゃなかったさ」
 邪悪なものでも見たような目つきで、ヨハンは投げやりに言い捨てた。
「本当の父親じゃねえんだよ。母親の再婚相手だったから一緒に住んでただけだ。乱暴者で、酒癖が悪くてさ。家族はいつもあいつの暴力に怯えてたよ」

 暴力という言葉に私はなぜかはっとした。それだけで胸がキリキリと痛むような気がした。力で人をねじ伏せ服従させるようなやり方を、私は心から憎んでいる。

 おそらくヨハンも言葉にできないほどの懊悩があったのだろう。何かを断ち切るように短い嘆息を漏らすと、今度は気を取り直したように机の引出しを開けた。

「それはともかく、まあ見てくれよ」
 もったいぶった様子で取り出したのは、一本の真鍮(しんちゅう)製の棒だった。
「これさ、実家の屋根裏で見つけたんだ。おれの宝物なんだ。錬金術の道具だよ」
 
 目の前にぐっと差し出されたので、遠慮なく手に取らせてもらった。
 ヨハンが手を離した途端、ずしりと重みが手に加わった。見た目よりはるかに重量のある棒である。

「本当の父親の形見らしいんだ。おれが赤ん坊の頃に死んじゃったから、顔も覚えてねえんだけどさ。会いたかったなあ」
 ヨハンは再び頬杖をつくと、ふっと遠い目をした。

「これを見つけた時、ああ、お父ちゃんは錬金術をやってたんだって思った。黄金ができる前に死んじゃって可哀想だよな。どんなに無念だったか」
 そこで彼は、空に向かって誓ったそうだ。きっと自分がやってみせると。きっと父親の代わりに、本物の黄金を生み出してみせると。

 くだらない、という者もいるだろう。どんなにもっともらしい動機が語られようとも、所詮は錬金術なんて金の亡者が手を出すものじゃないか、と。
 だがヨハンは大真面目だし、本人にとっては重要な身の上話に違いない。私は友人として、謹んで拝聴しようと思った。
「なるほど。だから君は錬金術にすべてを捧げているんだね」

「伯爵が分かってくれてうれしいよ」
 ヨハンはうれしそうに前のめりになる。
「でもうちの母ちゃんは錬金術のこと、全然分かってくれなかった。もう大反対でさ」

 そりゃそうだろう。子供が錬金術に凝るなど非行に走るも同然である。
 まして前夫の熱中ぶりに悩まされてきたヨハンの母にしてみれば、許せなくて当然かもしれなかった。

「ベルリンで修行してきなさい! あんたは将来、薬剤師になるのよ」
 ヨハンの母親は金切り声を上げたという。
 そして、伝手をたどって息子を薬局の見習いに出したそうだ。
 彼が送り込まれたのはそれなりに名の知られた老舗薬局だったから、堅実にやりさえすれば、ヨハンは慎ましいながら人並みの生活ができたはずだった。

 だがそこまで語った当の本人は、自嘲気味に鼻をこすっている。
「で、母ちゃんには悪いんだけどさ。おれ、都会で錬金術の仲間にたくさん出会っちゃったんだよね。だから本格的にやるようになったのは、むしろベルリンに出てからなんだ」

 逆効果だったというわけだ。母親の無念は察して余りあるが、ヨハン自身はその言葉ほどには後悔しているように見えなかった。

「……よく話してくれたね。ありがとう」
 とめどなく続く彼の話を、私の方がしめくくった。
「天国のお父さんのためにも、いつか黄金作りが成功すると良いね。私も応援するよ」

 今目の前にいるのは国王お抱えの天才科学者などではなく、どこにでもいる平凡な少年に違いなかった。だが錬金術師とはこういうものなのかもしれない。
 次はこちらが身の上話をする番であろう。

「私の場合は、子供の頃から東洋磁器に夢中になってね……」
 ところがこの若者ときたら、そんな話は聞く必要ないとでも言うように私の腕をぎゅっとつかんできたのである。

「なあ、伯爵よう。一緒に錬金術をやろうぜ? おれ、あんたと一緒ならうまく行きそうな気がするんだ」

 やれやれ、である。
 苦笑しつつ、私は腕にかけられた若者の手をゆっくりと外した。

「申し訳ないが、それは断らせてもらうよ。私は錬金術を否定しないが、その手法に関しては疑いを持っていてね」
 危険過ぎて口にはできないはずのその話が、なぜかその時はすんなりと言えた。

「錬金術、嫌いか」
 ヨハンがすっと冷めたのがわかった。
「なあんだ。じゃ、駄目だな」

「違うよ。別に頭から否定しているわけではないんだ」
 私の方は慌てて言葉を継いだ。
「確かに錬金術の分野では、科学史上の多くの発見がなされてきた。蒸留や混合の技術だって、錬金術の実験の中で発展してきたわけだ。ただね、今の錬金術には一切の批判というものが許されないだろ? それは科学とは言えないんじゃないかと……」

 関係修復の努力は無駄だったようだ。ヨハンは私をはねつけるようにふん、と鼻を鳴らした。
「……残念だけど、しょうがねえや。信じねえ奴はとことん信じねえもんな」

 もはや何を言っても駄目である。結局その日は気まずい空気のまま、ヨハンと別れることになってしまった。

 それでも何かと気にかけ、ときにはヨハンの失態をかばってさえきた私である。だがまともな対話が不可能な相手だという認識はずっと変わらなかった。

 だからまさか、このヨハンと磁器の共同研究をすることになるとは、私も予想だにしていなかったのである。

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