二世の劣等生と高慢な天才子役 1

文字数 2,835文字




「今日も来たんだ……」

「よく来れるよね」

「俺だったらこの状況で絶対に来ないけど」

 純は聞こえないふりをして、エントランスを横切る。向けられる視線と感情に、慣れることはない。

 社員スタッフ、レッスン生とすれ違うだけで、純の神経はどんどんすり減っていった。

 練習着に着替えて稽古場の前に立つと、心拍数は跳ねあがる。深く呼吸を繰り返すその顔は、真っ青だ。嫌な汗が全身から吹き出している。

 体が、動かない。稽古場の中に、入れない。入って練習しなければと思うほど、全身が震えたつ。

 ――このまま、なにもかも捨てて、逃げ出してしまいたい――。

 ――やっぱり、頑張れないかもしれない――。

 ハイトーンの歌声が、耳に入ってきた。稽古場の中からだ。イノセンスギフトのメンバーではない。女性の声だ。その音質からして大人のものではない。

 透きとおったソプラノの声。甘えるようでいて、茶目っ気もある。

 導かれるようにそっとドアを開け、中に入った。純が見ていることは鏡でわかるはずなのに、声の主は踊り歌うのをやめようとしない。

 彼女の一挙手(いっきょしゅ)一投足(いっとうそく)は華麗でかわいらしく、周囲を色鮮やかに見せていた。その振る舞いからして、ミュージカルのようだ。激しいダンスのステップがあろうと、歌声がブレることはない。

 純はそのまま、立ち尽くしていた。彼女の姿に、ぼうぜんとすることしかできなかった。彼女の歌もダンスも、純の心をつかんで離さない。

 指先の震えも激しい動悸(どうき)も、彼女の歌が終わるころにはすっかりおさまっていた。思わず、小さな拍手を送る。

 彼女は、純に顔を向けた。先ほどまで笑っていたその顔は、神妙でいぶかしげなものに変わる。

 猫のようにつりあがった大きな瞳。大きく艶のある唇。ポニーテールにした長い髪が揺れていた。

「なに? なにか用?」

 この事務所で、彼女の正体を知らない者はいない。当然、純もよく知っている。

 幼いころから天才と評される子役の、渡辺(わたなべ)月子(つきこ)だ。教育テレビやドラマで、純は何度も彼女を目にしてきた。

 中学一年生で純より年下だが、高い身長が大人っぽさを引き立てている。

 純はいつもの癖で、頭を下げた。

「すみません。つい、聞き入ってしまって」

「ああ、そう」

「とても、すごかったです!」

 満面の笑みで言い切る純に、月子は短く息をついた。大股で堂々と、純のもとへ向かう。

「次に使うのはイノセンスギフトだっけ?」

「……はい」

 目の前で止まる月子からはもう、歌っていたときのかわいらしさが消えている。今の月子から感じとれるのは気高さと、華々しさだ。
 小生意気な性格も感じとったが、それでも人を引き付ける魅力のほうが勝っている。

 どんなわがままでも許される女王様。純の目には、そう映った。

「そう。じゃあ私は帰るから。カギはそのまま置いとくね」

 月子からいろんなものを感じとったが、なぜか純に対する嫌な感情を読み取ることはなかった。スタッフたちのようなあざけりも、メンバーのような遠慮や不信も感じない。

 純は、穏やかにほほ笑む。

「ありがとうございます」

 月子が笑みを返すことはなかった。純をよけ、静かに稽古場を出ていく。

 扉が閉まったとたん、純の口から脱力したため息が漏れた。

「すご……かったぁ……」

 ずっと聞いていたくなるほどの心地いい歌声だった。のしかかる黒い感情がはらわれ、心が洗われたようにさえ感じた。

 父親の歌声に元気をもらえるのと、同じだ。

「俺も、がんばらないと……」

 少しだけ前向きな気持ちで、鏡の前に立つ。目をつぶり、ダンスを必死に思い出そうとした。

 怒鳴り声がフラッシュバックし、体がこわばる。純の顔が、苦悶(くもん)にゆがむ。

 なにも、わからない。デビュー曲の音楽ですら、思い出せない。

「……なんで……?」

 心臓が、激しく脈を打つ。浅い呼吸を繰り返す。また、体が震え始めた。

 純はその場にしゃがみ、膝を抱える。

「なんでなにも覚えてないんだよ……。なんで俺だけ踊れないんだよ……」

 その目に、涙が浮かんでくる。

 月子の歌とダンスに励まされた一方、なにもできない自分の現実に、絶望が押し寄せる。

「もういやだ、もう、辞めたい」

 とはいえ、ここで逃げ出すこともできない。

 辞めて、自分が根性なしだと責められるだけならまだいい。

 純が辞めれば恵も辞める。下手すると、育て方が悪いと両親が批判されるはずだ。

「でも、なにも、できない」

 問題は、ダンスを踊れないことだけではなかった。

 社長に頼まれたことが、現時点でなにもできていないのだ。純の能力を、一切使えていない。黒い感情を全身で浴びながら、四苦八苦しているだけだ。

 メンバーやグループが売れるかどうか、視る余裕もない。

「どうすれば、いいんだろう……」

 メンバーたちを視るどころか、今の自分の状況ですら改善できない。

 もう、なにもかもが、わからない。

 このまま時間が止まり、何も考えないで済むようになればいいのに――。

「ねえ。練習、しないの?」

 女の子の声に、顔を上げる。目の前の鏡に、純の後ろでたたずんでいる月子の姿が映っていた。この短時間でぶかぶかのブレザーに着替え、戻ってきたらしい。

 純は目を見開きながらふりむく。誰かの気配に気づかないことなど、純にはあり得ないことだった。それほど、今の純には余裕がない。

 月子は冷たくも真剣な目で純を見下ろす。

「ねえ、練習は? 自主練のために早く来たんじゃないの?」

「あ、それが……」

 純は赤面してうつむいた。

 先ほど完璧に踊っていた月子相手に、ダンスが踊れないのだとは言えない。きっと月子も、「しょせん二世か」という目で見つめてくるはずだ。

 月子にそれをされてしまったら、恥ずかしくて、みじめで、死にたくなる。

「もしかして、踊れないの?」

 みじめだ。

 顔を上げないまま、小さくうなずいた。

 返ってきた月子の大きなため息に、びくりと震える。

「もー、しょうがないなぁ。えーと……ユーアー、イーノセーンス、夜に寂しくなるときも~……うん、確かこんな感じだったな」

 純のとなりで、ステップを踏む音が聞こえた。顔を向けると、月子が鏡を見ながら、イノセンスギフトのデビュー曲を踊っている。

「っていってもサビしか自信ないけど」

 動きを止めた月子の顔は、相変わらず冷ややかで不愛想だ。

 今の純には、月子がなにを考えているのかわからなかった。知るのが、怖かった。

「ダンスの振り付け、動画にとってない? 見せてよ」

 手を差し出す月子に、純は首を振る。

「は? なんでよ?」

「だ、だっで……」

 声を出すと同時に、涙が零れ落ちた。

 年下の女の子の前で泣くとは情けない。純もわかっている。それでも、涙が止まらなかった。

「ダメだって、言われたから。流出しちゃうからって」

「いや、別にそんなつもりないし。教えてあげるから。ほら、見せて」

 純は首を振る。

「撮ってない。だめって、言われたから」

「じゃあどうやって練習すんの?」

「わ、わかんない……」
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