4-8
文字数 3,607文字
一度家に帰ってから着替えを済ませると、また外へ出ていく。まだ雨は降っていないが、同じ傘を持っていく。この空ならば、すぐにでもまた降り出すだろう。
「あ、ハジメちゃーん」
手を振ってくるのは千愛莉ちゃんだ。今日は本当によく見つけられる日だ。
着替えを済ませてからこちらへ来たようで、千愛莉ちゃんはクリーム色のワンピースに、淡いピンクのタイツという悪天候を吹き飛ばすようなスタイルだった。
「いらっしゃい」
「出かけるの?」
「うん。紅ちゃんのところへ行こうと思って」
末松くんの言葉もあったが、たまたま会えなかったことが妙に不安で、紅ちゃんの顔が見たくなったのだ。
きっとこの天気のせいだ。
「一緒に行っていい?」
千愛莉ちゃんは満面の笑みで言った。
「え? 別にいいよ」
断る理由はない。むしろ、千愛莉ちゃんが来てくれるのはありがたい話だった。
高校生にもなると、女性の一人暮らしの部屋にずかずかと入っていくなんて気が引ける。家の前で少し話せたら、と思っていたけど、千愛莉ちゃんがいるのならもっと話ができそうだ。
「何か用があった?」
「ううん。ハジメちゃんいるかなぁーって」
軽いな。千愛莉ちゃんが仲良くしてくれるのは嬉しいけど、どう前向きに見ても同性扱いされているのは結構傷つく。千愛莉ちゃんは初めから一貫して僕を男として見てくれていない。
「どうしたの?」
「いや……そういえば、千愛莉ちゃんってどんな男の人が好みなの?」
その同性感を利用して、そんな質問をしてみる。少しでも照れみたいなものが出てはくれないか。
「うーん、男らしくて頼りになる人かな」
余計傷つくだけだった。わざとやってるのだろうか。
女ったらしと言った母さんに言ってやりたい。誰一人として僕をちゃんと男と認識していないのに、女ったらしも何もあるのかと。僕は適当に返事をして、これ以上傷を深くしないようにした。
紅ちゃんの家は割と近くにある。住宅が網目状に建ち並んでいるところから、少し大きな通りに出ていくと、紅ちゃんの住むマンションが建っているのだ。
「千愛莉ちゃんは、紅ちゃんの部屋に行ったことがあるの?」
「二、三回くらいあるよ。紅輝さん、家に来られるの嫌がるんだよねー。でも、入ったらお茶とかお菓子を出して歓迎してくれたよ」
紅ちゃんは、基本的に自分のテリトリーを侵されるのが苦手だ。でもいざ入り込まれると、不快感を持たれたくないようで、必死におもてなしをする。コーヒーがいいか紅茶がいいか、そういう質問を過度に浴びせてくるのだ。
マンションの下まで来ると、部屋の番号を押してインターホンを鳴らす。しばらく待つが、何も反応がなかった。
「留守かな?」
「そうかも」
どうやら、まだ帰っていないようだった。てっきり紅ちゃんはまっすぐ家に帰っていると思っていた。外にいると絡まれるらしいし、千愛莉ちゃんと休日しか会っていないのなら、家に帰る以外の選択肢がほとんどないからだ。
あるとすれば買い物とか。あまり趣味という趣味もない紅ちゃんは、こういうとき何をしているのだろう。そういうところを僕は知らない。
「どうしよう」
「しょうがないから帰ろうか」
「いいの?」
「うん。大した用事じゃなかったんだ。ごめんね、つき合わせて」
千愛莉ちゃんが一緒でなければ、待つということも考えたかもしれない。
まあ本当に大した用事ではなく、僕が勝手に不安に思っただけのことだ。僕らは諦めて自分の家の方向へと歩き出した。
「そうだ、本屋さんに付き合ってもらっていい? 唯奈さんの誕生日に作るお菓子を考えたいんだー」
そういえば、唯奈の誕生日まで一週間を切っていた。そういう誘いなら断る理由などない。
「いいよ。駅前でいい?」
「うん」
僕らは行き先を駅前にある小さな本屋へと変更する。常に何かと話題を持っている千愛莉ちゃんの話に耳を傾けながら並んで歩いた。
本屋でお菓子の本を物色する。一〇分ほどあれやこれやと言いながら眺め、千愛莉ちゃんは一冊買うことを決めたようだ。
「また雨が降りそうだから、袋を二重にしておきますね」
「ありがとうございまーす」
空は濃い灰色のままだった。今にも降りだしそうだ。傘は持ってきているけど、それでも降りだす前に帰りたいところだ。
「じゃあ行こっか」
「うん。あれ……?」
千愛莉ちゃんの視線の先を窺うと、そこには唯奈がいた。唯奈は妙にそわそわしながら一人で歩いている。
「唯奈さん、何をしてるんだろう?」
「暇なんじゃない?」
唯奈は焦っているように見えるし、困っているようにも見えた。声を掛けようとしたけど、唯奈はすぐに立ち去っていった。
「暇じゃないはずだよ。用があるって言ってたし」
「そうなの?」
「うん。今日も誘ったんだけど、そう言われちゃったから一人で来たの。家で弟と妹の面倒を見ないとって言ってたんだけど……」
ならこんなところに一人でいるのも妙な話だ。つく必要のない変な嘘をついている。唯奈がそんなことをするなんて、何か後ろめたいことがあるに違いない。
「追いかけようか」
「え? い、いいのかな?」
千愛莉ちゃんは引きつった笑みを浮かべる。普段ならこんなことはしないけど、今日は妙に気になるのだ。僕は千愛莉ちゃんの返事を待たずに、唯奈の後をつけることを決めた。
唯奈はスマートフォンを見ながら歩いていた。不注意の多い唯奈のそんな姿を見ると叱りつけたくなる。誰かと連絡を取っているというより、何かを調べているようだ。それがインターネットなのか、それともSNSのログやメールなのかはわからない。
「彼氏だったらどうしよう?」
「ま、まさか」
なんだかんだでノリノリで尾行している千愛莉ちゃんの一言に、僕はたじろいでしまう。
唯奈にそんな人がいるとは思えない。唯奈のようなおバカに彼氏なんか……しかし唯奈もあれで顔は悪くないし……いやまさか。
少し雨が降ってきた。まだ傘をささなくても大丈夫な程度ではあるが、千愛莉ちゃんはすでにさしていた。僕は見つかりそうだと思ったのでまだささない。立ち止まるたびに千愛莉ちゃんが傘の中に入れてくれるのは、少し悪い気がした。
唯奈は大きな公園に入っていく。その公園は中心部に競技場があり、周囲に小さな公園や広場のある構造になっている。見晴らしがよくなってしまうので、唯奈との距離も開いていく。雨が強くなり、唯奈が傘をさすと、僕もさすことにした。
「公園かー。雨の公園で恋人と待ち合わせなんてないよねー」
小さくて軽い雨が地面へと落ちていく。僕にはそれが、長く降り続けるために少しずつ降っているように思えて不快だった。
唯奈が入っていったのは、よく整備された広場だった。
石畳の上にベンチがあり、小さな噴水が設置されている。ベンチには藤棚の屋根があるが、大して雨は防いではくれそうにない。晴れた日なら犬の散歩途中に休憩でもできそうな場所だけど、雨の日にこの場所を利用する人は少ないはずだ。
近くまで来てそちらを窺うと、唯奈以外にもう一人いた。それは麗だった。
「何で、唯奈と麗が?」
「仲直りしたのかなぁ?」
千愛莉ちゃんは明るく言った。しかし、それに反して、二人の様子は穏やかなものではなかった。
「揉めてるのかな?」
「ちょっと近づこうよ」
千愛莉ちゃんは傘を閉じた。どうやら後側から周りこむようだ。僕も傘を閉じてそれに続いた。できる限りまで近づき、そこにあった木に身を隠すと、かろうじて二人の声が聞こえる。
口論になっているから、声のボリュームも大きくなっているようだ。
「ちゃんと考えてるわよ! あの子がやられることはないし、もしものことも考えてる!」
「そういう問題じゃねえだろ!」
二人は何かを言い争っていた。僕は二人が一緒にいるところを見るのは久しぶりだ。
でも、二人はそんな風には見えない。ただ、仲良くしていたわけではないこともわかる。
「ハジメにバレたらどうするつもりだよ!」
僕の名前が出てくると、心臓が大きく動く。高く上がってずんと落ちたような感じ。
「そこを抑えるのはあんたの役目でしょ。人のせいにしないで」
「だったらこうなる前から止めておけよ!」
「これでも抑えてるのよ! 勝手なこと言って! あんたみたいに男のケツばっかり追いかけてるわけにはいかないんだから!」
「あんだとこら!」
唯奈が麗の胸倉を掴むと、僕は反射的に飛び出していた。
二人はそのままの状態で、僕を見ている。何があったのかわからないような顔をして、ただ固まっていた。
「あ、ハジメちゃーん」
手を振ってくるのは千愛莉ちゃんだ。今日は本当によく見つけられる日だ。
着替えを済ませてからこちらへ来たようで、千愛莉ちゃんはクリーム色のワンピースに、淡いピンクのタイツという悪天候を吹き飛ばすようなスタイルだった。
「いらっしゃい」
「出かけるの?」
「うん。紅ちゃんのところへ行こうと思って」
末松くんの言葉もあったが、たまたま会えなかったことが妙に不安で、紅ちゃんの顔が見たくなったのだ。
きっとこの天気のせいだ。
「一緒に行っていい?」
千愛莉ちゃんは満面の笑みで言った。
「え? 別にいいよ」
断る理由はない。むしろ、千愛莉ちゃんが来てくれるのはありがたい話だった。
高校生にもなると、女性の一人暮らしの部屋にずかずかと入っていくなんて気が引ける。家の前で少し話せたら、と思っていたけど、千愛莉ちゃんがいるのならもっと話ができそうだ。
「何か用があった?」
「ううん。ハジメちゃんいるかなぁーって」
軽いな。千愛莉ちゃんが仲良くしてくれるのは嬉しいけど、どう前向きに見ても同性扱いされているのは結構傷つく。千愛莉ちゃんは初めから一貫して僕を男として見てくれていない。
「どうしたの?」
「いや……そういえば、千愛莉ちゃんってどんな男の人が好みなの?」
その同性感を利用して、そんな質問をしてみる。少しでも照れみたいなものが出てはくれないか。
「うーん、男らしくて頼りになる人かな」
余計傷つくだけだった。わざとやってるのだろうか。
女ったらしと言った母さんに言ってやりたい。誰一人として僕をちゃんと男と認識していないのに、女ったらしも何もあるのかと。僕は適当に返事をして、これ以上傷を深くしないようにした。
紅ちゃんの家は割と近くにある。住宅が網目状に建ち並んでいるところから、少し大きな通りに出ていくと、紅ちゃんの住むマンションが建っているのだ。
「千愛莉ちゃんは、紅ちゃんの部屋に行ったことがあるの?」
「二、三回くらいあるよ。紅輝さん、家に来られるの嫌がるんだよねー。でも、入ったらお茶とかお菓子を出して歓迎してくれたよ」
紅ちゃんは、基本的に自分のテリトリーを侵されるのが苦手だ。でもいざ入り込まれると、不快感を持たれたくないようで、必死におもてなしをする。コーヒーがいいか紅茶がいいか、そういう質問を過度に浴びせてくるのだ。
マンションの下まで来ると、部屋の番号を押してインターホンを鳴らす。しばらく待つが、何も反応がなかった。
「留守かな?」
「そうかも」
どうやら、まだ帰っていないようだった。てっきり紅ちゃんはまっすぐ家に帰っていると思っていた。外にいると絡まれるらしいし、千愛莉ちゃんと休日しか会っていないのなら、家に帰る以外の選択肢がほとんどないからだ。
あるとすれば買い物とか。あまり趣味という趣味もない紅ちゃんは、こういうとき何をしているのだろう。そういうところを僕は知らない。
「どうしよう」
「しょうがないから帰ろうか」
「いいの?」
「うん。大した用事じゃなかったんだ。ごめんね、つき合わせて」
千愛莉ちゃんが一緒でなければ、待つということも考えたかもしれない。
まあ本当に大した用事ではなく、僕が勝手に不安に思っただけのことだ。僕らは諦めて自分の家の方向へと歩き出した。
「そうだ、本屋さんに付き合ってもらっていい? 唯奈さんの誕生日に作るお菓子を考えたいんだー」
そういえば、唯奈の誕生日まで一週間を切っていた。そういう誘いなら断る理由などない。
「いいよ。駅前でいい?」
「うん」
僕らは行き先を駅前にある小さな本屋へと変更する。常に何かと話題を持っている千愛莉ちゃんの話に耳を傾けながら並んで歩いた。
本屋でお菓子の本を物色する。一〇分ほどあれやこれやと言いながら眺め、千愛莉ちゃんは一冊買うことを決めたようだ。
「また雨が降りそうだから、袋を二重にしておきますね」
「ありがとうございまーす」
空は濃い灰色のままだった。今にも降りだしそうだ。傘は持ってきているけど、それでも降りだす前に帰りたいところだ。
「じゃあ行こっか」
「うん。あれ……?」
千愛莉ちゃんの視線の先を窺うと、そこには唯奈がいた。唯奈は妙にそわそわしながら一人で歩いている。
「唯奈さん、何をしてるんだろう?」
「暇なんじゃない?」
唯奈は焦っているように見えるし、困っているようにも見えた。声を掛けようとしたけど、唯奈はすぐに立ち去っていった。
「暇じゃないはずだよ。用があるって言ってたし」
「そうなの?」
「うん。今日も誘ったんだけど、そう言われちゃったから一人で来たの。家で弟と妹の面倒を見ないとって言ってたんだけど……」
ならこんなところに一人でいるのも妙な話だ。つく必要のない変な嘘をついている。唯奈がそんなことをするなんて、何か後ろめたいことがあるに違いない。
「追いかけようか」
「え? い、いいのかな?」
千愛莉ちゃんは引きつった笑みを浮かべる。普段ならこんなことはしないけど、今日は妙に気になるのだ。僕は千愛莉ちゃんの返事を待たずに、唯奈の後をつけることを決めた。
唯奈はスマートフォンを見ながら歩いていた。不注意の多い唯奈のそんな姿を見ると叱りつけたくなる。誰かと連絡を取っているというより、何かを調べているようだ。それがインターネットなのか、それともSNSのログやメールなのかはわからない。
「彼氏だったらどうしよう?」
「ま、まさか」
なんだかんだでノリノリで尾行している千愛莉ちゃんの一言に、僕はたじろいでしまう。
唯奈にそんな人がいるとは思えない。唯奈のようなおバカに彼氏なんか……しかし唯奈もあれで顔は悪くないし……いやまさか。
少し雨が降ってきた。まだ傘をささなくても大丈夫な程度ではあるが、千愛莉ちゃんはすでにさしていた。僕は見つかりそうだと思ったのでまだささない。立ち止まるたびに千愛莉ちゃんが傘の中に入れてくれるのは、少し悪い気がした。
唯奈は大きな公園に入っていく。その公園は中心部に競技場があり、周囲に小さな公園や広場のある構造になっている。見晴らしがよくなってしまうので、唯奈との距離も開いていく。雨が強くなり、唯奈が傘をさすと、僕もさすことにした。
「公園かー。雨の公園で恋人と待ち合わせなんてないよねー」
小さくて軽い雨が地面へと落ちていく。僕にはそれが、長く降り続けるために少しずつ降っているように思えて不快だった。
唯奈が入っていったのは、よく整備された広場だった。
石畳の上にベンチがあり、小さな噴水が設置されている。ベンチには藤棚の屋根があるが、大して雨は防いではくれそうにない。晴れた日なら犬の散歩途中に休憩でもできそうな場所だけど、雨の日にこの場所を利用する人は少ないはずだ。
近くまで来てそちらを窺うと、唯奈以外にもう一人いた。それは麗だった。
「何で、唯奈と麗が?」
「仲直りしたのかなぁ?」
千愛莉ちゃんは明るく言った。しかし、それに反して、二人の様子は穏やかなものではなかった。
「揉めてるのかな?」
「ちょっと近づこうよ」
千愛莉ちゃんは傘を閉じた。どうやら後側から周りこむようだ。僕も傘を閉じてそれに続いた。できる限りまで近づき、そこにあった木に身を隠すと、かろうじて二人の声が聞こえる。
口論になっているから、声のボリュームも大きくなっているようだ。
「ちゃんと考えてるわよ! あの子がやられることはないし、もしものことも考えてる!」
「そういう問題じゃねえだろ!」
二人は何かを言い争っていた。僕は二人が一緒にいるところを見るのは久しぶりだ。
でも、二人はそんな風には見えない。ただ、仲良くしていたわけではないこともわかる。
「ハジメにバレたらどうするつもりだよ!」
僕の名前が出てくると、心臓が大きく動く。高く上がってずんと落ちたような感じ。
「そこを抑えるのはあんたの役目でしょ。人のせいにしないで」
「だったらこうなる前から止めておけよ!」
「これでも抑えてるのよ! 勝手なこと言って! あんたみたいに男のケツばっかり追いかけてるわけにはいかないんだから!」
「あんだとこら!」
唯奈が麗の胸倉を掴むと、僕は反射的に飛び出していた。
二人はそのままの状態で、僕を見ている。何があったのかわからないような顔をして、ただ固まっていた。