第6幕・漣

文字数 1,842文字

 16時すぎ,開店前の六本木の寿司屋で漣と会った。セルゲイとミシュルは,出勤時に着ていたスーツに着替えていた。連合軍の制服はここでは目立ちすぎるからである。
 夕食前で小腹が空いていた彼はおやつ替わりに,まず光り物ばかり8巻食べた。先ほど,追加でトロと穴子とヒラメのエンガワを大将に注文した。相変わらずの自由人である。もっとも,我が家の自由人達には及ばないがな。
 セルゲイとミシェルは大将のお任せで4巻食べ,今は,赤出汁を飲んでいる。
 店には居るのは,セルゲイとミシェルと大将,そして彼だけである。大将は敬虔なカソリックで司令部の設置にも関わった人物である。大将から,敵に情報が漏れることはない。

 漣はいつにもまして雄弁だった。

 明らかに,興奮していた。

 そう,ニーチェの論文に。

 「まさか,中学で習う背理法と高校で習う確率統計と極限だけで,P≠NPが証明されるとは思っていなかったね。しかも,エレガントな解法だった。まず,有限問題の多項式の時間の判定を確率統計で定式化し,極限を使ってそれをNPとP問題に展開し,それらをもって背理法によってP≠NPを証明するとはね。まさにコロンブスの卵だね。回路計算量や代数化に固執したロートルどもは,さぞかし驚いただろうね。
 これはポアンカレ予想のドラマの再現だよ。あの時は,トポロジーと微分幾何学だったけどね。P≠NP問題に憑りつかれた連中は,まず,P≠NP問題を解かれたことに落胆し,それが基礎数学によって解かれたことに落胆し,そして,こんな簡単な証明に気付かなかったことに落胆したことだろうね。」

 セルゲイは,彼の話を半ば聞き流しっていたが,漣の最後の言葉「こんな簡単な証明」に,背筋が凍り付いた。ニーチェの証明は,P≠NP問題の専門家ではない彼にも理解できるほど明解で,完璧だと言うことかと。
 セルゲイは,自身の不安を振り払うように,彼に問うた。

 「ニーチェの証明は,専門外の君でも理解できるくらい,自明で正しいものなのか」と。

 漣は数秒押し黙った後,セルゲイの目を見て,折り目正しく,こう言った。

 「知っての通り,数学の重要な定理の証明は,2年程度かけて行われる検証を経た後,公式に認められます。従って,少なくとも2年間は,ニーチェの論文が正しいとは誰も言えないと思います。
 その一方で,ニーチェの証明プロセスは自明な原理を利用しているため,何人もそれを否定することは出来ないと考えます。
 検証が必要な個所があるとしたら,有限問題の多項式の時間の判定を確率統計で定式化したことと,極限を利用してそれをNPとP問題に展開したことだと思います。ニーチェの論文は,これらの点について説明が不足しています。このため,ニーチェの証明が,全ての事象を説明する一般性を有しているのか判断が付きません。もっとも,ニーチェにとっては自明なことなのかもしれませんが。」

 彼と長く付き合っているセルゲイは知っている。彼が敬語でセルゲイの目を見て話すとき,彼の言葉には真実が宿っていることを。セルゲイは心臓鼓動が否応なしに早まっていることを自覚した。
 セルゲイの中で,東方正教会への信仰心と,ニーチェが言うように神は死んだのか?という疑問が渦巻いていた。

 その時,セルゲイの様子を見かねたミシェルが彼に新しい話題を振った。

 「ところで,漣くん,ナビエ・ストークス方程式の解は滑らかなものになりそうなの?」

 この質問にはミシェルの願望が含まれていた。彼もそれに気づいていたが,数学者としてそれを咎めることなく質問に答えた。

 「ミシェルさん,今は断定したことは言えないですが,直観では7:3で滑らかではなさそうだと感じています。そもそも,解が存在しない可能性も高いのではないかと。もっとも,変な先入観があると,思考を曇らせるので,思い込みは控えていますが。」

 それを聞いたミシェルは慌てた表情を浮かべながら,「そう,変なことを聞いてごめんなさい」と謝罪した。それを聞いた彼は,ミシェルの真意を測りかねていた。

 それもそのはずである。彼女は,彼に謝罪したふりをしながら,先ほど以上に難しい顔をしているセルゲイに謝罪したからである。

 セルゲイは,彼女の心遣いに感謝した。
 そして,心の中で,漣,お前まで「未来は神にも分からない。神は全知でないのだ」というのかと,セルゲイはうめいていた。
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