5-4
文字数 5,578文字
翌日も、僕は学校を休んだ。僕はぼんやりとテレビのワイドショーを見ていた。
内容はある殺人事件に終始していて、サイコパスという文字が躍っていた。罪悪感がなく、自分勝手な犯人を糾弾する内容だった。
紅ちゃんはこんなやつとは正反対の存在だ。思いやりがあって、人の目をとても気にする。不器用だけれど、誰かのために行動する。
だからこそ僕は、紅ちゃんが僕のために暴力をやめてくれたと思っていた。
しかし、それが裏切られると、僕の中の紅ちゃん像が間違っていたということになるのだろうか。
雨の中で見た紅ちゃんの感情が分からなくて、僕は自信が持てなくなっていた。
四時過ぎくらいになると、インターホンが鳴った。
誰かと思って窓から見下ろすと、そこには千愛莉ちゃんがいた。そして、唯奈と麗がいた。僕は急ぎ足で玄関へ向かう。
「こんにちはー」
「…………」
笑顔の千愛莉ちゃんとは対照的に、唯奈と麗は表情を隠すようにむすっとしていた。
「……どうしたの?」
「体は大丈夫? 中止になるのも嫌だったから、お見舞いも込みで来ちゃったの」
「中止?」
「忘れちゃってたの? 今日は唯奈さんのプチ誕生日会の日だよ!」
千愛莉ちゃんは呆れたように言った。そういえば、もうそんな日だった。
「上がって」
三人を家へと上げてやると、いつもどおり、まずは居間へと向かった。
三人揃って手を合わせると、僕は妙な気分になる。唯奈と麗はいまだに会話をしていないが、大人しく淡々と儀式をこなしていた。
「ケーキなんだ。切りたいから台所借りるね! お茶も入れるよ!」
「うん」
僕は千愛莉ちゃんを待っていようと思ったが、他の二人の視線に押されて、結局一緒に二階へ向かうことになった。
僕、麗、唯奈の順番で階段を上っていく最中、麗がポツリと呟いた。
「……偶然、なのよ」
「麗は別に呼ばれたわけじゃないんだ」
「その……前のことがあったから、ハジメと話がしたくて……」
麗は元気なくそう言った。後ろめたい気持ちのせいだろうか、今日の麗はかわいいくらいに大人しい。
「そっか」
僕はなるべく軽くそう言った。こんな形だけれど、麗と唯奈が久しぶりに一緒に家に来たことに、僕はわくわくしていた。
僕がベッドに腰を下ろし、麗は部屋の角のほうに、唯奈はテーブルの前に座った。
しばし無言になると、僕の頭の中には三すくみという言葉が浮かぶ。ただし関係はもっと複雑だった。
「お待たせしましたー」
均衡を崩したのは、もちろん千愛莉ちゃんだ。ケーキと紅茶を人数分持ってくると、テーブル上でそれぞれの近い場所へと置いていく。ケーキは美味しそうなパウンドケーキだった。
「うまそう!」
唯奈は羨ましいくらいにいつもどおりの反応を見せる。
すると、千愛莉ちゃんはにこにこと材料や作り方の話を唯奈にし始めた。
僕は麗を見ていた。居心地悪そうに、麗はパウンドケーキを見つめていた。僕は麗の近くへと移動した。
「唯奈さん誕生日おめでとーございまーす!」
「わー、ありがとー。明日だけどねー」
千愛莉ちゃんの拍手に、僕も適当に参加する。
そして唯奈がパウンドケーキを食べ始めたのを見て、僕は麗に声をかけた。
「麗も食べよう。美味しそうだよ」
「……ハジメ、優しいのね。あんなことがあったのに」
麗は僕に聞こえるだけの声で言った。
「今は食べよう。話は後にしようね」
「うん……」
紅ちゃんと不良の間を麗が取り持っていたのは事実だろう。でもこんな麗を見て、僕は強く言うことはできない。
まずは話が聞きたい。何においてもそれからだ。
「麗さん、どうですか?」
「うん。とっても美味しいわよ」
千愛莉ちゃんはよくしゃべってくれる。千愛莉ちゃんがいないと会話が回らないような状況がここにはあった。
千愛莉ちゃんが怒涛のように麗に話しかけていると、唯奈は麗と逆の位置の僕の隣へ移動し、ひっそりと顔を近づけた。
「……麗はなんの用だって?」
「この前のこと」
「ああ……」
唯奈は、予想通り、というような無表情で納得した。
「ハジメは大丈夫なの? この前のことで熱出したんだろ?」
「え? ああ、大丈夫だよ」
麗のことから急に僕の体のことへと話が変わる。
僕は驚きながらも、心配してくれているのだからと、素直に返事をした。
「別にあいつに傘を渡す必要なんてなかったのに。あんなに濡れてたら、どうせ意味ないんだから」
唯奈は僕が驚くくらいに顔を近づけてくる。ひそひそと話すためだとしても、近すぎるくらいだ。
ふいに、僕は肩のほうを誰かに持たれて、そのまま後ろへと引かれた。
「――麗?」
「近い」
呆れたような口調でそう言うと、唯奈と僕の距離を離した。
「なに? 嫉妬?」
「違うわよ」
間に僕が挟まれている状況のまま、二人は今日始めての会話を交わした。
千愛莉ちゃんのほうを見ると、なんとも言えない期待感のある表情で僕の方を見ていた。
「相手を選べってことよ」
「……それどういう意味?」
この前のような険悪な感じではなく、昔を思い出すようなやり取りだった。僕はこっそりと嬉しくなる。
「やっぱり嫉妬なんじゃないの?」
「違うっての。こんなに地球上に女がいて、わざわざあんたを選ぶのは愚の極みだってことよ」
「グノキワミ?」
「ああ、難しかったわね、ごめんなさい。おバカってことよ。バカを選ぶやつはバカってこと」
「あ?」
「ん?」
「そ、そろそろやめとこっか」
さすがに止めることにした。僕は笑いを堪えながら、二人の間の防波堤としての役割を果たした。
「同じ高校に来たことだってびっくりしたわよ。ハジメはもっと賢いと思ってたのに」
「こんな体だし、近くないと不便なんだよ」
「ハジメは賢いべ。受験の時に勉強教えようとしたら、あたしは全く役に立たなかったし」
「それはあんたがバカなだけじゃないの?」
「あ?」
「ん?」
「いや、早い。早いよ」
沸点が低すぎる。二人は僕を間に挟みながら、逆方向を見て話していた。
一人だけ正面にいる千愛莉ちゃんは、保育士みたいな大人の笑顔でこちらを見守っていた。
「本当は……」
麗が何かを言おうとするが、少し詰まってしまう。どうしたのかと、僕は麗のほうへ首を向けた。
「――本当は、高校へ入る頃にはハジメと距離を置くべきだった」
後悔するように言った麗に対し、僕は不満を持つ。それは以前、唯奈がしていた言い回しに似ていた。
「どうして?」
「私たちはこんなだもの。真面目で良い子ちゃんなハジメが私たちと関わっちゃ駄目なのよ。本当はもう近づかないつもりだった」
「それでも、家に来てくれたのはなぜ?」
麗は僕の方へ振り向いた。いや、僕よりも向こう側を見ていた。
「仕方ないじゃない。唯奈も紅輝も来るんだから、私だけ行かないっていうのは納得がいかなかった。ちょっとは考えろってのよ。
……それに、ハジメは友達がいないし」
最後の一言は言いにくそうだった。でも、僕のそういうところが、みんなを不安にさせていたのだと思うと、胸が痛くなった。
「ただハジメに会いたかっただけって言えばいいのに」
唯奈はテーブルに肘をつきながら、相変わらず別の方向を見て言った。
「何よ、それはあんたでしょ? いつもハジメハジメって、一番ハジメに執着してたのはあんたじゃない」
「そんなことしてねぇよ」
「どうだか。最近は行く頻度も増えちゃって、どんだけハジメが好きなのよ」
話の方向はともかく、気になることがあったので口を挟むことにする。
「行く頻度、って、麗は唯奈がしょっちゅう来てることを知ってたの?」
「行く日が被らないように、その連絡だけは来てたのよ。紅輝はだいたいいつ行ってるのかわかってたから必要がなかったけど」
上手く別々の日に来ると思ってたけど、ちゃんと連絡を取っていたのか。
僕は拍子抜けする。そんなことをしてまで、一緒に来たくなかったのか。
「そりゃ好きだよ」
それは少し遡った返事だった。だから僕は、頭で言葉の意味するところを考えるのが遅くなってしまう。
好きだよ。僕は顔が一気に熱を持ってしまうと、唯奈の方へと向いた。
「な、何言って――」
「ハジメも弟みたいに思ってんだもん。あたし、色んな奴と友達だけど、ハジメといる時が一番楽しいし。別に、おかしいことじゃないじゃん」
何でそんなことをぶっきらぼうに言うことができるのだろうか。
正面を向くとニコニコとした千愛莉ちゃんと目が合ってしまい、左へ向くと麗がニヤッとした嫌な笑みが僕を突き刺してくる。逃げ場がない。
「……姐さんの代わりになりたいと思った」
「え?」
唯奈がポツリと呟いた言葉に、僕は固まってしまう。それは、僕が三人に対して思っていたことと同じだったから。
「麗もそうだろ? きっと紅輝もそう。だから、結局ハジメと距離を置くなんて無理な話なんだよ。
姐さんはずっとハジメのこと心配してて、そんな姐さんがいなくなったハジメのことを考えたら……なんか落ち着かないんだよ」
僕は麗の方を向く。麗は目を瞑って俯いていた。そして、首を縦に振る。
「だからあたしは、紅輝が許せなかったんだよ。ハジメを危ない目にあわせるかもしれないのに、つまんないケンカばっかしてさ。
紅輝が何をしようと勝手だよ。だけど、ハジメがどうしても紅輝を探しちゃうんだから、紅輝が自分を抑えなきゃ駄目だろ。この前のだってそう。
だから……腹立つんだよ」
ここで理解した。唯奈は紅ちゃんを嫌っているのではなく、紅ちゃんに対して怒っているたのだ。
そしてその要因の中に、僕が含まれていた。
「……そのことで、ケンカしたのよ」
今度は麗が呟いた。とっさに千愛莉ちゃんの方を見ると、頷いて返してくれた。
「ちゃんと説明してくれる?」
「……芳香さんが亡くなった後、私たちはバラバラになった。
あの時、唯奈は落ち込んで大人しくしてたけど、私と紅輝は違った。私はそこいらの不良グループに顔を利かせるようになった。ちょっと気になったことがあったから情報を集めようと思ってね。
紅輝は一人で……ハジメも知っていると思うけど、色んな奴にケンカを売るようになった。そうして、私と紅輝がぶつかるようになったわけ。
……そこで私が怪我をした。でも、それ自体は本気のものじゃなくって、怪我も不可抗力でのことだったし、紅輝を恨むこともなかったわ」
「じゃあなんで今の今までこんな……」
ついつい口を挟んでしまうが、麗がちゃんとそのことを話そうとしているのだとわかると、僕はまた黙った。
「その後よ。唯奈が前にいたグループに私も関わってたんだけど、そこで話が出たのよ。姫って呼ばれている男の子の話が」
聞き覚えがある。それもつい最近だ。あれが誰に対してのものだったのか、今はっきりとわかった。
「……ハジメが紅輝のこと追い回している時に、あいつらもハジメのことが目に付いたんだよ。紅輝に守られる姫って。
冗談っぽく言ってたことだけど、誘拐しておびき出す、とか、そいつを使って脅す、とか言われてたら、あたしら怖くなってさ。もちろん、あいつらにだってプライドもあるから、小学生に見えるようなガキにそんなことはしないけど、もし本当にバカでクズみたいなやつだと、そんなことでも平気でするかもしれないじゃん。
だから、あたしが紅輝にキレたんだよ。キレて、紅輝のことを殴り飛ばした」
唯奈が麗の代わりに言った。僕は当時のことを思い出していた。あの時、確かに僕は怖い人に見られていたような気がする。
「殴り合いのケンカをしたの?」
「こっちが一方的に殴ったんだよ。あいつ、こっちにはなんもしてこなかった」
「それから、紅輝はやめるのではなく、上手く隠すようになった。もちろん、ハジメにだけね。私たちはそのことを知っていて、むしろ隠すことに協力するようになったのよ」
「あたしはそれがバカなことだってわかってたけど、紅輝のやつはやめないし、ハジメが危ない目にさえあわなければいいと思って放っておいただけだよ」
「そして、今みたいな距離感になった。私はどっちとも仲良くするわけにはいかなかったから、どっちにもつかなかった。ただ、ハジメとは関わっていたかったから」
僕が知らないところで、もう一ついざこざがあったのだ。だから僕のしていたことは見当違いで、今までこんな状態が続いていた。
僕は両方の耳から聞こえる声を、俯きながら拾っていた。
「……何で、あいつはやめないんだよ。バカなことだってわかってて、ハジメが危なくなることがわかってて、やめられなかったんだよ」
唯奈は吐き捨てるように苦言を呈した。唯奈も僕と同じ疑問を持っていて、同じように怒ってくれているのだ。
「……そのことなんだけど」
麗が小さな声でそう言うと、唯奈は今度は僕に被さるくらいの勢いで身を乗り出し、麗を睨んだ。
麗は驚いたように一度唯奈の方を見ると、また俯いてしまう。
「なんだよ? 何か知ってんのかよ?」
「言いたくなかったことなのよ。あんたとハジメには」
麗はまだ迷っているというようにそう言った。
「聞かせて。今日はそのことを言いに来たんだよね」
僕はできる限り優しくそう言った。そうすると麗はきっと応えてくれると思った。
内容はある殺人事件に終始していて、サイコパスという文字が躍っていた。罪悪感がなく、自分勝手な犯人を糾弾する内容だった。
紅ちゃんはこんなやつとは正反対の存在だ。思いやりがあって、人の目をとても気にする。不器用だけれど、誰かのために行動する。
だからこそ僕は、紅ちゃんが僕のために暴力をやめてくれたと思っていた。
しかし、それが裏切られると、僕の中の紅ちゃん像が間違っていたということになるのだろうか。
雨の中で見た紅ちゃんの感情が分からなくて、僕は自信が持てなくなっていた。
四時過ぎくらいになると、インターホンが鳴った。
誰かと思って窓から見下ろすと、そこには千愛莉ちゃんがいた。そして、唯奈と麗がいた。僕は急ぎ足で玄関へ向かう。
「こんにちはー」
「…………」
笑顔の千愛莉ちゃんとは対照的に、唯奈と麗は表情を隠すようにむすっとしていた。
「……どうしたの?」
「体は大丈夫? 中止になるのも嫌だったから、お見舞いも込みで来ちゃったの」
「中止?」
「忘れちゃってたの? 今日は唯奈さんのプチ誕生日会の日だよ!」
千愛莉ちゃんは呆れたように言った。そういえば、もうそんな日だった。
「上がって」
三人を家へと上げてやると、いつもどおり、まずは居間へと向かった。
三人揃って手を合わせると、僕は妙な気分になる。唯奈と麗はいまだに会話をしていないが、大人しく淡々と儀式をこなしていた。
「ケーキなんだ。切りたいから台所借りるね! お茶も入れるよ!」
「うん」
僕は千愛莉ちゃんを待っていようと思ったが、他の二人の視線に押されて、結局一緒に二階へ向かうことになった。
僕、麗、唯奈の順番で階段を上っていく最中、麗がポツリと呟いた。
「……偶然、なのよ」
「麗は別に呼ばれたわけじゃないんだ」
「その……前のことがあったから、ハジメと話がしたくて……」
麗は元気なくそう言った。後ろめたい気持ちのせいだろうか、今日の麗はかわいいくらいに大人しい。
「そっか」
僕はなるべく軽くそう言った。こんな形だけれど、麗と唯奈が久しぶりに一緒に家に来たことに、僕はわくわくしていた。
僕がベッドに腰を下ろし、麗は部屋の角のほうに、唯奈はテーブルの前に座った。
しばし無言になると、僕の頭の中には三すくみという言葉が浮かぶ。ただし関係はもっと複雑だった。
「お待たせしましたー」
均衡を崩したのは、もちろん千愛莉ちゃんだ。ケーキと紅茶を人数分持ってくると、テーブル上でそれぞれの近い場所へと置いていく。ケーキは美味しそうなパウンドケーキだった。
「うまそう!」
唯奈は羨ましいくらいにいつもどおりの反応を見せる。
すると、千愛莉ちゃんはにこにこと材料や作り方の話を唯奈にし始めた。
僕は麗を見ていた。居心地悪そうに、麗はパウンドケーキを見つめていた。僕は麗の近くへと移動した。
「唯奈さん誕生日おめでとーございまーす!」
「わー、ありがとー。明日だけどねー」
千愛莉ちゃんの拍手に、僕も適当に参加する。
そして唯奈がパウンドケーキを食べ始めたのを見て、僕は麗に声をかけた。
「麗も食べよう。美味しそうだよ」
「……ハジメ、優しいのね。あんなことがあったのに」
麗は僕に聞こえるだけの声で言った。
「今は食べよう。話は後にしようね」
「うん……」
紅ちゃんと不良の間を麗が取り持っていたのは事実だろう。でもこんな麗を見て、僕は強く言うことはできない。
まずは話が聞きたい。何においてもそれからだ。
「麗さん、どうですか?」
「うん。とっても美味しいわよ」
千愛莉ちゃんはよくしゃべってくれる。千愛莉ちゃんがいないと会話が回らないような状況がここにはあった。
千愛莉ちゃんが怒涛のように麗に話しかけていると、唯奈は麗と逆の位置の僕の隣へ移動し、ひっそりと顔を近づけた。
「……麗はなんの用だって?」
「この前のこと」
「ああ……」
唯奈は、予想通り、というような無表情で納得した。
「ハジメは大丈夫なの? この前のことで熱出したんだろ?」
「え? ああ、大丈夫だよ」
麗のことから急に僕の体のことへと話が変わる。
僕は驚きながらも、心配してくれているのだからと、素直に返事をした。
「別にあいつに傘を渡す必要なんてなかったのに。あんなに濡れてたら、どうせ意味ないんだから」
唯奈は僕が驚くくらいに顔を近づけてくる。ひそひそと話すためだとしても、近すぎるくらいだ。
ふいに、僕は肩のほうを誰かに持たれて、そのまま後ろへと引かれた。
「――麗?」
「近い」
呆れたような口調でそう言うと、唯奈と僕の距離を離した。
「なに? 嫉妬?」
「違うわよ」
間に僕が挟まれている状況のまま、二人は今日始めての会話を交わした。
千愛莉ちゃんのほうを見ると、なんとも言えない期待感のある表情で僕の方を見ていた。
「相手を選べってことよ」
「……それどういう意味?」
この前のような険悪な感じではなく、昔を思い出すようなやり取りだった。僕はこっそりと嬉しくなる。
「やっぱり嫉妬なんじゃないの?」
「違うっての。こんなに地球上に女がいて、わざわざあんたを選ぶのは愚の極みだってことよ」
「グノキワミ?」
「ああ、難しかったわね、ごめんなさい。おバカってことよ。バカを選ぶやつはバカってこと」
「あ?」
「ん?」
「そ、そろそろやめとこっか」
さすがに止めることにした。僕は笑いを堪えながら、二人の間の防波堤としての役割を果たした。
「同じ高校に来たことだってびっくりしたわよ。ハジメはもっと賢いと思ってたのに」
「こんな体だし、近くないと不便なんだよ」
「ハジメは賢いべ。受験の時に勉強教えようとしたら、あたしは全く役に立たなかったし」
「それはあんたがバカなだけじゃないの?」
「あ?」
「ん?」
「いや、早い。早いよ」
沸点が低すぎる。二人は僕を間に挟みながら、逆方向を見て話していた。
一人だけ正面にいる千愛莉ちゃんは、保育士みたいな大人の笑顔でこちらを見守っていた。
「本当は……」
麗が何かを言おうとするが、少し詰まってしまう。どうしたのかと、僕は麗のほうへ首を向けた。
「――本当は、高校へ入る頃にはハジメと距離を置くべきだった」
後悔するように言った麗に対し、僕は不満を持つ。それは以前、唯奈がしていた言い回しに似ていた。
「どうして?」
「私たちはこんなだもの。真面目で良い子ちゃんなハジメが私たちと関わっちゃ駄目なのよ。本当はもう近づかないつもりだった」
「それでも、家に来てくれたのはなぜ?」
麗は僕の方へ振り向いた。いや、僕よりも向こう側を見ていた。
「仕方ないじゃない。唯奈も紅輝も来るんだから、私だけ行かないっていうのは納得がいかなかった。ちょっとは考えろってのよ。
……それに、ハジメは友達がいないし」
最後の一言は言いにくそうだった。でも、僕のそういうところが、みんなを不安にさせていたのだと思うと、胸が痛くなった。
「ただハジメに会いたかっただけって言えばいいのに」
唯奈はテーブルに肘をつきながら、相変わらず別の方向を見て言った。
「何よ、それはあんたでしょ? いつもハジメハジメって、一番ハジメに執着してたのはあんたじゃない」
「そんなことしてねぇよ」
「どうだか。最近は行く頻度も増えちゃって、どんだけハジメが好きなのよ」
話の方向はともかく、気になることがあったので口を挟むことにする。
「行く頻度、って、麗は唯奈がしょっちゅう来てることを知ってたの?」
「行く日が被らないように、その連絡だけは来てたのよ。紅輝はだいたいいつ行ってるのかわかってたから必要がなかったけど」
上手く別々の日に来ると思ってたけど、ちゃんと連絡を取っていたのか。
僕は拍子抜けする。そんなことをしてまで、一緒に来たくなかったのか。
「そりゃ好きだよ」
それは少し遡った返事だった。だから僕は、頭で言葉の意味するところを考えるのが遅くなってしまう。
好きだよ。僕は顔が一気に熱を持ってしまうと、唯奈の方へと向いた。
「な、何言って――」
「ハジメも弟みたいに思ってんだもん。あたし、色んな奴と友達だけど、ハジメといる時が一番楽しいし。別に、おかしいことじゃないじゃん」
何でそんなことをぶっきらぼうに言うことができるのだろうか。
正面を向くとニコニコとした千愛莉ちゃんと目が合ってしまい、左へ向くと麗がニヤッとした嫌な笑みが僕を突き刺してくる。逃げ場がない。
「……姐さんの代わりになりたいと思った」
「え?」
唯奈がポツリと呟いた言葉に、僕は固まってしまう。それは、僕が三人に対して思っていたことと同じだったから。
「麗もそうだろ? きっと紅輝もそう。だから、結局ハジメと距離を置くなんて無理な話なんだよ。
姐さんはずっとハジメのこと心配してて、そんな姐さんがいなくなったハジメのことを考えたら……なんか落ち着かないんだよ」
僕は麗の方を向く。麗は目を瞑って俯いていた。そして、首を縦に振る。
「だからあたしは、紅輝が許せなかったんだよ。ハジメを危ない目にあわせるかもしれないのに、つまんないケンカばっかしてさ。
紅輝が何をしようと勝手だよ。だけど、ハジメがどうしても紅輝を探しちゃうんだから、紅輝が自分を抑えなきゃ駄目だろ。この前のだってそう。
だから……腹立つんだよ」
ここで理解した。唯奈は紅ちゃんを嫌っているのではなく、紅ちゃんに対して怒っているたのだ。
そしてその要因の中に、僕が含まれていた。
「……そのことで、ケンカしたのよ」
今度は麗が呟いた。とっさに千愛莉ちゃんの方を見ると、頷いて返してくれた。
「ちゃんと説明してくれる?」
「……芳香さんが亡くなった後、私たちはバラバラになった。
あの時、唯奈は落ち込んで大人しくしてたけど、私と紅輝は違った。私はそこいらの不良グループに顔を利かせるようになった。ちょっと気になったことがあったから情報を集めようと思ってね。
紅輝は一人で……ハジメも知っていると思うけど、色んな奴にケンカを売るようになった。そうして、私と紅輝がぶつかるようになったわけ。
……そこで私が怪我をした。でも、それ自体は本気のものじゃなくって、怪我も不可抗力でのことだったし、紅輝を恨むこともなかったわ」
「じゃあなんで今の今までこんな……」
ついつい口を挟んでしまうが、麗がちゃんとそのことを話そうとしているのだとわかると、僕はまた黙った。
「その後よ。唯奈が前にいたグループに私も関わってたんだけど、そこで話が出たのよ。姫って呼ばれている男の子の話が」
聞き覚えがある。それもつい最近だ。あれが誰に対してのものだったのか、今はっきりとわかった。
「……ハジメが紅輝のこと追い回している時に、あいつらもハジメのことが目に付いたんだよ。紅輝に守られる姫って。
冗談っぽく言ってたことだけど、誘拐しておびき出す、とか、そいつを使って脅す、とか言われてたら、あたしら怖くなってさ。もちろん、あいつらにだってプライドもあるから、小学生に見えるようなガキにそんなことはしないけど、もし本当にバカでクズみたいなやつだと、そんなことでも平気でするかもしれないじゃん。
だから、あたしが紅輝にキレたんだよ。キレて、紅輝のことを殴り飛ばした」
唯奈が麗の代わりに言った。僕は当時のことを思い出していた。あの時、確かに僕は怖い人に見られていたような気がする。
「殴り合いのケンカをしたの?」
「こっちが一方的に殴ったんだよ。あいつ、こっちにはなんもしてこなかった」
「それから、紅輝はやめるのではなく、上手く隠すようになった。もちろん、ハジメにだけね。私たちはそのことを知っていて、むしろ隠すことに協力するようになったのよ」
「あたしはそれがバカなことだってわかってたけど、紅輝のやつはやめないし、ハジメが危ない目にさえあわなければいいと思って放っておいただけだよ」
「そして、今みたいな距離感になった。私はどっちとも仲良くするわけにはいかなかったから、どっちにもつかなかった。ただ、ハジメとは関わっていたかったから」
僕が知らないところで、もう一ついざこざがあったのだ。だから僕のしていたことは見当違いで、今までこんな状態が続いていた。
僕は両方の耳から聞こえる声を、俯きながら拾っていた。
「……何で、あいつはやめないんだよ。バカなことだってわかってて、ハジメが危なくなることがわかってて、やめられなかったんだよ」
唯奈は吐き捨てるように苦言を呈した。唯奈も僕と同じ疑問を持っていて、同じように怒ってくれているのだ。
「……そのことなんだけど」
麗が小さな声でそう言うと、唯奈は今度は僕に被さるくらいの勢いで身を乗り出し、麗を睨んだ。
麗は驚いたように一度唯奈の方を見ると、また俯いてしまう。
「なんだよ? 何か知ってんのかよ?」
「言いたくなかったことなのよ。あんたとハジメには」
麗はまだ迷っているというようにそう言った。
「聞かせて。今日はそのことを言いに来たんだよね」
僕はできる限り優しくそう言った。そうすると麗はきっと応えてくれると思った。