意欲と義務 1
文字数 2,386文字
「星乃。自主練するだろ?」
ダンスの稽古終わり、男性講師がカギを揺らしながら尋ねる。
「あ、いえ。今日はもう……」
別のダンス講師である若い女性が、キツイ声で言い放った。
「いや、あんたが一番できてないんだから残って練習すべきじゃない?」
他のスタッフも同じようなことを言いたげな表情で見つめてくる。
「どうせあんたには仕事ないんだからさぁ。そういうところでメンバーと差が開いてるんだってわからないかなぁ」
純の心が、少しずつ冷めていく。
誰よりも早く事務所にきて、稽古場が使えるギリギリの時間まで練習して帰る。それがいつもの行動パターンだ。たった一日練習しないだけでここぞとばかりにたたかれる。
アイドルになってから、ずっと、心の一部が徐々に削り取られているような感覚だ。
純は笑みを浮かべ、静かに返す。
「心配していただいてありがとうございます。俺もそうしたいんですが、社長に呼び出されていまして」
「あっそ。じゃあ好きにすれば」
「はい。すみません」
純は更衣室で制服に素早く着替えたあと、まだ着替えているメンバーをその場に残し、社長室に向かう。
社長は純を快く中に通してくれた。純は来客用の二人掛けソファではなく、テーブル横の一人掛けソファに座る。目の前には、すでにノートパソコンが開かれた状態で置かれていた。
画面にはすでにファイルが開かれ、経歴書を自由に見ることができる。
純がパソコンを膝に置くと、社長の秘書である女性が純の前に紅茶を置いた。純がお礼を言うと会釈して、静かに部屋をあとにした。
奥のデスクに座っている社長が、ゆったりとした、けれども力強い声をだす。
「連絡してくれてありがとう、純ちゃん。グループのこと、本気でとりかかろうとしてくれてるみたいで嬉しいわ」
「こちらこそ、ありがとうございます。ここまでしていただいて」
社長にスカウトされたからといって、対応に緊張しないわけではなかった。相手は事務所の実質的なトップ。思考や感情を読み取れるとはいえ、非常に気を遣う相手だ。
それでも、イノセンスギフトを前にするよりは平常心でいられた。
「気が済むまで見てちょうだい。あなたの力をいかせるならなんでも協力するわ」
「ありがとうございます」
純はさっそく、用意されていた資料を開いていく。
画面に映し出されたPDFには、タレント個人に関する情報がこと細かに記載されていた。生年月日や趣味、特技、これまでにしてきた仕事がすべて埋まっている。
今の宣材写真だけでなく、入所したての写真も残されていた。
本人たちを見ただけでは得られない情報が、ここにはすべて詰まっている。最初からここを見せてもらえばよかったと、後悔するくらいに。
「やっぱり、みんな、デビューする前に、そこそこ仕事の経験があるんですね」
「そうよ。名前が売れなかっただけで、そこそこやれるのよ、あの子たち」
レッスン生といっても、ただ歌やダンスの実力を積んでいくわけではない。
自分からドラマのオーディションを受けて仕事をとる者や、先輩の冠番組のアシスタントとして出演する者もいる。それは決して簡単なことではなかった。
イノセンスギフトのメンバーは、レッスン生のころから演技やバラエティの仕事をこなしている。優等生と評価される理由はここにあるのだ。
「……なるほど」
一人一人、集中して読み込んでいく。書かれている情報を、今のメンバーの姿にあてはめながら、彼らの言動や活躍を予想していった。
もちろん、両親や月子のように、はっきりとしたビジョンが浮かび上がるわけではない。しかしこの書類があるのとないのとでは、全然違う。
「ん?」
今画面に出したのは、坂口千晶の履歴書だ。名前の欄には「渡辺
「渡辺……」
聞いたことのある名字だ。家族構成の欄に目を向ける。
見たことのある名前が並んでいた。
純は特に反応を見せず、経歴の欄に視線を移す。
事務所に在籍したのはずいぶんと前のようだが、経歴に書かれた仕事は
純が真剣な表情で読んでいく最中、ドアをノックする音が響いた。
社長が返事をすると、ドアがゆっくりと開く。ドアを開けたのは秘書で、その後ろにイノセンスギフトの最年長、谷本飛鳥が立っていた。秘書にうながされ、緊張した面持ちで入ってくる。
くせっ毛と眠そうなたれ目が特徴的な高校三年生。純の印象としては、アイドルなのに主張しない、大人しい人物だ。
「よく来たわね。そこに座って」
社長は来客用の二人掛けソファを手で示す。うながされるままソファに座る飛鳥は、斜め横に座っている純に目を見張った。
まさかほんとうに社長室にいるとは思わなかったのだろう。
純は飛鳥にほほ笑み、飛鳥に関する資料を、画面に出す。
「ああ。純ちゃんのことは気にしないで。あなたを呼び出したこととは関係ないから」
社長がそう言っても、気になるものは気になる。飛鳥は純にチラチラと目を向けていた。秘書が飛鳥に紅茶を出すと、軽く頭を下げる。
社長はデスクから立ち上がり、飛鳥の正面のソファに腰を下ろした。足を組み、飛鳥に向けてしっかりとした声を放つ。
「飛鳥。ジャパンTVで不良ドラマのシリーズがあるんだけど、知ってる? あんたたちの先輩も出てるヤツ」
「あ、はい。わかります。土曜の枠ですよね?」
「そうよ。来年の四月から新しいシリーズが放送されるんだけどね。その生徒役の主要メンバーとして、飛鳥の出演が決まったわ」
「え?」
「おめでとう」
社長は笑顔で、優雅に拍手する。飛鳥はポカンとした顔で固まっていた。
じょじょに実感がわいてきたのか、頬が緩んでいく。
「ほんとうですか……!」
「ほんとうよ。よかったわねぇ」
室内に、和気あいあいとしたいい空気が広がっていく。