第32話 Q.E.D

文字数 3,469文字

 倒れてからもう一週間になる。
 衰弱し切った私は、もはや寝台から起き上がることもできなくなっている。激しい嘔吐と下痢を繰り返し、食べ物はもう喉を通らない。

 水か、食べ物が汚染されていたようだが、はっきりした原因や病名は分からない。国王も今度ばかりは気を揉んでくれたのか、医師のバルトロメイを私の元へ派遣してくれた。

「水分だけでも、ちゃんと取りましょう」
 バルトロメイは元気付けるように言い、わずかな水を口に流し込んでくれるのだが、そんな彼の表情の奥は曇っている。恐らくこんなのは気休めでしかないのだろう。

 夕刻、バルトロメイが帰ると、入れ替わるようにヨハンが部屋に入ってきた。昼間の仕事で疲れているだろうに、彼は休む暇もなく夜の看病に入ろうとしている。

 しかも、汚れた私の下着を取り替えるようなことまで、厭わずにやってくれるのだ。
「……こんなことまで、済まない、ヨハン」
 ひどくかすれた声しか出せないが、それを言わずにはおれなかった。
「だが、君に病気をうつすわけにはいかない。私のことは、もう放っておいてくれ」

「気にすんじゃねえよ。おれはこんなこと平気だぜ」
 ヨハンは盥で手を洗い、ぶっきらぼうに言った。目の下には、ひどい隈ができている。ここ数日、ほとんど寝ていないのだから無理もなかった。

「大丈夫、すぐに良くなるぜ、伯爵」
 ヨハンは笑って立ち上がった。
「見せたい物があるんだ。今、持ってくる」

 間もなくヨハンは、布でくるんだ何かを胸に抱えて戻ってきた。
「例のティーカヌだよ。今日、やっと焼き上がったんだ。ほら」

 包みの中からは、一点の曇りも汚れもない白い急須が現れた。私の手はぐったりして力が入らないが、ヨハンがその手を取り、白い肌に触れさせてくれた。

 この急須を成型したのも、持ち手と注ぎ口を付けたのも、元気だったほんの数日前の私である。寝ている間にヨハンが窯入れをし、火の番をしてくれたのだ。

「固く締まっていて、どこにもヒビがねえ。完璧だよ。伯爵の執念が産み出した白磁だな」
 ヨハンの声が壁や天井に反響している。必要以上に朗らかで、力強いからだ。

「……よくやった。よくやったぞ、ヨハン」
 私は笑おうとしたが、思いようにはいかなかった。弱々しく一筋の涙が流れただけである。
「君は、ついに完成させてくれたのだ。東洋の借り物ではない、本物のヨーロッパ磁器を」
 
 とにかく先日の段階では小さな棒切れでしかなかったものが、細かい部品を取り付けた形状でも仕上げに至ることが証明された。ひとまず素地(きじ)については、成功したと言っていいだろう。

 とはいえ釉薬と上絵の研究はまったくこれからだ。
 東洋の国に肩を並べるまで、まだまだ多くの試練が待っている。私にはそれがわかっている。わかっているだけに、言い知れぬ無念が全身を駆け巡るのだ。悔しさで全身が打ち震えるのだ。

 ここまできて、ドレスデン磁器の完成を見届けられないとは。

 ヨハンは毎日、弱気になるなと励ましてくれている。私の回復はもう見込めないと分かっているだろうに、彼は作り笑いをし、時には次の実験の提案までしてくれるのだ。
 
 だが今日という今日は我慢が限界に達したのか、無理な演技はくずおれてしまったようだ。
 ヨハンは寝台の脇で顔を隠すようにうつむいたが、大粒の涙が音もなく落ちていくのが、横になっている私からも見えた。小さな子供のように、彼は頼りなく肩を震わせる。

「……嫌だ。嫌だよう」
 すすり泣きの声が部屋の中に響く。
「伯爵がいなくなったら、おれ、どうすりゃいいんだよう。たぶん、すぐに処刑されるよ。頼むから、おれを一人にしないでくれよう」
 
 まさにそうだった。ヨハンは単なる「結果を出せない錬金術師」なのである。アウグスト王は余計な温情などかけてはくれないだろう。
 ヨハンの命もここまでなのか。そう思った途端、胸が張り裂けそうな気がした。

 私の動かないはずの腕が、ぶるぶると震え出したのはその時だ。
「……ヨハン。私の愛しい息子よ」
 手が動かせる。私は思い切ってその手を伸ばし、ヨハンの頭をそっとなでた。
「私が白磁とともに生み出した、科学の子よ」
 神がこの若者を授けてくれた意味を思う。イマリの皿が私の妻なら、ヨハンは息子なのだ。
 
 だからこそ、私は強く願う。この子の運命の歯車が変わるようにと。
 しかし何もしなければそんな奇跡は起きないだろう。ここで決意を示さねばならない。私は死後もなお、ヨハンを守るのだ。

「よく聞け、ヨハン」
 私はかすれた声を振り絞る。
「私の代わりに、白磁を完成させるんだ。君のためだ。君にとっては不本意だろうが、黄金ではなく白い金、すなわち白磁を作りなさい。そうすれば、誰も君を処刑できない」
 
 わずかな唾を飲み込み、乾いた喉をどうにか潤して、私は言葉を継いだ。
「これまでの研究で、私はヨーロッパ中から資料と文献を集めた。わが屋敷でシュタインブリュックという男が管理している。あれを全部、君にあげよう。私の死後、君がヨーロッパ磁器の発明者として、歴史に名を残すが良い」

「な……何言ってんだよ、伯爵」
 ヨハンは涙に濡れたままの顔を、びっくりしたように私に向けた。
「磁器のことは、あんたが一生をかけて研究してきたんじゃないか。おれは最後の最後に乗っかっただけだよ」

「いいんだ。それでいいんだ、ヨハン」
 壮絶な痛みが遠のき、代わりに言いようのない幸福感が私を満たしていった。
「私の代わりに、白磁の技術が君を守ってくれる」

 親友ゲッツに呼びかける。
 私は道を見つけたよ。確かにアカデミーは作れなかったし、血のつながる子供を持つこともなかった。だがそんな私でも、自分のすべてをなげうつ覚悟ができた時、こうして次世代を光の中へ送り出すことができるのだ。

「ここは狭いし、窯の大きさが不十分だ。研究を続けるのは、やはりアルブレヒト城がいいだろう。ただし、向こうでもネーミッツ達の動向には気をつけろ」

 どこまでヨハンに生き抜く力を残してやれるか。私の最後の戦いだった。
「彼らは、君の知識と技術に嫉妬している。今後も執拗な嫌がらせは続くだろう。だが君は何をどう言われようと、自分の仕事に集中するのだ。本物の仕事は、悪意などに屈しない」

 ヨハンは息を飲み、震えながら宙を凝視している。
 そんな若者の肩越しに、ふと向こうの壁が見えた。

 イマリの十角皿が、私を見つめている。
 そのあまりの完成度の高さに、私は今なお愕然とする。何という美しさ。何という輝き。その神々しいまでの白さが、世界を祝福しているかのようだ。

 イマリよ。比類なき白の貴婦人よ。
 教えてくれ。お前を産み出した陶工は、どんな顔をしているのだ。

 いや、私には見えている。彼の足が踏みしめる大地は今、私の目の前に燦然とした姿を見せてくれている。そこはきっと豊かな川と舟運に恵まれ、膨大な薪をもたらす森のある国だ。山々は滴るような深い緑を抱き、奇跡の石を日々もたらしているであろう。

「……最後に頼む。ヨハン」
 私は小刻みに震える指先を、その十角皿に向けた。
「あのイマリの皿を、私とともに葬ってくれ。そう、私の棺の中に」
 天使ガブリエルが聖母マリアに受胎告知をしたように、イマリの皿は私に新時代の黎明を告げに来た。気の遠くなるほどの壮絶な旅を経て、この私の伴侶となってくれた。

 だが大いなる再生産に貢献した今、この皿の役目は終わったのではなかろうか。その長く果てしない旅を終わらせ、私がこの世から連れ去っても、彼女は許してくれるだろう。

 ヨハンはしばし振り向いてイマリの皿を凝視していたが、やがて私の方へ顔を戻した。
「ああ、わかったよ、伯爵。いつかはその通りにしてやる。でも今はまだその時じゃねえ」

 かすんでいく視界の中で、ヨハンがまだ泣きながら絶叫している。
「おれが最高の磁器を焼いてやるよ! マイセンを磁器の都にしてやるよ! だから頼むよ、伯爵、死なないでくれ。おれを一人にしないでくれよう」

 ここに、証明終了の三文字「Q.E.D」を記して締めくくりとする。人生の解にたどり着いた私は今、森の奥から尽きない泉が湧き出したように満ち足りた気分である。

 この白磁の皿をかき抱いて、私は栄光ある神の御下に凱旋しよう。多くの天使たちが清らかな歌声と、目も開けられぬほどのまばゆい光をもって、この私を迎えてくれることだろう。

 ヨハンが私の体を揺らしている。塔のはるか彼方で、星が小さく瞬いている。 

 (了)
   



      ドレスデン聖母教会
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