なんとかの威を借るなんとか 2
文字数 2,182文字
「は?」
あとは、カバンを持って部屋を出るだけだ。支度を済ませた純は、熊沢に向き直る。いつもよりも落ち着いた、薄い笑みを浮かべて。
「ああ、すみません。途中でさえぎってしまって。次に同じようなことがあったら……なんですか? 続きをどうぞ?」
このときばかりは、熊沢の感情的な怒りに負けなかった。負けるつもりもなかった。
熊沢は鼻を鳴らし、純を指さす。
「そのときはおまえがグループを辞めさせられるかもしれないんだぞ? せっかくメンバーに残してもらってるってのにそれでいいのか?」
「はい。別にそれでもいいです。俺、アイドルに向いてないみたいですし」
これまでにないほどの静けさで、空気が張り詰める。
できるものならやってみればいい。願ったり叶ったりだ。
純がアイドルになったのは社長の意向だ。熊沢ごときに、あの社長を納得させる力はない。純を干す権限が熊沢にあるとは、考えられなかった。
鼻で笑って続けようとする純だったが、大きい破裂音に遮られる。
「いっ……」
誰も、声を出さなかった。物音ひとつ聞こえない。メンバーもスタッフも、純と熊沢に青白い顔を向けていた。
肩で息をするマネージャーの前で、純は頬に触れる。みるみるうちに赤く腫れていく頬は、熱を帯びていった。
「おまえ今年に入ってから生意気だぞ! まだデビューして一年しかたってないくせに! もう大物気取りのつもりか! 社長にもあんな口たたきやがってよ」
純の鼻から血が流れ落ち、服を汚していく。着替えていてよかった。衣装だったら買取になる。
そんなことをぼんやり考えている純に、空が近づいてティッシュの箱を差し出した。この空気の中、勇気を出して駆け付けてくれたのだが、純はそれを手で制す。
「良かったです。このくらいで済んで。もし、グーで殴られてたら、鼻を骨折したかもしれないですね」
淡々と、無感情に、声を出す。
「そんなことになったら病院に行かなきゃいけないし、仕事を休むために診断書も出さなきゃいけないですからね。……それに、マネージャーがタレントを殴ったら、さすがに解雇されちゃうでしょ?」
もし、純が千晶だったなら、こんなことにはならなかっただろう。ずきずきと痛む頬に触れながら、純は笑った。
「で、俺が叩かれた理由を簡潔に教えてくれますか?」
おぞましいほどに冷静な声だった。止まらない鼻血も相まって、異様な空気を漂わせている。
熊沢の顔色も、だんだん悪くなっていった。
「この顔どうした? って聞かれたら、ちゃんと理由を答えなきゃいけないでしょ? 先輩とか仕事先の人とか、もちろん社長や両親にも」
熊沢よりも先に、となりにいる空が声をあげる。
「そんなこといいからはやく血、とめないと! たたかれたところも冷やさないと!」
ほら、とティッシュ箱を押し付けるが、純は
「わかってます。怖いですよね? だって普通はたたいた時点でクビだから。俺に理由があったとしても、暴力沙汰を起こしたほうの負けですから」
純のすべてが、冷ややかだった。顔も声も言葉も態度も、それまでに熊沢へみせる姿とは、全く異なっていた。
「気が気じゃないんでしょ? 俺と社長、仲がいいから言いつけられるんじゃないかって。こないだの会議、俺の話もちゃんと聞いてくれてましたもんね、社長」
スタッフがざわつき始める。たくさんの焦燥感を肌で感じ取りながら、純は堂々と続けた。
「でもあのとき、俺は熊沢さんの悪口なんてひとつも言いませんでしたよね? 当たり障りのないことしか言いませんでした。それとも言ってほしかったですか? あのマネージャー、さっさとクビにしてくださいって」
顔をゆがませる熊沢に、純は短く息をつく。はっきりと開いたキツネ目は圧を放ち、熊沢をとらえてはなさない。
「安心してください。この件は誰にも言いませんから。俺以外の誰かが言うことも、ないでしょうし」
この場にいるスタッフたちは、居心地が悪そうに純から視線をそらしている。どうする? と、となり同士で顔を見合わせている者もいた。
それは、メンバーも一緒だ。
「謝ってもらわなくても結構です。……ほんとうに、もう、どうでもよくなったので」
空が持っているティッシュ箱から数枚引き抜き、鼻血をぬぐう。
純はもう、視えていた。熊沢の未来が。
たとえ今回の件を社長に伝えなくても、いずれ純の前から消える。それをわざわざ熊沢に教える義理はない。
純は顔についた血をティッシュで拭きとりながら、ふらふらと歩いた。向かうのは、収録前にトイレに行くと告げた、あのスタッフのところだ。
「顔、洗いたいのでお手洗いに行きますね、スタイリストアシスタントの山本さん。ちゃんと、伝えましたからね」
スタッフは目を見開く。
「三回目は、ありませんから」
純は背を向け、ドアに向かっていく。
「あ……それくらいなら、こちらでやりますよ」
ヘアメイク担当のスタッフが、鏡の前でそそくさと準備をする。
純が社長と懇意なのを知り、変なことを言われてはたまらないと思っているようだ。
純はにっこりと笑って返す。
「結構です。俺のためにわざわざ準備してもらうのは、心苦しいので」
スタッフたちの反応も、熊沢の反応も、もうどうでもいい。
興味がない。
彼らのために何かしようとも思えない。
純は静かに、楽屋を出ていった。