第5話 国王の事情

文字数 1,445文字

 だがアウグスト王は沈黙している。
 
 どうしたのだ、とその表情を盗み見て、私はようやく気づいた。
 いつにない、国王のおびえた目つき。誰かにすがりたいとでも言ったような、不自然に浅い呼吸。
 明らかだった。陛下とてヨハンを処刑したくはないのだ。

 何しろ錬金術というものに対し、ザクセンではすでに国庫を傾かせるほどの多額の投資がなされてきた。陛下にしてみれば、この男を処刑すれば自分が騙されたと認めることになり、権威の失墜は免れない。もしヨハンに希望があるとすれば、この一点のみだろう。

 案の定と言うべきか、国王はヨハンにまだ可能性があることを匂わせた。
「これだけ痛い目にあえば、そろそろ本気にもなろう。ベトガーよ、秘法を明かす気になったか?」

 焦りを隠し、むしろ傲慢さを押し出すようにして、アウグスト王は鼻で笑った。
「いつぞやの、お前が差し出した賢者の石は失敗作だった。余はここにいるフォン・フュルステンベルクとともに実験をしてみたが、黄金はできなかった。理由を明らかにせよ」

 王は脇にいるフュルステンベルク侯爵に助けを求めるような視線を送った。侯爵もまた対応に迷った様子を見せつつ、仕方なくうなずいている。

 だがネーミッツはそんなことで引き下がるような男ではなかった。
「理由が話せるなら、逃亡などするはずがありません。陛下、処刑のご決断を!」
 
 王は肘掛けの上に置かれた自らの手を、音が出そうなほどギリギリと強く握りしめた。
 
 アウグスト王は即位前の若い頃、「騎士の旅」に出て諸国を放浪したが、中でもフランスでは特に強い感銘を受けたらしい。豪奢なヴェルサイユ宮殿がすっかりお気に召したし、太陽王ルイ14世に会った時は、まさに生きた目標が目の前にいると感じたそうだ。

「王たる者、あのようでなければならん!」
 当時は王子だったこのお方が拳をふるって力説しているのを、私もこの耳で聞いた。

 その後、王子は兄の死によって選帝侯の座を射止め、ザクセンの宮廷は一気にフランスの色に染まっていった。新国王の権勢欲は、即位後さらに激しさを増していき、気づけばザクセンのような小国の君主では満足できなくなっていた。

 目をつけたのが、隣国ポーランドだ。
 豊穣の大地の、その王位を兼任したいと考えた国王は、王妃クリスティアーネを裏切る形でカトリックに改宗。ポーランドの聖職者や貴族にも莫大な賄賂を支払った。今この王が二つの王冠を手にしているのは、かなりの犠牲を払った上でのことなのだ。

 しかし当然ながら、そうやって見栄を張った代償がある。目下ザクセン公国は大北方戦争に巻き込まれ、スウェーデンと対決を余儀なくされているところだ。

 その戦費調達が厳しいのはもちろんだが、王が抱えたおびただしい数の愛人、身の丈に合わない宮廷生活。表向きの華麗さとは裏腹に、この国はもう崩壊寸前なのである。

 錬金術さえ成功すれば、この国は救われる。
 そう信じて陛下はヨハンに望みをかけてきた。だからここで錬金術には希望がないと断じるわけにはいかないのだ。
 
 今だ!
 私は顔を上げた。ヨハンを救い出すのは、今だ!
 
 覚悟を決め、私は一歩前へと踏み出した。玉座脇のフュルステンベルク侯爵がぎょっとしたように顔を上げ、小さく首を振っているが、もう後戻りはできなかった。

「お待ちください」
 その途端、アウグスト王もヨハンも救いの声を聞いたようにこちらを見た。
 侯爵だけが嘆かわしく額に手を当てている。申し訳ないが、あとで謝るしかないだろう。

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