第34幕・丸田 亮一
文字数 2,673文字
時は2009年。
9月16日におきた自民党から民主党への政権交代による熱狂がピークを迎えつつあった10月14日,セルゲイは東京から遠く離れた長崎の外海・大野集落を一人で歩いていた。
政権交代の翌日・9月17日に,セルゲイは「一般財団法人 ミレニアム数学振興事業団 副理事長」の肩書で,丸田に対して,『この度,当財団では,ナビエ・ストークス方程式を取り上げた書籍を出版する予定です。ついては,ナビエ・ストークス方程式をご専門にしている丸田先生に監修をお願いしたいと考えています。ご検討していただけると幸いです。』とのメールを送付していた。
無論のセルゲイの真の狙いは,ナビエ・ストークス方程式の研究をリードしている丸田を教会連合軍に引き込むことが目的であった。
そんなセルゲイのメールに対して,丸田は,『10月14日に私の生まれ故郷にある大野教会堂で面会しませんか?』とメールで回答してきた。
セルゲイは,待ち合わせ場所に指定された大野教会に歩きながらミシュルが作成した丸田のプロフィールレポートを思い出していた。
『丸田亮一・47歳
出身地・長崎県長崎市下大野町
東京大学を卒業後,プリンストン大学に留学し学位号を取得後,日本に帰国
28歳で東大教授に就任
専門はナビエ・ストークス方程式の研究,多くの他分野の研究者と活発な共同研究を行う,特に気象庁との台風進路予測研究は有名である
近年は自身の研究の他に,後進の育成にも熱心で,多数の入門書を執筆している
ただし,他薦による学会の役員への就任に難色を示すなど,浮き世と距離を置いているように思われる』
セルゲイは,初対面の丸田が気難しい象牙の塔の住人でないこと祈りつつ歩を進めていた。その時,セルゲイの目に石造りの大野教会堂が映し出された。2004年に解体改修工事が実施され,前年の2008年に重要文化財に指定された教会堂は,小さいながらも厳かな佇まいを見せていた。
セルゲイは,五島列島を背後にしたマリア像に一礼し,会堂に歩を進めた。
会堂に先着していた丸田は,セルゲイの姿を認めると席から立ち上がり彼を迎えた。
丸田は微笑みながら「東京大学の丸田です。ようこそ我が故郷に」とセルゲイに語りかけた。
セルゲイは,丸田の柔らかい印象に胸をなでおろしながら,
「一般財団法人 ミレニアム数学振興事業団から参りましたセルゲイです。
先月のメールにも書きましたが,丸田先生に,当財団で出版を予定しているナビエ・ストークス方程式を取り上げた書籍の監修をお願いしたく参りました。」と応じ,丸田に手を差し出した。
すると,丸田はセルゲイの目を見ながら,「一般財団法人 ミレニアム数学振興事業団ではなく,教会連合軍の間違いではないのですか?」と問いかけた。
セルゲイは,彼らしくもない動揺を隠しながら,「丸田先生,何を仰っているのですか?私はただ書籍の監修のお願いをしたいのですが」と応じた。
セルゲイの様子から彼の話が嘘だと確信した丸田は,冷笑を浮かべながら,セルゲイに語りだした。
「君たちの組織については色々と噂を聞いているよ。
あまり,良くない噂だがね。そんな組織の,おそらくはNo.2である君から私に連絡があったときは正直驚いたよ。だがね,それと同時に興味も持った。
だから,今日,ここまでご足労を頂いたのさ。
キリスト教の根幹である全知全能の絶対神の存在を,公然と否定する凶悪なテロリスト・数学者に対抗するために,忌むべき数学で応戦する組織・教会連合軍,なかなかシュールな皮肉じゃないか。
君たちは,数学の進歩如きで,この世界のキリスト教徒の神への信仰が揺らぐとでも言うのかね。
我々,大野のキリスタンは,禁教とされた300年余り,自らの信仰を信じながらも世を欺くため,人生を全うし次の世代に神の教えを伝えるために,踏み絵という屈辱にも耐えてきた。そんな我々から見ると,ミレミアム問題など,道端のちっぽけな石ころにも満たないものだと考えるが,ロシア正教会の君には受け入れがたいことかね?」
丸田の真っ直ぐな問いかけに対して,セルゲイは「丸田先生は,私が所属している組織をご存じなのですか?」と問いかけ,丸田は無言で頷いて応じた。
セルゲイは,教会堂の天井を仰ぎ見ながら,丸田に対して隠し事はできないと悟り,副官のミシェルにも伝えていない自らの考えを吐露し始めた。
「私は,教会連合軍の任務が神のご意向に叶うと信じ,2001年から8年間,世界を駆け回ってきました。
その間に,幾多の戦友ともいえる有能な数学者たちと出会い,意見を交わしてきました。それによって分かったことが一つあります。
それは,あなた方,数学者は,それぞれに形の違いはありますが神の存在を皆信じていること。数学の定理の発見は,その神との会話だと考えていることです。
ゆえに,数多の戦友たちは言う,ミレミアム問題の解放など,神への信仰心の妨げにはならないと。
しかし,全ての人が,あなた方,数学者と同じように神をとらえているのではないのです。そして,それは否定されることではないのです。
だから,私は教会連合軍に身を投じているのです。自らの,そして,多くの人々の信仰心を守るために」
率直なセルゲイの回答に対して,丸田は伏し目がちに答えた。
「神との対話ですか。それは真の天才のみが言うことを許される言葉ですね。
私は,ナビエ・ストークス方程式について研究を続けてきたが,未だにその本質に近づけていません。表面的には,他分野の研究者と研究成果を上げているように見えるかもしれませんが,私はナビエ・ストークス方程式の外側を撫でているだけなのです。その内側,深淵にある本質は見えていないのです。
私は,未だに神とは対話できていません。そう,今この瞬間も,心の底から神との対話を渇望しているにもかかわらず。
だからね,セルゲイさん,私は,天才,そう預言者の出現を世に告げるマギになることを決意したんですよ。預言者がこの世界に降臨したと,世界の隅々まで伝えるためのマギに。
私は,教会連合軍の趣旨には完全には賛同できない。
しかし,マギとして預言者の真贋を見極めるには,教会連合軍に参加することがベストだと考えています。
セルゲイさん,こんな私でも宜しければ,あなたの申し出・教会連合軍への参加を受け入れましょう。」
それを聞いたセルゲイは,逡巡しながらも,改めて,丸田に手を差し伸べた。
「ようこそ,教会連合軍に。我々は,Dr.丸田を歓迎します」。
9月16日におきた自民党から民主党への政権交代による熱狂がピークを迎えつつあった10月14日,セルゲイは東京から遠く離れた長崎の外海・大野集落を一人で歩いていた。
政権交代の翌日・9月17日に,セルゲイは「一般財団法人 ミレニアム数学振興事業団 副理事長」の肩書で,丸田に対して,『この度,当財団では,ナビエ・ストークス方程式を取り上げた書籍を出版する予定です。ついては,ナビエ・ストークス方程式をご専門にしている丸田先生に監修をお願いしたいと考えています。ご検討していただけると幸いです。』とのメールを送付していた。
無論のセルゲイの真の狙いは,ナビエ・ストークス方程式の研究をリードしている丸田を教会連合軍に引き込むことが目的であった。
そんなセルゲイのメールに対して,丸田は,『10月14日に私の生まれ故郷にある大野教会堂で面会しませんか?』とメールで回答してきた。
セルゲイは,待ち合わせ場所に指定された大野教会に歩きながらミシュルが作成した丸田のプロフィールレポートを思い出していた。
『丸田亮一・47歳
出身地・長崎県長崎市下大野町
東京大学を卒業後,プリンストン大学に留学し学位号を取得後,日本に帰国
28歳で東大教授に就任
専門はナビエ・ストークス方程式の研究,多くの他分野の研究者と活発な共同研究を行う,特に気象庁との台風進路予測研究は有名である
近年は自身の研究の他に,後進の育成にも熱心で,多数の入門書を執筆している
ただし,他薦による学会の役員への就任に難色を示すなど,浮き世と距離を置いているように思われる』
セルゲイは,初対面の丸田が気難しい象牙の塔の住人でないこと祈りつつ歩を進めていた。その時,セルゲイの目に石造りの大野教会堂が映し出された。2004年に解体改修工事が実施され,前年の2008年に重要文化財に指定された教会堂は,小さいながらも厳かな佇まいを見せていた。
セルゲイは,五島列島を背後にしたマリア像に一礼し,会堂に歩を進めた。
会堂に先着していた丸田は,セルゲイの姿を認めると席から立ち上がり彼を迎えた。
丸田は微笑みながら「東京大学の丸田です。ようこそ我が故郷に」とセルゲイに語りかけた。
セルゲイは,丸田の柔らかい印象に胸をなでおろしながら,
「一般財団法人 ミレニアム数学振興事業団から参りましたセルゲイです。
先月のメールにも書きましたが,丸田先生に,当財団で出版を予定しているナビエ・ストークス方程式を取り上げた書籍の監修をお願いしたく参りました。」と応じ,丸田に手を差し出した。
すると,丸田はセルゲイの目を見ながら,「一般財団法人 ミレニアム数学振興事業団ではなく,教会連合軍の間違いではないのですか?」と問いかけた。
セルゲイは,彼らしくもない動揺を隠しながら,「丸田先生,何を仰っているのですか?私はただ書籍の監修のお願いをしたいのですが」と応じた。
セルゲイの様子から彼の話が嘘だと確信した丸田は,冷笑を浮かべながら,セルゲイに語りだした。
「君たちの組織については色々と噂を聞いているよ。
あまり,良くない噂だがね。そんな組織の,おそらくはNo.2である君から私に連絡があったときは正直驚いたよ。だがね,それと同時に興味も持った。
だから,今日,ここまでご足労を頂いたのさ。
キリスト教の根幹である全知全能の絶対神の存在を,公然と否定する凶悪なテロリスト・数学者に対抗するために,忌むべき数学で応戦する組織・教会連合軍,なかなかシュールな皮肉じゃないか。
君たちは,数学の進歩如きで,この世界のキリスト教徒の神への信仰が揺らぐとでも言うのかね。
我々,大野のキリスタンは,禁教とされた300年余り,自らの信仰を信じながらも世を欺くため,人生を全うし次の世代に神の教えを伝えるために,踏み絵という屈辱にも耐えてきた。そんな我々から見ると,ミレミアム問題など,道端のちっぽけな石ころにも満たないものだと考えるが,ロシア正教会の君には受け入れがたいことかね?」
丸田の真っ直ぐな問いかけに対して,セルゲイは「丸田先生は,私が所属している組織をご存じなのですか?」と問いかけ,丸田は無言で頷いて応じた。
セルゲイは,教会堂の天井を仰ぎ見ながら,丸田に対して隠し事はできないと悟り,副官のミシェルにも伝えていない自らの考えを吐露し始めた。
「私は,教会連合軍の任務が神のご意向に叶うと信じ,2001年から8年間,世界を駆け回ってきました。
その間に,幾多の戦友ともいえる有能な数学者たちと出会い,意見を交わしてきました。それによって分かったことが一つあります。
それは,あなた方,数学者は,それぞれに形の違いはありますが神の存在を皆信じていること。数学の定理の発見は,その神との会話だと考えていることです。
ゆえに,数多の戦友たちは言う,ミレミアム問題の解放など,神への信仰心の妨げにはならないと。
しかし,全ての人が,あなた方,数学者と同じように神をとらえているのではないのです。そして,それは否定されることではないのです。
だから,私は教会連合軍に身を投じているのです。自らの,そして,多くの人々の信仰心を守るために」
率直なセルゲイの回答に対して,丸田は伏し目がちに答えた。
「神との対話ですか。それは真の天才のみが言うことを許される言葉ですね。
私は,ナビエ・ストークス方程式について研究を続けてきたが,未だにその本質に近づけていません。表面的には,他分野の研究者と研究成果を上げているように見えるかもしれませんが,私はナビエ・ストークス方程式の外側を撫でているだけなのです。その内側,深淵にある本質は見えていないのです。
私は,未だに神とは対話できていません。そう,今この瞬間も,心の底から神との対話を渇望しているにもかかわらず。
だからね,セルゲイさん,私は,天才,そう預言者の出現を世に告げるマギになることを決意したんですよ。預言者がこの世界に降臨したと,世界の隅々まで伝えるためのマギに。
私は,教会連合軍の趣旨には完全には賛同できない。
しかし,マギとして預言者の真贋を見極めるには,教会連合軍に参加することがベストだと考えています。
セルゲイさん,こんな私でも宜しければ,あなたの申し出・教会連合軍への参加を受け入れましょう。」
それを聞いたセルゲイは,逡巡しながらも,改めて,丸田に手を差し伸べた。
「ようこそ,教会連合軍に。我々は,Dr.丸田を歓迎します」。