第8話 科学者になりたい

文字数 3,059文字

 それからの私は、身悶えするかのように磁器を求めだした。まさに狂気の沙汰だった。

 東洋磁器は貴重な宝で、当然ながら決して安くはない。一介の学生である私が手に入れようと思ったら、当然やり繰りや工夫が必要だったが、それも父の仕送りがあったから可能だったことだ。
 私は貯めた小遣いを手に各地の市に出向き、はるかな東の国からやってきた貴婦人を探し求めた。

 自分の性的不能に気づいたのはいつの頃だったか。

 私は生身の女性を愛せない代わりに、東洋磁器を愛したのかもしれない。壺や皿に見入り、その縁に指を滑らせては、魂が抜けていくほどのため息を漏らした。一つ、二つと手に入れても満足することはなかった。まだ欲しい、もっと良いのがあるはずだという思いが渦巻き、私はより激しく東洋磁器を求めるようになっていった。

 やがて自分で粘土を練り、ろくろを回し、窯に火を焚くようにもなった。磁器関連の書籍も買い漁った。
 だがこの私の手からは、美しい磁器は生まれなかった。何度挑戦してみても、どんなに粘土の調合を工夫してみても、窯から出てくるのは作品とも呼べぬものばかりだったのだ。
 私の恋は、東洋磁器の美しさの秘密を科学的に解明したいという思いに変化していった。

「留学しなさい、レオン。お前はザクセンにいてはいけない」
 父フリードリヒがそう言ったのは、異母兄たちとの後継争いから私を遠ざけるためだった。留学など表向きの理由に過ぎない。

 だが私はむしろ有り難いと思った。どのみち兄たちと争える立場にはないし、学問を続けるにはこの国の環境は悪夢のようだった。ザクセンには最先端の科学はもちろん、自由な学びの場もなかったのだ。

 だからこそ、進学先にはオランダのライデン大学を選んだ。ここは特に自由な学風で知られており、私の思いに答えてくれるに違いなかった。私は期待に胸を膨らませて、西ヨーロッパへと向かったのである。

 ライデンの町に到着して、私は目を細めた。
 確かに空気までが軽く、日差しにあふれていた。それは大学という学問の府に限らなかった。通りを行きかう人々の表情からも、物売りの声がする下町の喧噪からも、新しい時代の風が吹いている。

 ただし吹き付けるのは優しいそよ風などではなく、命を落としかねない暴風でもあったのだ。
 
 私のような一学生の身でも、外に出れば危険と隣合わせだった。特にフランスのルイ14世によるオランダ侵略は衝撃的な体験と言っていいだろう。
 ぼろをまとった物乞いのオランダ人親子がフランス兵に無残に斬り殺されるのを目撃し、私はこの世の悲惨な現実に怒り狂った。こんな暴力が許されて良いはずがないと思った。

 若く、正義感に燃えていた頃のことである。何かせずにはいられなかった。自分には何かができると信じてもいた。
 オランダ軍に志願したのは、そんなわけである。

 さっそく命じられたのは、兵站基地から前線への物資の補給だった。
 だが湿地の多いオランダの土地柄である。将校の私ですら馬には乗れず、部下たちと泥まみれになって(わだち)にはまった車を押す毎日。現実とはちっとも美しくないもので、理想はたちまち崩れ落ち、私は生きる気力すら失っていった。

 そして日差しの強い、ある夏の日のこと。
 背の高い枯れ草に囲まれた場所で、私たちはフランス軍の一隊と鉢合わせしてしまったのである。視界が利かず、本当にその時まで気づかなかった。ブンブンと虫の羽音が響く中、兵たちが枯れ草越しに呆然と見つめ合ったのをよく覚えている。

 私は迷った。こちらは戦いの準備などまるでできていない。ただ、敵兵の陰りを帯びた目を見たその時、このままでは全員が殺されると思った。

 考える暇もなかった。私は号令を掛け、自分も無我夢中で剣を抜いた。

 がむしゃらに突き進んだだけだ。
 だが恐らくフランス人も敵地で泥に足を取られ、疲れ切っていたのだろう。私たちはすぐさま圧倒的な勝利をおさめた。
 気づけば周囲は敵の死体だらけ。味方はといえば一人の損傷もなかったという次第である。

 この戦功は派手に表彰された。
 だが自分たちへの称賛の声が上がれば上がるほど、私は強い自己矛盾の感を覚えていった。

 何をやっているんだ、と自分の手を見つめて思った。何より暴力を憎んできたのに、自分がやっているのは暴力そのものではないか、と。
 要するに、軍人の任務とはそういうものだという自覚が足りなかったのだ。自分が殺したフランス兵の顔がたびたび夢に出てきて、私は夜中に飛び起き、頭を抱えて泣いた。このままでは狂って死んでしまいそうだった。

 軍を離れ、同時にオランダという国をも離れた。これは私にとって大きな挫折だった。

 その後の私は、ロンドン、そしてパリへと居を移した。学者としてやっていける保証はどこにもなかったが、やはり幸運だったと言うべきだろう。ここでも故郷の父からの仕送りを頼りに、何とか学問にいそしむことはできたのである。

 実際、苦しい日々の中では何より学問が救いとなった。
 特に哲学だ。自らの存在と知識と倫理の合理的探求によって、私は自分の目が開かれていくような感覚を得た。まさに学問は人を自由にするのだ。

 私は書物の海に身を投じた。他の若者が恋や遊びに血道をあげるその時に、私は部屋に閉じこもってひたすら読み、書いていた。当時は学術雑誌というものが刊行されたばかりで、私もようやっと書き上げた論文を何度か投稿したものだ。

 とはいえ、それだけで一人前の学者になれるわけでもない。

 書物とのにらめっこに疲れ、息抜きに外出するとき、行き先はいつも焼物工房だった。
 天日干しされる、ずらりと並んだ皿。職人たちの手わざ。親方とのたわいない会話。

 焼物作りの難しさは、私にとっては崇高な学問分野と地続きだった。土にまみれた職人たちと、いつか東洋磁器に負けないものを作ろうと言い合った。彼らは創作し、私は研究する。それがようやく見つけた私の青春、私の光だったのだ。

 だがその光の中に、いつまでも身を置くことは許されなかった。とっくに断ち切ったと思っていた桎梏は、しつこく私にまとわり続けていたのかもしれない。
 故国を離れてちょうど十年後、父を始めチルンハウス家の人々が病で相次いで他界した。

 私は相続人としてザクセン公国に呼び戻された。西ヨーロッパに留まっていたいというわがままはもう許されなかった。代わりに宮廷貴族の身分が転がり込んできたのである。

 だが久々に戻った故郷は、相も変わらず暗黒の世界だった。
 まさにこの世にこれほど暗くおぞましい土地があろうかと思うほどで、私は絶望的な気分でその風景を眺めた。ザクセンとはこんな国だったか。光の届かぬ黒々とした森がどこまでも広がり、人々は因習に縛られ、正体不明の悪魔に頭を押さえつけられている。

 ここで生きていくしかないのだ、と自分に言い聞かせた。
 学者をやめるわけではないのだ。ザクセンでも研究を続ければ良い。

 もちろん現実はそう甘くはなかった。私は確実に研究の時間を失った。身分と経済力の代償として、私は学問の自由を捨てることになった。だからこれもまた大きな挫折だったのかもしれない。

 あのままパリにとどまっていたら、と何度思ったことか。同年代の友人たちの論文が注目されるたび、私は悔しさに唇を噛み締め、胸がかきむしられる思いがした。
 私だって、と思わずにはいられなかった。たとえ生活は貧しくとも、私だってパリにいればより輝かしい研究成果を上げられたはずなのに。

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