第31話 ヴェリータス・リベラービット・ヴォス

文字数 3,043文字

 初めて父、フリードリヒの前に引き出された時。
 9歳の私は、牙を剥く狂犬も同然だったと思う。

 とにかく、まともに言葉も話せないような状況だった。無理矢理、人々に肩を押さえつけられ、私はその貴族の前に膝を付かされたのだ。

 父は、その時何と言ったのだろう。何となく覚えているのは、立派な椅子に腰かけた父が無表情かつ無言で私を見つめていたことだけだ。

 父はただ私の養育を断り切れなかったのだと思う。だからとりあえず引き受けはしたものの、自分からは遠ざけた。表沙汰にしたくない上に、手のつけられない子供である。自分の視界にいて欲しくないという点においては、父も村人たちと同じだったのかもしれない。

 田舎の領主屋敷で、私は孤独な生活を始めた。
 使用人は多くいたが、高い天井の下、大きな長い食卓に付くのは自分だけ。どこまでも一人ぼっちだった。生命の危険を脱し、衣食住が満たされても、心が満たされることはなかった。

 私はたびたび悪夢にうなされ、夜中に飛び起きた。あの牧師や母の足元に火をつけた男たちが悪魔に姿を変え、何度も何度も私を襲ってくるのだ。

 朝が来るたび、私は今日こそ命を絶とうと思っていた。私は自分に仕えてくれる人々を罵倒し、彼らの顔を引っ掻いたり殴りつけたりした。
 多くの人々が匙を投げ、私の元を去っていったが、老僕マクシミリアンだけは例外だった。彼は私を抱きしめ、一緒に泣いてくれたのだ。
「お祈りしましょう。主はきっとお助け下さいます」

 一緒に苦しんでくれる人がいたことで、一時的に心が解放されたこともあったように思う。だがその程度では本当の救いにはならなかった。
 私はまだまだ、この世の理不尽に怒り狂っていた。
 だって神の言葉を私も母も信じていたし、教会にもちゃんと通っていたのだ。なのに悲劇は起きた。信仰の力など無力だ。何の助けにもならないではないか。

 あるとき、衝動的に屋敷を飛び出して行こうとした私の前に、めずらしく父フリードリヒが立ちはだかった。泣きじゃくる私の両肩をぐっとつかみ、父は私の目を覗き込んだ。

「……ヴェリータス、リベラービット、ヴォス」

 まだ反抗心でいっぱいだったのに、なぜだろう。ラテン語による、その聖書の言葉は私の心に突き刺さった。
「レオン。学問をせよ。お前は真理を追求すべきだ」
 父の強い目。それを跳ね返す思いで見返しても、逆に圧倒的な何かにねじ伏せられた。
「留学しなさい、レオン。私はできる限りの援助をする」

 真理はあなた方を自由にする。
 遠い世界で輝くその光をつかみに行けと言うのだ。家庭の中でまともに過ごせないような子が一人で外国へ行くなんて無茶な話なのに、父なりに思うところがあったのだろう。

 この子を救うには学問しかないという結論。それは暗闇を照らす灯のように不確かな考えだが、私にもこの時、一筋の光が見えたような気がしたのである。

 父もまた本気だったからこそ、命がけで子供に向き合ったからこそ、当時の私に響いたのではないだろうか。絶望の果てのそのまた向こうにかすかな希望がある。聖書はそう語っているのかもしれないのだ。

 この時から私の激情の方向性がぐるりと変わっていった。
 がむしゃらに前に突き進んだ。おそらく私はその代わりに、悲し過ぎる記憶を脱ぎ捨てていったのだ。

 はるかな東方からやってきた白磁が、共に歩いてくれた。白く半透明な肌はいつだって真理の存在を暗示し、ともすればくずおれそうになる私を支え、導いてくれた。
 気づけば私の目の前に、まっすぐに伸びる科学の道があったのだ。

 今なお、私はあの卑劣極まる暴挙を許してはいない。母を苦しめ、傷つけた人間のことも、それを許した世間のことも受け入れてはいない。この胸には短剣が深く刺さったままで、今でも絶望と怒りの血を流し続けている。そんな惨めな姿で、私はずっと生きてきたのだ。

 それでも、と思う。
 白い貴婦人は今、私の思いに応えてくれた。だから耐え難く壮絶な過去がよみがえっても、私はこれから前を向いて生きていけるだろう。

「……どうしたんだよ、伯爵。大丈夫かよ、なあ?」
 ヨハンが、滂沱の涙を流す私の背をなでてくれている。私の思いははるかな時空を超え、長い旅を経てここへ戻ってきた。

 私は茫然として若者を見返した。ヨハンは神の使わした伝道者だったのだ。いつかこの日が来ることを、私は最初から知っていたのかもしれない。この若者を助けたあの時、私はイマリへの最後の橋渡しを彼に求めたような気がするのだ。

「……ありがとう。ありがとう、ヨハン」
 私は若者の手を取り、万感の思いで自分の額に押し当てた。
「よくぞ私を、ここまで連れてきてくれた」

 いつの間にか夜が明けていたらしく、青みを帯びた光が小窓から差し込み、石造りの冷たい部屋に斜めの線を作っている。
 暁の爽やかな空気が、すべての邪悪なものを浄化していく。やがて柔らかな色味に変わっていく光が卓上の小さな棒を照らし出し、ヨーロッパ磁器の誕生を力強く祝福してくれていた。

 ここまで来たら、あとは製品化である。

 目的地はすぐそこだと思った。ところがそんな私の甘さを突くように、ここでまた別の問題が浮上してきたのである。

 いや、以前からの懸念が表面化してきたと言うべきか。
 何しろこれまでの白磁研究にかかった費用はほとんど私が立て替えている。ザクセンが戦争で困窮しているがゆえの、致し方ない処置だった。

 国王に技術提供するなら、まずはその代価を求めるべきだった。私は請求書を作成し、2651ターラーの金額を記した。これまでの経費を示した上での、少しの過不足もない金額である。

 だが案の定というべきか。陛下から文書で返ってきたのは冷淡な言葉だった。
「磁器工房が実働を開始するまで、支払いを延期する」

 私はそれを手に顔をしかめた。またネーミッツが横槍を入れているに違いない。白磁の発明は今や国是であり、誰にも否定できないが、あの男はせめて私の宮廷での発言権が増すことだけは避けたいのだろう。

 とはいえ、こんなところで足踏みしているわけにはいかなかった。またも自費を投入することにはなるが、先に生産体制を整えていくしかないだろう。何しろアルブレヒト城もユングフェルン稜堡もあくまで研究施設であって、工場ではないのだ。

 私はドレスデンのノイシュタット地区に空き家を買い求め、改修して窯場と細工場を作らせた。
 まずはこの小さな工場において、赤色炻器(せっき)と旧来の錫釉(すずゆう)陶器で操業を開始しようと思うのだ。これらはすでに製品化して売れる水準に達しているため、ここで商業的な道筋をつけられるし、熟練職人を集めてもおける。

 至高のドレスデン磁器を世に送り出すまで、あともう少し。
 私もヨハンも、眠る暇もないほど忙しい日々が続いた。

 そんなある日のことである。
 新しい工場から稜堡への帰り道、急にぐらりと町の風景が揺れた。

 私は石畳の道で足を止め、壁に片手をついた。
 どうしたことだろう? 頭痛がするし、ひどい悪寒が走っている。
 
 こんな大事な時に倒れている場合ではなかった。私は冷や汗を浮かべて歩き、ようやくユングフェルン稜堡に戻ったが、その時にはすでに猛烈な腹痛にも襲われていた。

「お、伯爵。帰ったのかよ。工場の方はどうだった?」
 ヨハンが窯場から真っ黒な顔を出したが、答えを返す余裕もない。私はふらつく足で壁伝いに歩き、どうにか自室の扉を開けると、寝台の上にどさりと倒れ込んだ。

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