第3幕・結菜

文字数 888文字

 キッチンに立っている結菜の足元では,飼い猫のオイラーがまどろんでいる。猫の名前は,娘の杏がつけた。娘が言うには,オイラーとは18世紀の天才数学者の名前だそうだ。我が子ながら,変わったセンスよねぇ。

 結菜は,リズムよく包丁を奏でながら,セルゲイからプロポーズされた18年前からの出来事を思い出していた。

 セルゲイと出会ったニコライ堂の復活祭だった。
 高校時代の友人が東方正教会の信者だったのでカソリックとの違いが知りたいという好奇心で参加したものだった。
 彼女はセルゲイとは異なり,典型的な日本人らしく,正月,お盆,クリスマス,大晦日を楽しんでいる。熱心な東方正教会の信者であるセルゲイには,理解できないそうだが,結婚のときの約束を守って,彼も正月,お盆,クリスマス,大晦日の家族イベントに参加している。それともう一つの約束,朝食と夕飯にはご飯と味噌汁を一緒に食べることも守っている。彼女は,自然とはにかみながら微笑んでいた。

 結菜は東証二部に上場している商社に役員として勤めている。年明けには,創業以来の悲願だった一部上場を果たす商社である。

 彼女が杏の妊娠した時の役職は事業本部長(執行役員扱い)だった。彼女の率いる事業部は,会社の利益の実に72%を稼ぎ出していた。
 そんな彼女が,出産を機に退職しようとした時,社長は泣いて彼女を引き留めた。

 曰く,結菜が退職すると,会社は倒産しまうと。
 そして,社長は高貴な導師に救いを求めるように結菜の手を握りながら言った。

 『君の好きな時,好きな場所で勤務すれば良い,役員になってくれ』と。

 因みに,彼女の退職の噂が流れたとき,会社の株価は3分の1になり,役員への就任が分かると元値の1.2倍になった。
 このため,インサイダー取引もしくは株価操縦の疑いがかけられ,証券取引委員会による調査が行われた。そして,これを境に彼女の進退は経営上重要な情報として四半期決算時に報告されることが義務付けられるようになり,結菜は商社業界の伝説となった。

 そんな彼女である。セルゲイが結婚を機に,高坂の姓を名乗ることになったのは,当然の帰結だった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み