第5幕・司令部にて

文字数 2,314文字

 セルゲイは,涙目の杏と一緒に家を出て,大岡山から電車に乗った。結菜は家事を終えてから会社からの迎えの社用車で出社する。優雅に時差通勤を実践する結菜が羨ましいセルゲイと杏であった。
 杏は途中の白金台で下車して高校に向かった。杏は,通っている高校に対して,多少の窮屈さを感じながらも,友達と過ごす時間が心地良かったので,総じて言えば学校が好きだった。結菜によると杏の成績は文句が無いそうである。伝聞調になるのは,杏がセルゲイには成績を伝えていなかったからである。

 セルゲイは,その先の溜池山王で電車を降りて,オフィスに向かった。その道中,16歳にもなっても母親にお仕置きされる娘を微笑ましくも少し心配になっていた。
 いくつになったら,ごめんなさーぃを聞かなくなるのだろうと。と同時に,それが聞けなくなった時を想像すると寂しくもなる複雑な感情。それと何故,ママとお父さんなのかを考えると,父の悲哀も感じてしまう歳になったとセルゲイは感じていた。

 しかし,そんな彼も,ここ連合軍司令部にいるときは,キリスト教を守護する一人の優秀な使徒であった。念のため言っておくが,妻がチートなほどハイスペックな存在なため,家庭では彼の能力が過少に評価されているだけである。また,娘も年齢以上の能力と容姿(本人は無頓着だが)を誇っていることもそれに拍車をかけていた。ある意味,幸せ過ぎて,不幸な男でもあるのだ。

 セルゲイはいつも通りの時間にオフィスに到着し,副官のミシェルに声をかけた。
 オフィスの名称は,「一般財団法人 ミレニアム数学振興事業団」。登記簿によると,バチカンの他に,各国の首都にその支部がある。そして,その登記簿の目的の欄には「数学の知識を遍く世界に広め,ミレニアム懸賞問題の解法を目指し,その成果をもって数学をはじめとするあらゆる分野の学問の研究を深める。」と記載されていた。しかし,これは世を忍ぶ仮の姿である。ここは,セルゲイが司令長官を務める教会連合軍の司令部である。

 セルゲイは教会連合軍の制服に着替え,司令長官の席に座り,ミシェルは,司令長官室のブラインドを下ろした後,セルゲイの隣の席に座った。そして,複数のモニターに世界各国に散らばったエージェントを呼び出した。会議の出席者に配布された資料には,最新のニーチェに関する動向と情報について記されていた。

 モニター越しだが,エージェントは皆緊張していることが分かった。なぜなら,最も恐れていた事態の一つが発生したからである。
 そう,ニーチェと名乗るテロリストがP≠NPを証明したと宣言したからである。ニーチェは公然と,全世界に向けて
 『神にも解けない暗号がある。神は全能でないのだ』
と宣言したのだ。更に,このテロリストは,偽名とは言え,
 『神は死んだ』
と著書に記し,教会勢力に反旗を掲げた憎むべき存在・ニーチェの名前を騙ったのである。不遜の極みと言わずして何と言おう。
 このテレビ会議に出席しているもの皆が思っていた。何がニーチェだ。神は死んでいない。神は絶対の存在であると。
 彼らの瞳を見て,その士気が全く衰えていないことを確認したセルゲイは,安心したと同時に,試練に対して心が折れることがない同志たちに敬意を払った。

 会議の冒頭,ミシェルから,ニーチェに関する情報とその動向の報告が行われた。もっとも,ニーチェはプレプリントを発表した後,一切,行動を起こしていない。このため,今回の事態が発生した当初からほとんど情報が更新されていない。ネット上の不確かな情報の概要とその裏付け調査の結果が,会議の都度,加わるだけだった。

 セルゲイは,ミシェルの報告を聞きながら,苦虫を噛み潰していた。
 ニーチェが俗物ならば,その対処は容易いなのだがと。彼(彼女)の目的は何なのだ。ただ,世間を嘲笑うためなのか?
 ニーチェは100万ドルの懸賞金や功名心は全く求めていないようだ。まるで,ブロックチェーンの論文を発表したSatoshi Nakamotoのように。

 これまで得たニーチェの唯一の手掛かりは,プレプリントサイトに論文を投稿する際に必要となる電子署名だけであった。しかし,情報部からの報告によれば,ニーチェはこの論文以外に,その電子署名を一切使用していないとのことであった。
 ただ,今回,ニーチェの英文には,ロシア語と日本語の訛りが確認できたとの分析結果が報告され,新たな手掛かりとして加わった。

 ミシェルの報告終了後,セルゲイは,各支部の責任者から,順次プロジェクトの進行状況の報告を聞き,それぞれに手短に,しかし的確な指示を伝えていった。会議の中盤,先週セルゲイの指示を受けたUSA支部のマイケルから,カリフォルニア大学バークレー校のチームがニーチェの論文を否定するための検証チームを立ち上げたと報告された時,出席者が色めき立ったが,セルゲイは冷静になるように一同に促した。
 そして,セルゲイはこう言って,会議を締めくくった。

 「資金の出し惜しみをするな。何としても,ニーチェの論文を否定する検証チームを編成しろ。バークレー以外にも必ずあるはずだ。」

 会議の出席者は一斉にセルゲイに敬礼した。

 会議が終わり,ミシェルは,ブラインドを上げた後,セルゲイに紅茶を差し入れ,「いつもながらお見事です。まずは,バークレーチームの健闘を期待しましょう。それと,きっと,バークレーに続く勇者たちも現れますよ」と労った。
 セルゲイは,ミシェルの心遣いに感謝した。
 そして,彼女に伝えた。

 「今回の件で,漣の意見を聞きたい。彼の専門分野はP≠NP問題ではないが。スケジュールの調整を頼む」と。
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