第17話 スピノザ

文字数 2,516文字

 ある年のことだ。
 書きためてきた論文が認められ、私はパリのアカデミーに入会を許された。

 最終選考の場であのホイヘンス氏が私を強力に推してくれたと聞いて、若き日の私は狂喜した。言うまでもないことだが、アカデミー会員資格を得るというのは学者として大変な栄誉である。

 だが、ゲッツにはその道が開けなかった。
 彼も私と同じようにホイヘンス氏に可愛がられたにも関わらず、である。また明らかに私よりも研究論文の数が上回っていたにも関わらず、である。
 認めねばなるまい。関係各所から得た推薦。選考の過程。すべてにおいて私の属する身分家柄がものを言ったのだ。

 ゲッツはこの件に関して何も言わなかったが、私は気が引けて仕方がなかった。
 人一倍自尊心の強いゲッツが傷ついているのは明らかだった。彼が常に私を下に見ているのを知っていた。その時だって、自分の方が実力は上だと思っているに違いなかった。

 とはいえ、私にだって矜持というものがある。これまでのひたむきな努力があってこそ出せた結果だし、やはり実力で選ばれたと思いたかった。
 だから彼に対してこの件を謝罪するのはおかしな話だし、変に慰めるのも間違っているような気がした。実際そんなことをすれば、彼を余計に怒らせただけだろう。

 ゲッツはいつも大勢の友人に取り囲まれ、注目を浴びていて、私よりはるかに裕福で幸せそうに見えた。
 彼の豪華絢爛な衣装に目をやるたび、私はため息を漏らした。あんな格好をしている以上、本人がいくら庶民の苦労を主張していても、なかなか同意まではできないものだ。

 むしろ私の方が惨めだった。故国ザクセンは追い出されたも同然。学者として独り立ちできなければ、私には生きていく術がなかった。
 だからアカデミー入会は努力が実った結果だ。後ろめたさを覚える必要はない。私はそう自分に言い聞かせた。

 そうやって私たちがすれ違うようになっていったのは、致し方なかったのだろうか。
 やがてバールーフ・デ・スピノザにまつわる一件で、私たちは決裂することになる。

 スピノザは教会の権威を恐れることなく、聖書の記述内容とかけ離れた独創的な発言をする人物だったが、彼の思想は実に自然で、かつ的確だった。二人ともこの過激な哲学者に一定の憧れの念を抱き、かなりの影響を受けていた。
 私とゲッツも、よくスピノザの言動を話題にした。ゲッツとは生き方が違うと感じ始めてはいても、スピノザの哲学への向き合い方に関して、私たちはやはり唯一無二の親友だった。

 だが、ゲッツは私に勝ちたくて、追い越したくて仕方がなかったのだろう。
 ある日、彼は私を出し抜くように内緒でハーグへ行き、何とスピノザ本人に会ってきたのである。これは私にとって衝撃的な事件だった。

「がっかりだ。スピノザなんか、大したことはないよ」
 ゲッツは帰宅するなり、立ち尽くす私を前にどっかりと足を組んだ。
「優れた思想家であるのは確かだけど、あれじゃ駄目だね。頑固で話にならなかった」

 しかも信じられないことに、ゲッツはさらりとこう述べたのだ。
「向こうでスピノザの未発表原稿を読ませてもらったよ」

 私は塔の牢獄の中にぶち込まれたような気分だった。
 すでに過激な言説で知られるスピノザが、これからどんな発言をするのか。世間は固唾を呑んで注視しているのである。スピノザの未発表原稿とは、誰もが恐ろしいと思いつつその中身を見たくてたまらないパンドラの箱のようなものだった。
 ゲッツになら見せても良いと思うほど、スピノザは初対面の彼を信じ、心を開いたのだろうか。そんなにも彼はスピノザと親しくなったのだろうか。

 沈黙の裏で嫉妬に燃え上がる私をよそに、ゲッツは飄々としたものだった。親しくなったのを自慢するにとどまらず、彼は平気でスピノザを酷評したのである。
「ありゃ、まったく話にならないぜ? きれいごとだらけだ。まるで浮世離れしたただの美しい文章というものが、世の中に噴出する問題を一つ二つでも解決できるのかって」

 ゲッツが私への意趣返しのためにそうしているのを感じた。
 だからこそ、かもしれない。彼がスピノザを批判すればするほど、私は逆にスピノザという男に惹かれていった。華やかな世界とは一切関わりを持たず、貧しく市井に暮らすその哲学者に、私も会ってみたいと思うようになった。

 はやる気持ちを抑えきれず、私もふハーグへと向かった。やはりゲッツには黙ってのことだ。
 
 古い集合住宅の片隅で、スピノザは粗末な服を着て、せっせとガラスレンズを磨く内職に精を出していた。
 無表情のまま、スピノザは顔を上げて私を見た。世界を震撼させる大哲学者は、一目でユダヤ系とわかるような、個性的な面立ちの人だった。

 感情を表に出すような人ではなく、わざわざ訪ねてきた私に笑顔の一つも見せてはくれなかった。それでもスピノザは、私に言葉をくれた。一つ一つの言葉に心を込めてくれているのが感じ取れた。これが彼なりの歓迎の作法だったのかもしれない。

「すべて高貴なものは、稀であるとともに困難である」
 現実の清貧の中で、スピノザはまさに自分の哲学を生きていた。気難しく、厳しい人だろうという私の予想に反し、彼の言葉は優しく素直で、しかもしばしば楽観的にさえ響いたのである。世の中は哲学の力で良い方向に変えられると、彼は心から信じていた。

 教えてやる、というような偉そうな態度を、彼は少しも取らなかった。いつもあっさりと構え、自分は単に事実を述べているに過ぎないという態度を貫いていた。
 しかし今の世の中、それが難しいのだ。権力に媚びずに生きるのは、不可能に近いのだ。
 私の方は彼との会話中、何度息を呑み、拳をぎゅっと握りしめたか分からない。歪んだ世の中よりも、スピノザの方が正しいことは分かっていた。彼の前に、新しい神が立ち現れたような気がしたものだ。

 すっかりスピノザに心酔した私は、その後も繰り返しハーグを訪れた。
 万物の自然に神の存在を見出し、すべての命を尊ぶこと。真実に向き合うことこそ、神に近づく唯一の道であること。
 その言葉は神々しい光を放ち、危険であればあるほど美しく感じられた。

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