第19幕・ビオラ
文字数 2,247文字
大江は厨房で料理の最後の確認を行っていた。
その時,彼の傍らに置いたスマートフォンが3コール鳴り沈黙した。リムジンタクシーからの志緒里達の到着の合図である。
大江は指さし確認を行い,チェック漏れがないことを確認した後,慌ただしくエントランスに向かい,ドアを開けて志緒里達を店に迎え入れた。
大江は,最終試験を受けたことがある先輩たちに色々とアドバイスを聞き,対策を立てていた。しかし,いざドレスを纏ったドクターを眼前にすると,今までにない緊張を強いられていることが分かった。喉が渇き,両の手が冷えていくことが分かった。
そんな大江を横目に見ながら,志緒里は軽く肩を叩いて,「今日はヨロシクね」と言った。
ドクターから意外な声を掛けられて,大江は驚き,そして我に返った。そして,大江は,大きく息を吐いて,目を閉じてから,ゆっくりと鼻から息を吸い込み,再び息をゆっくり吐いた。大江は意識がクリアになっていくことを確認した。大江はドクターの心遣いに感謝した。
そして,志緒里達をフロアーの中心にあったやや大きめの丸テーブルに案内した。
そのテーブルの中心には,月桂樹とオダマキが生けられた花瓶が置かれていた。
大江は,忙しい師走に足を運んでくれた志緒里たちに謝意を伝えた上で,彼の全能力を注ぎ込んだ決戦に向かうべく,厨房に戻った。
ウェイターが,グラスにミネラルウォーターを注ぎながらアルコールについて一人一人に聞いていた。ただし,漣と杏については,アルコールではなくジュースを勧めた。
そんな様子やテーブルを見ながら,伸治は大江の経営者としての採点を下げていた。
『やはり,大江は高級レストランに食事にくる客が求めているものが何か分かっていないな。
確かに,漣や杏は一目見れば未成年であることは分かるが,ここは非日常のエンターテインメント空間,しかも背伸びしたい年頃だ。そんな彼らにいきなりジュースを勧めるとはなぁ。せめて,ペリエを勧めて,大人扱いをしていますよ,という演出をすることの大切さが分かっていないとはなぁ。
しかも,こんな大きな丸テーブルでは会話は隣に席としか楽しめない。ましてや,テーブルの中央に花瓶を置くなど,正面の席の相手の目線が切られることに気づかないとはなぁ。もっとも,「栄光と勝利」と「勝利の誓い」を花言葉で伝えたい気持ちは分らないことはないが,相手はあの志緒里だぞぉ。』
と冷ややかに伸治が花瓶を見つめていたら,案の定,隣の席の志緒里が,ウェイターに,会話の邪魔だから花瓶をどけてと言った。
それを見た伸治はやれやれとため息を付いた。
家に帰ったら,志緒里に花瓶に込めた大江のメッセージを伝えてやろうと,伸治は心にとめた。
やがて,食前酒のシャンパンとオードブルが運ばれてきた。
さぁ,ゴングが鳴ったなぁと,伸治は大江の健闘を祈りながら,食事を始めた。
大江の料理と彼が選んだ酒は,どれも逸品だった。
特に,酒は複数のボトルを入荷して,大江自らがテイスティングし,料理の一部になるように演出されていた。
これには伸治は唸ったが,同時に未成年者への配慮が欠けているなぁとも思った。
もっとも,漣と杏が,大江の料理を正しく評価できるほどの経験はないがなぁ。と横目で,漣と杏を見た。二人の会話を聞くと,表面的な美味しさは分かっているが,味の深みまでは理解できていないようだった。
そんな,漣と杏は,いつものように,オイラーやお互いの学校の様子などの他愛のないことを話していた。伸治は微笑みながら二人の会話を聞いていた。
そんなとき,伸治は難しい顔をしているセルゲイを見つけて声を掛けた。
「さっきもそうだったが,難しいそうな顔をしているなぁ。セルゲイ。仕事で何かあったのか?」
伸治に指摘されたセルゲイは,自覚が無かったのか,少し驚いてから,「すまない,楽しい席に水を差して。年を跨ぐ,少々面倒な事案が発生してなぁ。」と詫びた。
それを聞いた伸治は「それはお気の毒さま。」と応じた。
やがて,デザートが運ばれ,夕食会は終わった。
セルゲイと結菜は,招待してくれた大江に謝意を伝えて店を出た。漣と杏は食事会の会話の続きをしながら店を出た。
そして,志緒里と伸治が店に残り,緊張した表情の大江と対峙した。
そして,志緒里はハンドバッグから小さなケースを取り出して,大江にそれを差し出し「おめでとう」と伝えた。
大江は震える手でそれを受け取り,ケースを開いて白いビオラのピンバッチを眺めた。
大江は,ようやくビオラのピンバッチをした偉大な先人達の仲間入りができた喜びを噛みしめていた。
『白いビオラ』のピンバッチこそ,料理人にとっては3つ星以上の価値を持っていることを,大江は誰よりも理解していた。
そんな大江を見つめながら,「これからも研究を怠らないように」と言葉をかけて志緒里は店を出た。
伸治は,喜びに浸っている大江に,そっとメモを渡した。
そのメモには経営者として伸治が気づいた点と,伸治が大江のために,真っ新なキャンバスを用意することが記されていた。
それを一読した大江は,帰り際の伸治に手を差し出し,「これから宜しくお願い申し上げます」と伸治に伝えた。
店の外から,伸治と大江が握手している様子を見ていたセルゲイは,やれやれと再びため息を付いた。
その時,彼の傍らに置いたスマートフォンが3コール鳴り沈黙した。リムジンタクシーからの志緒里達の到着の合図である。
大江は指さし確認を行い,チェック漏れがないことを確認した後,慌ただしくエントランスに向かい,ドアを開けて志緒里達を店に迎え入れた。
大江は,最終試験を受けたことがある先輩たちに色々とアドバイスを聞き,対策を立てていた。しかし,いざドレスを纏ったドクターを眼前にすると,今までにない緊張を強いられていることが分かった。喉が渇き,両の手が冷えていくことが分かった。
そんな大江を横目に見ながら,志緒里は軽く肩を叩いて,「今日はヨロシクね」と言った。
ドクターから意外な声を掛けられて,大江は驚き,そして我に返った。そして,大江は,大きく息を吐いて,目を閉じてから,ゆっくりと鼻から息を吸い込み,再び息をゆっくり吐いた。大江は意識がクリアになっていくことを確認した。大江はドクターの心遣いに感謝した。
そして,志緒里達をフロアーの中心にあったやや大きめの丸テーブルに案内した。
そのテーブルの中心には,月桂樹とオダマキが生けられた花瓶が置かれていた。
大江は,忙しい師走に足を運んでくれた志緒里たちに謝意を伝えた上で,彼の全能力を注ぎ込んだ決戦に向かうべく,厨房に戻った。
ウェイターが,グラスにミネラルウォーターを注ぎながらアルコールについて一人一人に聞いていた。ただし,漣と杏については,アルコールではなくジュースを勧めた。
そんな様子やテーブルを見ながら,伸治は大江の経営者としての採点を下げていた。
『やはり,大江は高級レストランに食事にくる客が求めているものが何か分かっていないな。
確かに,漣や杏は一目見れば未成年であることは分かるが,ここは非日常のエンターテインメント空間,しかも背伸びしたい年頃だ。そんな彼らにいきなりジュースを勧めるとはなぁ。せめて,ペリエを勧めて,大人扱いをしていますよ,という演出をすることの大切さが分かっていないとはなぁ。
しかも,こんな大きな丸テーブルでは会話は隣に席としか楽しめない。ましてや,テーブルの中央に花瓶を置くなど,正面の席の相手の目線が切られることに気づかないとはなぁ。もっとも,「栄光と勝利」と「勝利の誓い」を花言葉で伝えたい気持ちは分らないことはないが,相手はあの志緒里だぞぉ。』
と冷ややかに伸治が花瓶を見つめていたら,案の定,隣の席の志緒里が,ウェイターに,会話の邪魔だから花瓶をどけてと言った。
それを見た伸治はやれやれとため息を付いた。
家に帰ったら,志緒里に花瓶に込めた大江のメッセージを伝えてやろうと,伸治は心にとめた。
やがて,食前酒のシャンパンとオードブルが運ばれてきた。
さぁ,ゴングが鳴ったなぁと,伸治は大江の健闘を祈りながら,食事を始めた。
大江の料理と彼が選んだ酒は,どれも逸品だった。
特に,酒は複数のボトルを入荷して,大江自らがテイスティングし,料理の一部になるように演出されていた。
これには伸治は唸ったが,同時に未成年者への配慮が欠けているなぁとも思った。
もっとも,漣と杏が,大江の料理を正しく評価できるほどの経験はないがなぁ。と横目で,漣と杏を見た。二人の会話を聞くと,表面的な美味しさは分かっているが,味の深みまでは理解できていないようだった。
そんな,漣と杏は,いつものように,オイラーやお互いの学校の様子などの他愛のないことを話していた。伸治は微笑みながら二人の会話を聞いていた。
そんなとき,伸治は難しい顔をしているセルゲイを見つけて声を掛けた。
「さっきもそうだったが,難しいそうな顔をしているなぁ。セルゲイ。仕事で何かあったのか?」
伸治に指摘されたセルゲイは,自覚が無かったのか,少し驚いてから,「すまない,楽しい席に水を差して。年を跨ぐ,少々面倒な事案が発生してなぁ。」と詫びた。
それを聞いた伸治は「それはお気の毒さま。」と応じた。
やがて,デザートが運ばれ,夕食会は終わった。
セルゲイと結菜は,招待してくれた大江に謝意を伝えて店を出た。漣と杏は食事会の会話の続きをしながら店を出た。
そして,志緒里と伸治が店に残り,緊張した表情の大江と対峙した。
そして,志緒里はハンドバッグから小さなケースを取り出して,大江にそれを差し出し「おめでとう」と伝えた。
大江は震える手でそれを受け取り,ケースを開いて白いビオラのピンバッチを眺めた。
大江は,ようやくビオラのピンバッチをした偉大な先人達の仲間入りができた喜びを噛みしめていた。
『白いビオラ』のピンバッチこそ,料理人にとっては3つ星以上の価値を持っていることを,大江は誰よりも理解していた。
そんな大江を見つめながら,「これからも研究を怠らないように」と言葉をかけて志緒里は店を出た。
伸治は,喜びに浸っている大江に,そっとメモを渡した。
そのメモには経営者として伸治が気づいた点と,伸治が大江のために,真っ新なキャンバスを用意することが記されていた。
それを一読した大江は,帰り際の伸治に手を差し出し,「これから宜しくお願い申し上げます」と伸治に伝えた。
店の外から,伸治と大江が握手している様子を見ていたセルゲイは,やれやれと再びため息を付いた。