第17幕・鈴蘭

文字数 1,753文字

 漣は,ジョルジオ・アルマーニのスーツを着て,片づけられた彼の部屋でプリントアウトしたニーチェの新しい論文を読んでいた。
 漣のヘアがいつもよりも整っていたのは,美容師たちが,ウォーミングアップ代わりにヘアメイクを行ったからだ。

 リビングルームの方からは,杏たちの着付けが始まったらしく,かしましい女子トークが聞こえ始めたが,漣の関心は,一部の週刊誌系のネットニュースメディアがニーチェの論文について報じはじめていたことに向いていた。

 『なぞの天才・ニーチェ,P≠NPを証明!』
 『遂に神にも解けない暗号があることが証明された!!』

 と,センセーショナルな見出しとともに,匿名の天才・ニーチェについて根拠の乏しい憶測を報じていた。
 ただ,大手メディアは,完全な裏付けが取れていないためか,いずれも沈黙を守っていた。しかし,漣は,『いずれは,そう遠くない将来に大手メディアも報道を始めるなぁ』と考えていた。

 オイラーが漣の部屋のドアの隙間から入ってきたのを横目で見ながら,再び,ニーチェの論文を冒頭から読み始めた。

 何度読んでも矛盾点や疑問点は見つからない。

 決定性チューリングマシンによる解法,例えばダイクストラ法では,解の完全性は保証されており,その解の検証には試行錯誤を必要としない。アルゴリズムによって導きだされる解は常に多項式時間で正解を得ることができる。確率にすると100%だ。

 これに対して,ニーチェは,一般的な9×9の数独を例に,数独特有の試行錯誤しながらパズルを解く方法,つまり疑似乱数を用いたアルゴリズムによる解の検証は,確率統計を用いることによって定式化できることを示した後,n×nの数独に一般化し,nを∞に展開することによって,NP完全問題である数独を確率統計で定式化できることを証明していた。
 NP完全問題である数独に対して,アルゴリズムを用いて求めた解の正答確率を100%にするには,無限の試行回数,つまり∞の時間が必要になることをニーチェの論文は示していた。
 これは,決定性チューリングマシンによる解法ではないことは自明である。

 よって,NP完全問題である数独は,P問題ではないとニーチェは結論付けている。

 漣は確信した。

 ニーチェは,いくつかのNP完全問題について確率統計を用いて分析することによって,この証明方法に気づいたのだと。

 これは,まさにポアンカレ予想のドラマの再現だと。

 すると,いつのまにか漣の机の上に登ってきたオイラーが,暇だからかまってくれと言わんばかりに,彼のPCのキーボード上にのってきた。

 不意打ちを受けた漣は,オイラーに微笑んだ後,喉を撫でた。

 オイラーは,余は満足であるぞと言わんばかりの表情で,目を閉じてゴロゴロと喉を鳴らした。

 オイラーの喉を撫でながら,漣は,自分のナビエ・ストークス方程式に対するアイディアについて確信を深めた。

 不確定な未来に対しても,確率統計を用いたアプローチは有効だと。
 それと,先を越された悔しさも含めて,まさか,自分以外にこのアプローチを思いつく奴がいたとはな。しかも,他分野,P≠NP問題で。とも漣は考えていた。

 その時,漣の部屋のドアが乱暴に開けられた。

 「じゃーん,我が息子よ!見よ!!この可憐な杏ちゃんを!!!」

 と志緒里が言いながら,背中から杏の両肩を押しながら,漣の部屋に押し入ってきた。

 子供の頃から何度も漣の部屋に入ったことがある杏ではあるが,年頃の異性の部屋に強引に押し入れられたことに抵抗感があるのか,ほほを赤らめて,キョロキョロとしていた。

 そして,押し入られた漣は,ワインレッドのタイトドレスに身を包んだ杏に見惚れた。
杏の胸には,鈴蘭のブローチが飾られていた。

 そんな息子に対して,志緒里は,「漣,女子には,綺麗だよとか,可愛いよとかちゃんと口に出して褒めなきゃだめよ」と冷やかすよう言った。

 「どうして,俺が杏に!」とは言えない漣は,プイっと横を見た。

 いつもながらの息子の対応に,志緒里は,やれやれとため息をつきながら,「さぁ,決戦の場に行きましょう!」と一向に掛け声をかけた。
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