弱い僕と強いきみ

文字数 3,102文字

 階段で一階に降りて来た純は、エントランスに足を踏み入れる。

 隅のテーブルに座っている月子と、目が合った。

「あ、純くん」

 宿題を閉じて月子は立ち上がる。こちらにこようとする月子より先に、純が駆け寄った。

「月子ちゃん、久しぶり。元気だった?」

「うん。それなりに」

 純はキツネ目を細め、柔らかな空気を全身から放出する。月子に会えたことがうれしくてしょうがない。

 が、周囲から『おまえごときが渡辺月子と話すなよ』といった視線を感じ取る。

 あいさつだけして帰ろうと考えた矢先、月子が真剣に尋ねてきた。

「どうだった? 試験の結果はもうわかってるんでしょ?」

 純はうなずく。

「合格、してたよ」

「……そう。おめでとう、純くん」

 興奮を抑えた大人っぽい声だ。

 月子は猫目を少し細めている。言葉は素っ気なくても、自分のことのように、心の底から喜んでくれていた。

「休んで勉強に集中したかいが、あったね」

 その一言に、月子の優しさが詰まっていた。さきほどまで痛みを引きずっていた純の心は、温められていく。

 ふと、純の鼻が鳴る。かすかなにおいを嗅ぎ取った。

「……もしかして、さっきまで、誰かと一緒だった?」

「え?」

 月子はさきほど会長が座っていたイスに視線を向け、純に戻す。

「どうして?」

「いや、なんか……」

 純はためらいながら小声で伝える。

「コーヒーと……加齢臭が混ざったにおいがするから」

「ふっ」

 瞬間、月子はふき出した。純から顔をそらし、口元に手を当て、体を震わせながら耐えている。

「ふふっ……加齢臭って……」

「その、相手が誰かまではわかんないんだけどね」

「じゃあ、教えてあげない……」

 ツボに入った月子の姿は、普通の女子中学生のようだ。普段クールな月子にしては珍しい。月子は肩で呼吸しながら、必死に自分を落ち着かせようとしていた。

「純くん、それ、本人の前で言ったらだめだからね、絶対」

 テーブルの宿題とペンケースを、通学カバンに入れていく。が、やはり急に思い出しては、こらえきれずに笑っていた。

「ははっ……加齢臭か……全然気づかなかったな」

「あ、俺、そういうの人より敏感だから」

「そうなの? じゃあ汗かいたあとは会うの控えなきゃね」

 カバンを閉じて背負った月子に、純はおそるおそる声を出す。

「あのね、月子ちゃん。その、よかったらなんだけど、連絡先、交換しない?」

 この機会を逃せば、月子と次に会うのはずっと先だ。今しかチャンスはない。

 自身のカバンを漁り、スマホを探す。

「俺、月子ちゃんと友達になりたいなって思ってるから……」

 そのとき、純の背後から、多くの視線が突き刺さる。嘲笑に、軽蔑、嫌悪……とにかく黒々とした視線が向けられていた。

 毒のある声が、純の耳に届く。

「するわけないじゃん」

「親が有名だからって調子乗りすぎじゃね?」

 周囲から見れば、純のような売れてもいないアイドルが、華々しく活躍する月子といることがすでに異常事態なのだ。連絡先の交換を提案する姿は滑稽でしかない。

 純に視線を向ける誰もが、月子に断られる姿を想像している。その姿こそ純にふさわしいとばかりに。

「あ、ごめん、やっぱり無理だよね」

 スマホを取りだすのを、やめた。

 自身が笑われる分には別にいい。月子に気を遣わせたくなかった。

「どうして?」

 月子は静かにカバンを開け、中をまさぐる。スマホを取りだし、振って見せた。

 強気に声を張る。

「ちょうどよかった。私も同じこと言おうとしてたの!」

「あ、でも」

「なに? 嫌なの?」

 純をまっすぐ見据える、大きくて力強い瞳。とにかく華々しく、自信に満ちていた。

「わたしがするって言ってるんだからするの。誰と連絡先を交換するかは私が決める」

 月子はやはり、月子だった。いつだって、純の味方でいてくれる。

 純はうなずき、スマホを取りだした。月子と連絡先を交換し、スマホに登録された連絡先を見つめる。

「俺、月子ちゃんが出てる番組、絶対見るね。感想も送る。……俺の感想なんてたいしたことないかもしれないけど」

「そんなムチャなことしなくていいよ。自分の生活があるんだから」

 月子も連絡先を確認し、スマホをカバンの中に放った。カバンを背負いなおす。

「実は、もう来なくなるかもって思ってたんだけどね。そういう人、珍しくないし」

「あ、それ、さっき社長にも言われた」

 とたんに月子の眉が寄る。本気で嫌がっているときの顔だ。

「ご、ごめん……」

 委縮する純の姿に、月子は短く息をついた。

「私も、純くんとはいい友達になれると思ってたの。だから、戻ってきてくれて、嬉しい」

 月子の顔に、薄い笑みが浮かぶ。穏やかで、柔らかくて、邪気のない笑みだ。

 月子は誰よりも強くて、誰よりも優しくて、誰よりも堂々としている。やはり彼女は、純を傷つけることはしない。そんな人物ではない。

「うん。ありがとう、月子ちゃん」

 純は細めたキツネ目で、月子を見すえる。

「あのね、これは、別に、覚えててくれなくてもいいんだけどね」

 月子の思考も、予想される言動も、純の頭に滞りなく流れこんでくる。頭の中で、これから先の月子の姿が、鮮明に視えていた。

「月子ちゃんはこれから、もっともっと忙しくなる。他のことなんて考えられなくなるし、学校にも行けなくなる」

 その声は、月子にしか聞こえないほどに小さく、落ち着き、機械的な印象を与えていた。

 月子はいぶかしげに純を見るが、純の言葉を否定することはない。

「仕事が増えたら、嫌に思うことも増えてくる。そのときは、自分の気持ちを優先してね。月子ちゃんは強いから、大丈夫。なにがあっても、絶対に、のりこえられる」

 落ち着いた口調なのに、力強さも感じさせる。妙に、耳に残る声だ。純の言葉は、月子の頭にすんなりと入っていく。

「それでも月子ちゃんがくじけてしまったときは、俺が助けるよ、絶対」

「純くんが?」

 月子は鼻を鳴らす。

「……大丈夫よ。そんなことにはならないから。何が起こっても自分で解決できるもん」

 堂々と背筋を伸ばして見せる態度に、それでこそ月子だと、純は笑みを浮かべた。

 エレベーターのほうから男性の声が響く。

「月子ちゃん!準備はもうできてる?」

 スーツ姿の若い男性が駆け寄ってくる。

 月子のマネージャーだ。大きいバッグを肩にかけていた。

「台本は覚えてる? 共演者の名前は覚えてる? このあとのスケジュールは伝えてなかったよね?」

 マネージャーは焦燥感にかられた顔で、バッグの中をあさる。必死なマネージャーに比べ、月子は冷静だ。腕を組んで静かに答える。

「台本は自分で持ってきてるし演者さんの名前も覚えてる。あなたが来て報告するのを待ってたんだけど?」

「じゃあすぐ行こう。詳しいことは車のなかで」

 裏口へ移動するよううながすマネージャーに、月子はついていく。

 遠くなっていく二人の後ろ姿を、純は見つめていた。ふと、月子が立ち止まる。振り返り、純に指をさした。

「いい? 何かあったら気を遣わないで絶対連絡してね! 

、私は友達! でしょ!」

 純は目を見開く。月子の思考と感情を瞬時に読み取った。

 月子は、あえて、この場で、声を張ったのだ。職員もレッスン生もいるこの場で、声高に純の味方だと宣言したのだ。人の目を気にすることなく、恥ずかしげもなく。

 呼び方を変えてきたことで、友達であることを強調している。

 純は満面の笑みで、うなずいた。

「うん……!」

 やはり月子は正直で、高潔だ。

 今まで助けてもらった分、今度は純が、月子を守る。どんなことがあっても、たとえ純が苦しくなっても、月子だったら何度でも助けてみせる――。



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