第11幕・志緒里

文字数 1,938文字

 帰宅した漣はキッチンスタジオに居る母・志緒里に声をかけてから自分の部屋に向かおうとしていた。すると,その背中に志緒里が「漣,杏ちゃんと何かあったの?」と問いかけてきた。
 母の勘の鋭さに驚きながら,漣は「別に」と素っ気なく答えたつもりだった。
 しかし,志緒里は,「別にって,あんた,母親に息子が隠し事できると思っているの?だったら,先ずはその癖を治しなさいよ。ほら,鼻を触っている~ぅ」
 志緒里の指摘に,漣は慌てて手を引き,自分の部屋に飛び込んだ。
 そんな,漣を見て,志緒里は溜め息をつきながらも,その頬は緩んでいた。
 まぁ,喧嘩をした感じではなさそうね。さしずめ,杏ちゃんに言い負かされたというところかぁ。
 相変わらずの息子と未来の義娘(志緒里にとっては確定事項)の様子を想像して,志緒里は微笑んだ。
 その様子を観ていたキッチンスタジオ内にいた受講生達のリーダー格・初老のシェフが,「ドクター,そろそろ続きをお願いします」と志緒里を促した。

 志緒里は少し慌ててながら,「ごめんなさい。途中で抜けて,じゃぁ,張りきって講義を続けましょう!
 では,天然由来の調味料の成分ばらつきがソースの風味に与える影響と,それを活かす方法についてです。具体的な手法はベイズ推定,ツールはExcelだけど,成分ばらつきを判定するのは皆さんの舌です。いちいち分析器に掛けるわけにはいかないからねぇ。
 このブラインドサンプルを使って,皆さんの味覚のバイアスを数値化します。
 じゃぁ,まずは坂井さんから行ってみましょう!」

 志緒里はいつものようにお気楽なテンションだが,受講生達は皆,日本刀のように研ぎ澄まされた表情だった。なぜなら,ここに集まっているシュフは,全員一つ星以上のレストランの料理長達である。隣に座る学友はライバルでもあるのだ。絶対に負けるわけにはいかないのである。
 なぜ,彼らがここに集まっているか?
 それは,志緒里が三つ星獲得請負人として,名高いからである。
 志緒里は一流を超一流にする術を,このキッチンスタジオで伝授しているのだ。

 志緒里は美味しいものを食べるのも,作るのも大好きな少女だった。そんな彼女が,小学生の時にテレビで『料理は化学である』という言葉を知った。
 それからである。志緒里は,夢中になって味覚について調べ上げた。そして,食材や調味料の成分には,ばらつきがあることを知り,食材と調味料の組合せが,季節に応じて無限の美味しいものを産み出すこと,成分のばらつきが奇跡を産む一方悲劇も招くことも知った。
 そして,志緒里は,料理化学の深淵を覗き込みたいと15歳の時に決意し,単身で渡米した。ハーバードに飛び級で入学するために。そして,20歳の時には農業化学と統計学の学位を取得していた。大いなる野望を実現するために。
 そして,気が付けば,マジシャンの二つ名で米国の料理界に知らぬ者がいない存在となっていた。しかし,志緒里は満足していなかった。いまだに深淵を覗けていない。やっと,淵の側まできたと。
 そんなときである,幼なじみの三上伸治から,『日本に戻らないか?』とメールが届いたのは。
 伸治は複数の星レストランを経営しており,所属しているシュフの面倒を見て欲しいと書いてきた。志緒里は,伸治のオファーには興味が無かったが,『世界で一番,星レストランが多い都市は東京だぜ』のフレーズに釘付けになった。
 世界でもっとも深淵に近い場所は東京であると確信した志緒里は飛行機に飛び乗った。
 そして,成田に迎えにきた伸治に対して言った。

 「伸治,私と深淵を覗きましょう!」と

 そんな志緒里が主宰しているキッチンスタジオである。講義もするが,研究の方に多くの時間が割かれているのは当然の帰結である。

 そして,伸治の苦悩が始まる。

 なぜなら,志緒里は,ライバル店のシュフまで門下生として受け入れた。
 深淵に迫るには,優秀な弟子が必要なことは分かるが,それはないんじゃないのと伸治は思っている。でも,それを言えない伸治に,彼の会社の従業員は涙した。

 しかも,スタジオの維持費は,伸治の想定の3倍を超え,とてつもないことになっているのだ。伸治の財布が悲鳴を上げる。しかし,惚れた弱味,悲鳴を上げならがらも耐え忍ぶこと18年。伸治はガッツポーズを決めるが,漣は呆れるばかり。

 もっとも,当の志緒里は伸治の苦悩など一切気にしていない。

 ちなみに,彼女がアメリカを出国した日,CNNのリポーターからインタビューを受けた有名なシュフが,「日本に偉大な志緒里を強奪された」と号泣したことは,今でも語り草になっている。
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