第9話 不思議な若者

文字数 2,164文字

 当然のことながら、帰国後の私は極めて現実的な問題にあくせくしてきた。ドレスデンの宮廷で生き残るには、どろどろした政治と無縁ではいられなかったのだ。

 私なりに相応の犠牲を払ってきた。だからこそ、今のこの地位だけは死守したい。それが偽らざる気持ちである。
 今さら錬金術師ごときに肩入れする理由はないのだ。それで人生をふいにしてしまったら、これまでの苦労は何だったのかという話である。

 まったく、こんなことになるのもヨハンという若者に原因があると思う。あのつい放っておけなくなるような、独特の雰囲気。一緒に振り回されてみたいとさえ思わせる、強烈な吸引力。私は自分でも不思議になるほどヨハンに惹かれているのだ。

 初めて会ったのは、フュルステンベルク侯爵の屋敷で開かれた晩餐会である。
「へへっ。初めまして〜。伯爵様のご高名はかねがね」
 黒髪の若者はふざけた口調で言い、鼻水を拭いたその手をぞんざいに突き出してきた。

 周囲の貴族たちが苦々しい顔をし、冷ややかな視線を送ってきているのに、ヨハンはちっとも気にしない。ただ純粋過ぎるほどに輝くその目は、私から何かを引き出したいという思いではじけそうになっていた。

「三次方程式はタルターリアとガルダーノ、四次方程式はフェラーリ。解の公式を発見してきたのは、いずれも古い時代のイタリア数学の巨匠だ」
 すらすらと、ヨハンの口からは呪文のような言葉が流れ出た。まるで過去の知識の系譜から、魔術と秘法を手繰り寄せようとしているかのように。

「その後百年以上もの間、五次方程式については謎とされてきたわけだ。なのに伯爵よう、あんたがついに発見したんだよな。イタリア人じゃなくて、ザクセン人のあんたが」

「……五次方程式の解にまで到達したわけではありませんよ」
 私はできる限り静かに答えたが、この若者から疾風のような何かが吹き寄せてくるのは止めようがなかった。
「あなたのおっしゃる通り、四次方程式については四則演算と根号操作を繰り返し、二次や三次の方程式に帰着させることですでに解決していました。五次方程式も同様の変数変換で解を求めることができるのではないか。私はただ、その可能性を述べたに過ぎません」

「それでもさ。あと一歩のところまで行ったのがすげえじゃん」
 ヨハンは大げさな身振りを交えて言う。
「あと、もうちょっと。もう一押しで、世界は変わるんだよ」

 まるで長い眠りから覚醒していく自分を、外側から見ているような気分だった。
 かつての私も、きっとこの若者と同じように目を輝かせていたのだろう。あこがれの学者に相まみえたとき、素直にまっすぐに、そして全力で相手にぶつかっていたのだろう。

 別れた後も、私はあの若者にまた会いたいと思った。ヨハンは変わり者だが、会えば何らかのひらめきが、天啓が、私の上にも降ってくるのではないか。そんな思いが泉のように湧き出て、止められなくなったのだ。

 実はこの時、私の方は磁器の研究が頓挫しかけていた。どうあがいても前に進めず、窯の扉を開いては落胆のため息をつく、その繰り返しだったのである。
 生きている間にこれ以上の成果を出すことは、もはやできないのではないか。そんな思いが湧いてくることがままあった。若いひらめきというものが、この時はどうしても欲しかった。

 数日後、「黄金の館」に軟禁されているヨハンを訪ねたのはそんなわけだ。彼の方は突然の訪問を驚きもせず、うれしそうな顔で私を部屋へ招き入れた。
「おう、伯爵か。よく来たな。入れよ」

 ヨハンは私を席に着かせると、すぐに話し始めた。
 錬金術がもたらす明るい未来について、一方的にまくし立てている。こちらの用件を聞こうとは、つゆほども思わないようだった。
 わざわざ来た以上、私が錬金術に期待を寄せていると思ったのかもしれない。しかしこの調子では、まともな会話は成立しそうになかった。

 何とか話の切れ目を見つけ、私は急いで口を挟んだ。
「あの、ベトガーさん。私が今日お伺いしたのは……」

 しかし、これさえも即座に遮られたのである。
「あんたが、おれのお父ちゃんだったら良かったのになあ」
 両手で頬杖をつくヨハンは、うれしそうに言うのだ。
「あんたの著書は全部読んだよ。『精神の医学』なんか、すごく良かった。おれさ、本を読みながら、こういう人に導いてもらえたらどんなに良かっただろうって思ったんだよね」

 私は絶句したが、この馴れ馴れしい態度に怒りは覚えなかった。
 むしろ逆だ。まるで霧が晴れ、ザクセンの暗い森に一条の光が差し込んだような気がしたのである。
 
 年寄りの感傷と言われてしまうかもしれない。だが私は、澄み切った若者の目に感動すらしていた。大いなる希望の光が、そこにはあったのである。
 
 私には家族がいない。とにかく研究一筋に生きてきて結婚をせず、もちろん子供も授からなかった。屋敷や財産は遠縁の者を養子にして継がせる手はずになっている。
 孤独な人生は覚悟の上。そう思って生きてきた一方で、次世代を残せなかったという深い悔恨、そして一抹の寂しさがあるのは紛れもない事実だった。

 今になってこんな私を父親のように慕ってくれる若者が現れるとは。これは長年の苦節に免じ、神が与えたもうた幸甚ではないか。ほとんど本気で、私はそう思った。

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