犠牲にしてまでやりたかったこと
文字数 2,607文字
「月子が腕を切って家から出てきたところを、あろうことか記者に目撃されて通報されるって……なんなのそれ。どういう状況なの?」
社長室に、圧のある声が響く。ソファに座る社長は、こめかみに指を当てながら正面をにらみつける。
正面のソファに座るのは、月子と平山だ。月子は顔を伏せたまま、何も反応しない。
となりに座る平山は、頭を下げた。
「申し訳ございません。私の力不足です」
「ええ、そのようね」
失望のにじむため息が、平山を突き刺す。
「月子がこんなことをするなんて思わなかったから、びっくりしてるわ」
記者に現場を目撃され、記事も出されてしまった今、事務所全体を巻きこむ大事件となっている。事務所の管理責任や過剰労働が問題視され、その対応を求められていた。
この状況は、とても一個人の問題として処理できるようなものではない。
社長は自身を落ち着かせるよう、深いため息をつく。
「腕の傷は残りそうなの?」
月子は返事をしない。その左腕には、包帯が巻かれている。
平山が代わりに答えた。
「それが……何度か切り付けてるみたいで。すべての傷が完全に消えることはないんじゃないかと……」
「どこの病院でもいいから傷を消してもらいなさい。化粧でごまかせるならそれでもいいけど」
社長は神妙な顔で上を見る。重苦しい空気が続く中、その視線は平山を向いた。
「あのとき、言われてたこと、覚えてる?」
社長の全身から、権威のある圧がにじんだ。返事に迷う平山に、社長は語気を強める。
「言われてたでしょ、会議のとき。なんて言われたか覚えてる?」
「あ、その……」
平山の返事はない。今さらになって、あのとき純に言われた忠告が、頭の中を巡っている。
「あの子は強い言い方をしなかったし、詳細も話さなかった。あなたが自分で気づいて、なんとかしてくれると思ったからよね。……でも、あの子の見込み違いだったのかしら」
社長の言葉が、平山に鋭く突き刺さる。苦虫をつぶすような表情を浮かべ、膝の上に置いていた手を握りしめた。
「申し訳、ございません」
「あの子の予想よりもあんたは無能だった、ってことなのね?」
声は穏やかなのに、言葉は攻撃的だ。平山は返す言葉が見つからなかった。
「……で? あなたはなにか言っておきたいことはないの?」
社長の視線が月子に向かう。
「わたしは心を読めるわけじゃないからね。あなたがなにを考えてるのかなんてわからないのよ」
うつむいていた月子が、顔を上げた。挑発的な目で社長を見すえる。社長は負けじと続けた。
「どこもかしこもあんたの話題で持ちきりよ。『天才子役と事務所の闇』ですって。記者たちはあんたの話を聞きたがって
顔をゆがめて頭をかかえる社長は、疲弊しきった息をつく。
「よりにもよってなんであんたが私の邪魔を……」
「違う。……違うよ……」
突然。月子は鼻をすすりだした。ボロボロと涙を流し、手でぬぐう。
「お仕事がたくさんで、苦しいと思ったことなんて、ない。事務所の人もみんないい人、だから、……でも、平山さんが、私と一緒に仕事したくないって……」
「え……」
月子の言葉に、平山は顔を青くさせる。社長はあくまでも冷静に顔を向けていた。
「わたしは……お仕事好きで、たくさん頑張ろうって思ってて……でも、それなのに、平山さんが、勝手に仕事減らして……」
「いや、それは……」
月子の涙は、平山に反論の隙を与えなかった。
「だって、だって、平山さん、仕事しないで学校に行けって言うの。お仕事好きなのに……歌もお芝居も大好きなのに、取り上げようとするの。……何度もやりたいって言ってるのに、減らして……ふ……うー……」
嗚咽を漏らしながら、体を震わせて涙をこぼす。
「わたし、そんなに、頑張ってなかった? そんなに私と仕事したくないの? 私より、
「ちがう! そんなこと……」
「がんばってるのに、勝手に仕事減らされるし……そんなことされたらもうわたし、必要ないのかなって、なんか、もう、がんばれなくなっちゃって……歌も、演技も、楽しく思えなくってぇ……」
泣き止まない月子を見つめる平山は、言葉を失っていた。平山が今までに見たことのない月子だった。
平山と月子の姿に、社長は薄い笑みを浮かべる。
「……いうこと聞かなきゃ、世界中の週刊誌にあることないことしゃべって、本当に自殺しそうな勢いね」
月子の濡れた瞳が社長に向いた。体を震わせながらも、その目つきは鋭く、意志の強さを感じさせる。
「月子が感情的になって自分の体を傷つけるくらいだもの。……見限られたわね、あなた」
平山は、この世の終わりとでも言いたげな表情でうつむいていた。優秀で大人しかったはずの月子にここまで言われるのは、ショックが大きい。マネージャーとしての自信も急速に下がっていく。
「月子、あんたの話はよくわかったわ。でも今年度まで我慢してちょうだい。新しいマネージャーを探すのも、時間がいるの。あんたに合う人なんてめったにいないんだから」
「でも平山さんが……。それに、たくさん、迷惑かけちゃったし……」
目を伏せる月子の姿に、社長は短く息をつく
「今回の件、週刊誌の問い合わせには応じるわ。過剰労働については認められないけど、月子の意思に沿って仕事をさせていくってね。行き過ぎた批判の記事には名誉棄損も考える。だから」
先ほどよりも温かみのある声を、月子に向けた。
「化粧だろうと手術だろうとなんとかして仕事は続けなさい」
月子は涙をぬぐいながらうなずく。
「普通なら、腕に傷があると価値が下がるものだけど、あんたは大丈夫。傷すらも利用できるでしょうから。……それから、平山マネージャー?」
社長は厳しい視線を平山に向ける。
「わかってるわよね?」
「……はい」
「年度末ぎりぎりまで時間をあげるわ。なんとしてでも挽回なさい」
平山は青白い顔で、ぎこちなくうなずく。
「あんたはすでに失敗してる。マイナスからのスタートよ。私としては、できればあんたも手放したくないの。……今回の責任をあんた一人に押し付けて消すなんてことは、ね?」
月子の時とは違い、声には圧がある。平山は迷いのある表情を浮かべながらも、うなずいた。
となりで、あきれたように鼻を鳴らす音を聞きながら。