第23話 北方の嵐

文字数 1,978文字

 だいぶ待たされた挙句、アウグスト王は亡霊のような顔をして現れた。
 
 言葉はなく、顔色も悪く、いつもの精悍さはいささかも感じられない。傍らのネーミッツに体を支えられて、ようやっと歩いているような有様だ。
 戦争と言っても王が自ら剣を取って戦うわけではないのだが、無理もないだろう。戦場の生活は不便であるし、気疲れもするはずだ。

 少々驚いたが、時間を取らせてはならない、と思った。
「……お疲れのご様子、手短にご報告申し上げます」

 私は前置きもなく赤色炻器の顛末を話し始めた。どんなに疲れていようと、この国王が磁器発明を強く望んでいたのだ。必ず喜んでくれるはずだと思っていた。

 しかし王の脇で聞いていたネーミッツが急に片手を出し、私の言葉を遮ってくる。
「ご用件は、それだけですか。チルンハウス伯爵」

 その時、おやと思った。ネーミッツの刺々しい物言いはいつものことだが、何か尋常ならざる気配を感じたのだ。
 見上げると国王は無表情で、ネーミッツだけが顔を真っ赤にしている。
「いよいよ白磁が完成したのかと思い、拝謁を許したのですよ。そうでないなら、ただの邪魔です。さっさとドレスデンへお帰り下さい!」

 ネーミッツの声が毒矢のごとく私の全身に突き刺さる。
 こちらはわけが分からなかった。研究がそもそも国王の命令である以上、進捗を報告しなければそれこそ処刑ものではないか。

 だがアウグスト王の目はうつろで、話の内容を理解しているのかさえ定かではない。それを良いことに、ネーミッツがこの場を取り仕切るように告げてきた。
「陛下はついにご決断されました。北方へ派遣したザクセンの全軍を撤退させることを」
 
 え、と私は小さく声を漏らした。遅まきながら、何が起こったのかの見当はついた。
 まずいところへ来てしまったのだ。思いもよらなかったとまでは言わないが、私は磁器の研究で頭がいっぱいで、正直なところ戦争の心配などしていなかった。

「……さほどに、戦況は厳しいのですか?」
 呆然としつつ聞くと、ネーミッツは短い口髭の下で嘲笑を漏らした。
「この危急の時に、何を言っているんですか、あなたという人は」
 勝ったと思ったのかもしれない。意気軒高な寵臣はここぞとばかりに、私の落ち度を責めてきた。
「多くのザクセン兵が無残に死に絶え、陛下は大変にお心を痛めておられるのですよ。このような時に何ですか、赤い磁器を作りました、ですって? は〜、学者さんは良いですねえ。ずいぶん呑気なことで」

 さんざん嫌味を言われた挙句、ろくに反論もできないまま、私は追い出されるように本陣を辞した。

 来た時には気づかなかったが、見れば森のあちこちに幔幕が張られている。
 中を覗くと、そこにはおびただしい人数の負傷兵が横たわっていた。血まみれのまま放置された者、ぐるぐる包帯を巻かれた者。まったく動かない者もいる。
 苦痛のうめき声があふれる凄惨な現場に、私は立ち尽くすしかなかった。

 軍人たちは皆忙しそうにしていたが、運良く知り合いの将校が私に気づいてくれたようだ。ぎょっとしたような顔で、こちらへ駆け寄ってくる。
「伯爵様! こんな所で何をしていらっしゃるんですか」

 私の肩を抱くようにして物陰へと誘うと、その将校は小声で告げてきた。
「ここは危険です。ただちにお帰りになって下さい」
 勇猛で知られるザクセン軍が、惨敗に次ぐ惨敗を喫しているのだという。これまでの常識では考えられないことだったが、今目の前に広がっている光景は、確かにその情報を裏付けている。

 語っているその将校も、隠しようもない憔悴を滲ませていた。
「兵の消耗ぶりからすると、わが国は戦争を継続できる状態にはありません。ここも、間もなく引き上げることになるかと思います」

 カール十二世率いるスウェーデン軍は、北方から吹き寄せる大嵐だったのだ。あらゆる枯葉を巻き上げるその巨大なつむじ風は、刻々とここへ迫っている。

 質問をする余裕すら与えられないまま、私はその将校に肩を抱かれた。
「スウェーデン軍が来る前にお逃げください。さあ早く舟へ!」
 そのまま、私は帰りの舟便に押し込まれてしまったのである。

 ポーランドを離れる舟の中、私はくすんだ灰色の川面を呆然と見つめるしかなかった。
 我が国が敗戦? 本当だろうか。

 本当なら、おそらくザクセンの北方同盟からの離脱はもはや避けられないだろう。大国ロシアの庇護は受けられなくなり、アウグスト王はポーランド領を失うことになる。

 だが、と私は冷ややかに目を上げる。
 それで窮地に陥るのは私ではなく、これまで陛下をさんざんけしかけ、戦を推し進めてきたネーミッツの方ではなかろうか。あの異常な金切り声。あれは彼が追い詰められている証拠だと考えると、すべてが符合する。敵の方も政治生命を絶たれるかどうかの瀬戸際にあるのだろう。

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