第4話:ジリアンの苦悩、はじまり。

文字数 4,677文字

 聖暦七六二年、九の月、第一週、リズーリアの日。
 アンヌヴン辺境伯邸は、人の出入りが多い一日だった。
 週末の秋分の日に街を上げての豊穣祭があり、その準備や打ち合わせを辺境伯邸の部屋を幾つか開放して行っているのだ。
 人口密度が極めて高いこの街で豊穣祭の様に大規模な催しをする時は、辺境伯から一部開放許可が下るため普段は静かな白亜の館も、甲高い声や笑い声が飛び交い賑やかになる。

 アンヌヴン辺境伯トリスタン・アーチボルド。
 御年四十一歳。先代から爵位を受け継いだのが十八歳の為、在位年数は二十年を超えている。
 トリスタン自身は聡明で倹約家で知られているが、彼の父は非常に浪費家で、あろうことか爵位を担保に金を借りる寸でまでに堕ちた愚かな統治者だった。
 父の借金を背負いアンヌヴン辺境伯となったトリスタンは、着任してから十年もの歳月を掛けて完済を果たし、その後は街の発展に尽力している。
 街人の中には公然と彼のことを賢伯爵様と崇拝し、辺境伯軍の一部には彼の事を神の如き存在だと口にする者すらいた。
 その中でも特に熱狂的な者たちの中には、彼を王として国を興そうと画策する者もいるとか、いないとか。
 火の無い所に煙は立たないと言うが、果たして――。

 
 辺境伯軍参謀局副長ジリアン・メイフィールドは、手紙を携えて長い廊下を歩いていた。
 ドールズ大森林へと派遣しているバーナードからの嘆願書だった。
 カルロ、ジゼル共に下級ながら幻獣と契約出来たので冒険日程の短縮を求めてきたのだ。カルロの体調が芳しく無いとも、綴られていた。
 ジリアンは、歩きながら溜息を零した。胃がキリキリと痛む。
 彼は参謀局副長という地位にありながら、主であるトリスタン・アーチボルドの気持ちを汲み取る事がいまいち苦手だった。
 今回の幻獣狩りにしても、何故辺境伯軍の兵士を護衛に付けずに高い金を払って冒険者風情を雇っているのか、さっぱり理解が出来ない。
 確かに神槍カレン・トワイニングやエルフの魔導師フレイザー・イシャーウッドは一流の冒険者で、辺境伯軍の兵士より経験も実力もあるのは分かるが。
「高々、下級の幻獣と契約する為に、何故一流の冒険者を雇う必要があるのか……。倹約家で知られる辺境伯様が、いったいなぜ?」
 ジリアンは今一度重い溜息を零した。

 長い廊下の先に、辺境伯の執務室の扉が見えてきた。
 あと十歩程の距離に辿り着き、ぴたりと足を止める。
 このまま困惑した状態で、あの中に乗り込んでも何も良い事は無いと自ら言い聞かし、深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせることにした。
「よし、行くか。ここでくよくよしていても何も始まらんしな」
 ジリアンは小声でそう言うと、奥歯をぐっと噛みしめ執務室の扉の前まで足を進めた。
 そして、深く考え込むのは止め勢いに乗じて扉を叩く。
「辺境伯様、ドールズ大森林で幻獣狩りの任についております、バーナード・マドックより、冒険日程短縮願いが届いております!」
 穏やかで、物静かな男だがこの時ばかりは声を張り上げる。
 この時点で辺境伯が「報告無用、参謀局で処理せよ」と言えば回れ右をして来た道を速足で戻るのだが、今回は少し間を空けた後に「入れ」と返事があった。
 ジリアンは、扉に手を掛ける前にゴクリと息を飲み、意を決して扉を開けた。

 辺境伯は執務机で、脇目も振らずペンを走らせていた。
 そして、執務室には主だけでなく、黒衣に包まれた女の姿もあった。
 その女は窓際に立ち、ジリアンの事を凍り着く様な冷たい目で見ていた。
 役職柄ジリアンは、その女が混沌の魔女ベアトリス・カンデイユである事に気が付き、気が動転しそうになったが、視界にトリスタンの姿もあったため、何とか気を取り直す事が出来た。
「――で、幻獣との契約は上手く行ったのか?」
 執務室にトリスタンの声が響き渡る。低いが聞き取りやすい良い声だった。
「そ、それがカルロ、ジゼル共に下級幻獣との契約だけの模様です。文には、カルロの体調が芳しく無い、ともありました」
「まぁ、カルロはその程度であろう。あれが育つには少し時間が掛かるとは思っていたからな。それにしても意外なのはジゼルだな。ゴエティアであれば私が驚く様な幻獣と契約を交わしてくると、思っていたが……。神槍や森の梟に何か気取られてしまったかな」
 辺境伯の言う「森の梟」とはフレイザーのことである。

「わ、私はでは、なんとも進言致し兼ねます。で、では、日程短縮の件は却下いたしますか?」
「ああ、いや、短縮で良い。承認する。恐らく短縮願いはバーナードの案ではあるまい。神槍……いや、森の梟の思惑があるのだろう。まぁ、今回は幻獣契約よりも、奴らとの縁を深める為、というべきだしな。あと、それと、あの白銀の獅子の息子も同行していると、小耳に挟んだのだが、それについての情報は無いのか?」
 トリスタンはペンを止めジリアンの目をじいっと見据える。
「は、白銀の獅子の息子、ですか?も、申し訳御座いません。それに関して、私は全く情報を持っておりません」
「なんだ、貴様それでよく我が軍の参謀局副長が務まるな。ふふふ、と、言っても私もさっき混沌の魔女殿から伺ったところなのだが。さて、ジリアンよ?」
「は、はい、辺境伯様……」
「まだ少年だと聞いているが、トワイニングの血族を放っておく訳にはいかん。速やかに白銀の獅子の息子を調査し、その実力と将来性を測れ。月内には報告しろ。あと、今後は元ベリアル絡みの冒険者や関係者と積極的に繋がりを持て。それに関しては特別に予算を出す」
 トリスタンからそう告げられ、ジリアンは言葉に詰まってしまった。
 今まで、特別に予算が組まれる様な案件は、参謀局長を通してしか命令が下る事は無かったのだ。

「――どうした、ジリアン?」
「あ、はい、申し訳御座いません。あの、この件に関して、旗振りを自分が勤める……という事で宜しいでしょうか?」
「ああ、そう告げたつもりだが?不服か?」
 トリスタンの威厳ある声が響く。強い意志を感じる声だ。
「い、いや、滅相もございません。しかし、一応、参謀局長には報告を……」
「ジリアン?もう少し空気を読める様になれ。私は、お前にこの件は任すと言っているのだ。参謀局長はこの件には一切関わらぬ。いいか?一切だ。その為に特別予算を組むのだからな。あと、困った事があれば、この混沌の魔女を頼れ。まじない小路に魔女の店がある。店の名は……」
「――虚無の鴉。まじない小路の北口から入ってこれば、あとは導いてあげる」
 いつの間にか、ジリアンの傍に魔女の姿があった。
 彼女はジリアンの耳元で、冷たい息吹を彼の頭の中に流し込む様に囁いていた。
 黒衣に身を包んでいるが、この至近距離にいても魔女の顔を認識する事は出来なかった。
 その顔を間近で見ていると思うが、不思議と記憶に残らないのだ。
「りょ、了解、致しました。では、私は、これにて……」
「ああ、ご苦労……。ああ、ジリアン?」
「は、はい、辺境伯様……」
「今、ここでした話と、ここで混沌の魔女と会った事は、誰にも漏らすなよ?」
「も、勿論、誰にも漏らしません。光の神ヴァースに誓って」
「分かった。その言葉、信じよう……」

 執務室から出ると、ジリアンは早歩きで辺境伯邸の中を行き、参謀局隊舎の自室へと駆けこんだ。
 全身に冷や汗をかいている。生きた心地がしないとはこの事だと、床に蹲り涙を流した。
 そして、とんでもない仕事を仰せつかってしまったと、今更ながらの認識を得ていた。
「誰にも漏らせない、相談も出来ない。下手すると、私は、恐らく、殺されてしまうかもしれない。いや、しかし、なぜ、今になって、元ベリアルの関係者と……?」
 それからジリアンは深夜まで自問自答を繰り返したが、彼に何か現状を打開する名案が思い浮かぶ筈も無く、悶え苦しみながら夜明けを迎えた。
 その間に気分を紛らわせようと、冒険日程短縮承認の文は書き朝一早馬で送付はしておいた。
 そう言った仕事の評判は頗る良いのだ。何かを記録するとか、様式美的な文章を作成するとか、お堅い条例を作るとか……。
 冒険者と親交を持つのならば酒場へと出向き酒を振る舞うのが一番だとは理解している。しかし、酒は苦手で殆ど飲め無いため、軍関連の者たちとすら酒場で親睦を深めることは無い。そもそも冒険者という輩を何よりも毛嫌いしていた。
 要するに、辺境伯軍の中で一番冒険者と縁遠い人物に、元ベリアルという一癖も二癖もある冒険者か、ただの輩と仲良くなれと、辺境伯は命じた訳だ。
 この理不尽な命令に一体どの様な意味が込められているのか……今はまだ、ジリアンの知るところでは無かった。


 一方、ジリアン・メイフィールドが去ったあとの辺境伯執務室。
「――あの男、大丈夫かな?悪いヤツでは無いと思うが、些か頼りなく感じる。出会った頃はもう少し切れる男だと思っていたのだがな」
 トリスタンは、再びペンを走らせ周辺諸国の貴族へと懇親の文を綴っていた。
「うふふふ、頼りないけど、あれくらいの方が、私は操り易くて都合がいいわね」
 混沌の魔女は、するすると床を滑るように移動し、トリスタンに纏わりついた。
 人が絡みつくというより、黒い布で包み込んでいる様に見える。
「操るのは構わないが、また、無暗に潰すなよ?それでなくとも我が軍は人手不足に喘いでいるのだから」
「その人手不足を冒険者で埋めて、アンヌヴン王国として帝国に反旗を翻すのでしょう?その話を始めて聞いたのが十年前。あの頃は笑い話でしか無かったけれど、今はもう随分と現実味を帯びてきたわね」
 ねっとりとした魔女の声。頭の中に沁み込んでくるように響く。
「ただ単に軍を増強してしまっては、査察部に目を付けられるだけだからな。が、しかし冒険者であれば幾らいても然程気にはならんだろう?むしろ彼等は、経済を循環させる歯車となってくれるのだから。他の都市は冒険者や商人に対して重税を掛けるが、我が街アンヌヴンは実質五割免除だからな。それにより徴兵制度を敷く事無く強者を集められる。混沌の魔女ベアトリス・カンデイユよ、私はな、白銀の獅子の息子と何か強い繋がりを感じてならないのだ。十年前に独立を志した時、手駒に白銀の獅子があればどれ程心強い事だろうか、と思っていたのだから。お前から、その息子の存在を聞いた時に、私は天啓を得たと感じた。ジゼルという稀有な存在を手にした事も大きい。兎に角、ここに来て、私に都合の良い事ばかり転がり込んで来る。生来、ホビットに負けず劣らずの調子乗りだからな。いよいよ、時は動き出す、新しい時代へと。いや、動かさねばならないのだ」

 トリスタンが言葉を切ると、混沌の魔女は彼に唇を重ねた。
 ぬるりと舌を絡め、お互い恍惚とした表情となる。
「私は、貴方を皇帝にまで導いてあげる。その為なら、何でもしてあげるから」
「ベアトリス?私は今宵、お前を抱きたいと思っている」
「あら、そう。奇遇ね、私も今晩は誰かに抱かれたいと思っていたのよ」
「恐らく、お前は、私にそう言う魔法を掛けているのだろう?」
「うふふふ、それは、まあ、これでも、一応、魔女ですからねえ……」
 アンヌヴンの闇は深い――。



断章
アンヌヴンの夜。
END

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登場人物紹介

名前:レオン・トワイニング

種族:人間

性別:男

年齢:13歳

備考:山岳の村ドーンで生まれ育った銀髪の少年。

名前:チャック・ラムゼイ

種族:人間

性別:男

年齢:26歳

備考:辺境伯軍都市警備大隊に所属する熟女に弱い兵士。

名前:イライザ・シーモア(女)

種族:人間

性別:女

年齢:38歳

備考:レオンの母アンナの妹。酒房ルロイの女将。

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