5-7
文字数 2,650文字
「お父さんが帰ってこない……」
夕食を終えてしばらく自分の部屋にいた後、ふと麦茶を飲みに台所へ行くと、居間からそんな声が聞こえてきた。もちろん、母さんだ。
僕はそれを聞こえないフリをしながら、無言で麦茶をコップに注いだ。
「お父さんが帰ってこない……」
二回目。これも僕には聞こえていない。そういうことにしておいて、麦茶を一気に飲み干した。まだ風邪っぽいので水分補給は重要なのだ。
ちなみに、別に父さんが家をずっと空けているわけではなく、ちょっと帰りが遅くなっているだけだ。これは珍しいことではなく、三日に一回くらいの割合であることだった。
つまり、父さんが遅くなることも当たり前で、それについて母さんが寂しそうにしているのもいつものことなのだ。僕は聞こえないフリをしたまま、二階への階段に足をかけた。
「ハジメちゃーん」
いつの間にか母さんは僕の近くに移動して、僕の腕を強く握っていた。忍びの技術だろうか、恐ろしい。僕は思わず目をいっぱいに開いて母さんを見た。
「な、何?」
「聞こえてたでしょ? 聞こえてるでしょ?」
「いや、僕に言ってるわけじゃないと思ったから」
「いやいや、ハジメちゃんしかいないじゃない! 他に誰かいる!?」
母さんは別に酔っ払っているわけではない。だからこそ、このテンションはより面倒くさいところだった。
「独り言かと」
「独り言なら二回も言わないじゃない! あーん! ハジメちゃんがこんな冷たい子に育ってしまうなんて!」
心外だった。ちょっと面倒くさいから避けただけなのに、なぜこんな言われ方をされなければならないのか。
「もうすぐ帰ってくるよ」
「私にこの広い部屋でボケッとテレビを見て過ごせって言うの? この家にもう一人いるはずなのに、その人は私に何もしてくれないの?」
母さんにうるうると甘えたような目をされる。僕はため息をついて、一緒に居間へ入っていき、机を挟んで座った。
「そういえばハジメちゃん、紅ちゃんと何かあったの?」
いきなりそんなことを軽口で言ってくる。単刀直入といったそれは、僕の胸を軽く突き刺した。
「なんでそう思うの?」
「だって、一昨日あんな感じに帰ってきて、今日来たのが唯奈ちゃんと麗ちゃんでしょ。誰かと何かあったのなら、紅ちゃんしかいないじゃない」
僕の交友関係の狭さが原因なのか、はたまた母親がしっかり息子のことを見ているということなのか、すっかり見透かされていた。
「まあ、ちょっとね」
「ちょっと、ねぇ……。駄目よ、紅ちゃんを仲間外れにしちゃあ」
僕だってしたくない。僕は反射的に頷いた。
「唯奈ちゃんと麗ちゃんは仲直りしたの?」
「それはもう大丈夫だと思うよ」
「そう、よかったね」
母さんはにっこりと笑う。母さんも三人の仲を気にしていたのだ。二人はもう大丈夫。
でもそのことは、より紅ちゃんだけを置いてけぼりにしているようで、僕は複雑な気持ちになってしまう。
「紅ちゃんのこと気になる?」
「そりゃそうだよ」
母さんはまた見透かすように言った。僕のことならなんでもわかるのだろうか。
「みんな一緒じゃなきゃ駄目よね。多分あんた達はそういう部分が強かったのよ」
「そういう部分?」
母さんは圧倒するような笑顔になる。
「誰だって、一番の自分でいたいじゃない。優しくなれて、強くなれて、がんばれて。そんな風になれるのが、あんた達がみんな一緒にいるときじゃないかな。みんな別の顔を持ってるから、そういう気持ちが強くなってたのよ」
唯奈も麗も、僕といたいと言ってくれた。三人とも、他の人が思っている印象と、僕が知っている顔に大きな差異がある。僕の知っている三人は優しくて楽しい。唯奈と麗、それに紅ちゃんも、そんな自分でいたいと思っているということだ。
「そうなのかな」
「そうよ。芳香がそうだったもの。芳香、あの子達といる時から、本当にいい顔をするようになった。責任感とかそういうものが、芳香の内のほうから自然に出てきたのね。
私ね、芳香が昔荒れていたのは、帰る場所が無かったからだったんだって思ったのよ」
母さんは目を細めた。僕はチラッと姉さんの写真を見る。姉さんは小さく笑っていた。
「帰る場所?」
「多分、本当の自分がいる場所がわからなかったのよ。一番良い自分がわからないから探してたんだよね。強い自分とか、格好良い自分とかそういうものを。そして最初はハジメちゃんだったんじゃないかな」
母さんの言葉に、僕は目でどういう意味かを問うた。
「芳香はハジメちゃんのことが可愛くて、この子を守ってあげたいって思った。そういう気持ちが、芳香の中で一番大事なものになって、それが芳香にとって一番良い自分だったのよ。それから紅ちゃんを連れてきて、唯奈ちゃん、麗ちゃんも連れてきた。一番良い自分でいられる場所を、作っていったのよ」
「姉さんは、僕のために紅ちゃんたちを連れてきたんじゃないの?」
友達がいなくて、いつも一人だった僕のために、姉さんは三人を連れてきた。僕はずっとそう考えていた。
「それもあるかもしれないけど、それだけじゃないよ。芳香が心を許したから、ハジメちゃんに会わせたいって思ったのよ。三人ってどこか芳香に似てるでしょ? 芳香は自分に近いものを三人に感じたのよ。なんというか、表面に出している顔よりも内側にある顔のほうがずっと魅力的じゃない? あの子たち」
母さんの言うことに、僕は納得していた。僕が三人を必要としていることも、三人が僕のことを気にかけてくれていることも、その場所が自分が自分らしいと言える数少ない場所になっているからなのだ。
僕は三人の前だと、叱りつけることもできるし、いっぱい話すことができる。唯奈は背伸びをしない等身大の姿を見せてくれる。麗は明るく冗談を言うし、時には凄く優しくなる。紅ちゃんは気を抜いて、ただの大人しい女の子になってくれる。それが、僕たちの居場所での姿だった。
僕は姉さんの写真を見る。
姉さんだって揃ってないと嫌だよね。一人ずつ来たって、そこはまだ姉さんがいた場所には戻ってくれない。僕にとって一番好きだった頃の姉さんでいてほしいから、三人を連れてこなければならないのだ。
「紅ちゃんも、連れてこないとね」
僕が呟くと、母さんは、ふふふと笑った。
夕食を終えてしばらく自分の部屋にいた後、ふと麦茶を飲みに台所へ行くと、居間からそんな声が聞こえてきた。もちろん、母さんだ。
僕はそれを聞こえないフリをしながら、無言で麦茶をコップに注いだ。
「お父さんが帰ってこない……」
二回目。これも僕には聞こえていない。そういうことにしておいて、麦茶を一気に飲み干した。まだ風邪っぽいので水分補給は重要なのだ。
ちなみに、別に父さんが家をずっと空けているわけではなく、ちょっと帰りが遅くなっているだけだ。これは珍しいことではなく、三日に一回くらいの割合であることだった。
つまり、父さんが遅くなることも当たり前で、それについて母さんが寂しそうにしているのもいつものことなのだ。僕は聞こえないフリをしたまま、二階への階段に足をかけた。
「ハジメちゃーん」
いつの間にか母さんは僕の近くに移動して、僕の腕を強く握っていた。忍びの技術だろうか、恐ろしい。僕は思わず目をいっぱいに開いて母さんを見た。
「な、何?」
「聞こえてたでしょ? 聞こえてるでしょ?」
「いや、僕に言ってるわけじゃないと思ったから」
「いやいや、ハジメちゃんしかいないじゃない! 他に誰かいる!?」
母さんは別に酔っ払っているわけではない。だからこそ、このテンションはより面倒くさいところだった。
「独り言かと」
「独り言なら二回も言わないじゃない! あーん! ハジメちゃんがこんな冷たい子に育ってしまうなんて!」
心外だった。ちょっと面倒くさいから避けただけなのに、なぜこんな言われ方をされなければならないのか。
「もうすぐ帰ってくるよ」
「私にこの広い部屋でボケッとテレビを見て過ごせって言うの? この家にもう一人いるはずなのに、その人は私に何もしてくれないの?」
母さんにうるうると甘えたような目をされる。僕はため息をついて、一緒に居間へ入っていき、机を挟んで座った。
「そういえばハジメちゃん、紅ちゃんと何かあったの?」
いきなりそんなことを軽口で言ってくる。単刀直入といったそれは、僕の胸を軽く突き刺した。
「なんでそう思うの?」
「だって、一昨日あんな感じに帰ってきて、今日来たのが唯奈ちゃんと麗ちゃんでしょ。誰かと何かあったのなら、紅ちゃんしかいないじゃない」
僕の交友関係の狭さが原因なのか、はたまた母親がしっかり息子のことを見ているということなのか、すっかり見透かされていた。
「まあ、ちょっとね」
「ちょっと、ねぇ……。駄目よ、紅ちゃんを仲間外れにしちゃあ」
僕だってしたくない。僕は反射的に頷いた。
「唯奈ちゃんと麗ちゃんは仲直りしたの?」
「それはもう大丈夫だと思うよ」
「そう、よかったね」
母さんはにっこりと笑う。母さんも三人の仲を気にしていたのだ。二人はもう大丈夫。
でもそのことは、より紅ちゃんだけを置いてけぼりにしているようで、僕は複雑な気持ちになってしまう。
「紅ちゃんのこと気になる?」
「そりゃそうだよ」
母さんはまた見透かすように言った。僕のことならなんでもわかるのだろうか。
「みんな一緒じゃなきゃ駄目よね。多分あんた達はそういう部分が強かったのよ」
「そういう部分?」
母さんは圧倒するような笑顔になる。
「誰だって、一番の自分でいたいじゃない。優しくなれて、強くなれて、がんばれて。そんな風になれるのが、あんた達がみんな一緒にいるときじゃないかな。みんな別の顔を持ってるから、そういう気持ちが強くなってたのよ」
唯奈も麗も、僕といたいと言ってくれた。三人とも、他の人が思っている印象と、僕が知っている顔に大きな差異がある。僕の知っている三人は優しくて楽しい。唯奈と麗、それに紅ちゃんも、そんな自分でいたいと思っているということだ。
「そうなのかな」
「そうよ。芳香がそうだったもの。芳香、あの子達といる時から、本当にいい顔をするようになった。責任感とかそういうものが、芳香の内のほうから自然に出てきたのね。
私ね、芳香が昔荒れていたのは、帰る場所が無かったからだったんだって思ったのよ」
母さんは目を細めた。僕はチラッと姉さんの写真を見る。姉さんは小さく笑っていた。
「帰る場所?」
「多分、本当の自分がいる場所がわからなかったのよ。一番良い自分がわからないから探してたんだよね。強い自分とか、格好良い自分とかそういうものを。そして最初はハジメちゃんだったんじゃないかな」
母さんの言葉に、僕は目でどういう意味かを問うた。
「芳香はハジメちゃんのことが可愛くて、この子を守ってあげたいって思った。そういう気持ちが、芳香の中で一番大事なものになって、それが芳香にとって一番良い自分だったのよ。それから紅ちゃんを連れてきて、唯奈ちゃん、麗ちゃんも連れてきた。一番良い自分でいられる場所を、作っていったのよ」
「姉さんは、僕のために紅ちゃんたちを連れてきたんじゃないの?」
友達がいなくて、いつも一人だった僕のために、姉さんは三人を連れてきた。僕はずっとそう考えていた。
「それもあるかもしれないけど、それだけじゃないよ。芳香が心を許したから、ハジメちゃんに会わせたいって思ったのよ。三人ってどこか芳香に似てるでしょ? 芳香は自分に近いものを三人に感じたのよ。なんというか、表面に出している顔よりも内側にある顔のほうがずっと魅力的じゃない? あの子たち」
母さんの言うことに、僕は納得していた。僕が三人を必要としていることも、三人が僕のことを気にかけてくれていることも、その場所が自分が自分らしいと言える数少ない場所になっているからなのだ。
僕は三人の前だと、叱りつけることもできるし、いっぱい話すことができる。唯奈は背伸びをしない等身大の姿を見せてくれる。麗は明るく冗談を言うし、時には凄く優しくなる。紅ちゃんは気を抜いて、ただの大人しい女の子になってくれる。それが、僕たちの居場所での姿だった。
僕は姉さんの写真を見る。
姉さんだって揃ってないと嫌だよね。一人ずつ来たって、そこはまだ姉さんがいた場所には戻ってくれない。僕にとって一番好きだった頃の姉さんでいてほしいから、三人を連れてこなければならないのだ。
「紅ちゃんも、連れてこないとね」
僕が呟くと、母さんは、ふふふと笑った。