孤独にこもる殻の中

文字数 1,755文字




 稽古と自主練習を終えた純は、制服に着替えて受付に向かう。

 稽古場のカギを受付に返して帰ろうとしたとき、見慣れた人物に気づいた。

 エントランスの奥にあるテーブルに、月子が座っている。通学カバンから教科書を取り出した態勢で固まっていた。

 教科書の表紙には、黒く太い文字が一面に書き記されている。月子の反応からわかるとおり、決していい言葉ではない。

 教科書を見下ろす月子の表情はいつもと変わらない。しかしその目は、暗く濁っていた。

「ぅぐ……」

 月子を見ていた純の心臓に、握りつぶされるかのような痛みが襲う。全身から冷や汗が噴き出した。

 月子が打ちのめされ、絶望する未来が、くっきりと頭に浮かび上がる。純にとっては信じたくもない、おぞましい光景だ。

 他のタレントはともかく、そんな状態の月子を、放っておけるはずもなかった。

 純は周りを見渡し、他に人がいないことを確かめ、月子に近づく。

「月子ちゃん」

 純に気づいた月子は、急いで教科書をカバンに入れる。

「……なに? どうしたの?」

 純を見上げた月子の顔は青白く、やはり瞳が濁っている。

「ううん。見かけたから声かけただけ」

「そう……」

 ため息交じりの返事だった。しゃべる気力もないようだ。

「大丈夫? なんか、顔色、悪いよ?」

 真面目で、プライドの高い月子のことだ。なんと返してくるか、純にはわかっている。

「気にしないで。大丈夫だから」

「なにか、困ったこととか、ない……? 俺じゃやっぱり、力になれそうにない?」

 月子は返事をしなかった。

 助けてあげたいのに、助けてあげられない。もどかしくてしかたない。

 続けようとする純を、月子は遮った。

「いいの。大丈夫だから」

 月子は立ち上がり、カバンを背負う。制服姿に通学カバンの組み合わせは、嫌でも月子が中学生である事実を突きつけていた。

「純ちゃんって、律儀よね」

「え?」

「私が出てる作品の感想、毎回送ってくるじゃない」

 それは、純が両親と月子だけにしていることだった。華々しい世界で、もっと輝いてもらうために。

「あ……ごめん。うざかった? 確かに気持ち悪いよね、言ってくれたらやめたのに」

 月子は首を振る。

「いいの。最初こそ嫌だったけど、今は頼りにしてるから。……純ちゃんの意見、理にかなってるしね」

 月子がしゃべるたびに感情が流れ込んで、純の胸が痛む。

「でも純ちゃんの言葉に頼りっぱなしっていうのも、よくないと思ってる」

「そんなこと……。俺がしたくてやってるんだよ。月子ちゃんが芸能界でずっと活躍していくのを、見ていたいから」

「そう言われてもね。純ちゃんのその見識、自分のために使ったほうがいいんじゃないの? これじゃあ私が、純ちゃんのこと利用してるみたいじゃない」

「いいよ、全然利用してもらって」

 純にアドバイスをもらってばかりの罪悪感。それは月子が、純のことを友達だと思ってくれているからこそ抱くものだ。

 劣等生扱いされる純に、対等でいようとしてくれる。だからこそ純は、月子に対して力を使うことを惜しまない。

「大丈夫だよ、月子ちゃん。今は、自分のことだけを考えて。忙しくて、余裕ないんでしょ? 俺は、こうやってたまに話すことができれば嬉しいよ」

「そう……」

 何を言おうと月子の瞳は明るくならない。ものものしく目を伏せる。

「ますますわからなくなるよ。どうして純ちゃんはないがしろにされて、私みたいな女と仲良くしてるんだろうって」

「月子ちゃ……」

「純ちゃんと私は、全然違うのにね」

 なんと声をかければいいのか、純にはわからなかった。その心境を察してか、月子は純を見て、かすかに口角を上げる。

「今のは忘れて。……じゃあ、そろそろ行くね」

 一人で昇降口に向かう月子に、純は声を放つ。

「大丈夫? マネージャーさんに送迎をお願いしたほうが……」

 月子は振り返り、手を振った。

「いいの。一人でいたいから」

 そう言われてしまうと、何も返せない。外へ出る月子を見送り、立ち尽くす。

 結局、この日も純はなにもできなかった。

 病んだ心を無理やりこじ開けるのは逆効果だ。下手すれば月子の信頼をなくす。月子のほうから頼ってもらえるように、少しずつ、癒やしていかなければならない。

 しかし純の力だけでは、あの不穏な未来から月子を救えそうになかった。

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