きみの優しさは嬉しくて痛い 1

文字数 1,978文字




 母親が連絡を入れ、事務所は受験期間中の休みを認めてくれた。純のサポートを約束していた社長が、断るはずもない。

 しかしイノセンスギフトに関わるスタッフの全員が、納得しているわけではなかった。熊沢もそのうちの一人だ。

 事務所の会議室で、熊沢とイノセンスギフトはテーブルを囲むように座る。熊沢が純の休止について報告した。

「……で。今後は高校受験で星乃純は休む、と」

 斜めとなりに座る純に、顔を向ける。

「試験が終わったら戻ってくるのか?」

「はい」

「どこ受けんの? 」

「私立の輝優館(きゆうかん)に」

 メンバーの視線が一気に純へと向いた。ある者は目をぱちくりとさせ、ある者は口元を手で押さえている。

 聞いたことのある学校名に、それぞれが驚愕(きょうがく)していた。

「ふぅん……? おまえアイドル活動より勉強のほうが大事なんだ?」

 熊沢の言葉に、会議室の空気が瞬時に冷え込んだ。

 純は反論しない。志望理由を、わざわざ説明することもない。ただ、この空気と熊沢からの威圧にじっと耐える。

「やっぱりおまえは甘ちゃんだな。メンバーは仕事優先で工夫しながら勉強してるってのに。おまえだけ休みとっちゃうんだ?」

「すみません」

 反論して無駄に労力を使うより、流すほうが楽だ。熊沢の気が済むまで、耐えればいい。

「ていうか、仕事休んでまでそこに行く価値あんの?」

 どう答えようと一緒だ。熊沢からは悪意しか感じ取れない。

 ただ、困らせたいのだ。中学三年生である純を、三十路近い男が。

「グループの中で一番頑張らなきゃいけないのはおまえじゃないの? ダンス踊れないからって勉強に逃げるんだ?」

「すみません……」

「一番できてないくせに勉強優先って……。おまえのせいで前倒しになった仕事もあるんだぞ。そうだよなあ? 」

 熊沢の声掛けに、メンバーは反応に戸惑っている。視線を下げ、刺激を与えないようじっとしていた。

「ほんと自分勝手だよな。みんなのことなにも考えてない。よかったな、おまえの親が芸能人で。じゃなかったらとっくにクビだぞ?」

「……そうですね」

「休ませてくれるスタッフに感謝しろよ。あと、みんなにも。まあ、おまえがいないほうがこっちはやりやすいんだけど」

「はい。ありがとうございます」

 笑みを浮かべながらも、膝の上では震える指をぎゅっと握りしめていた。

「いいじゃん、輝優館(きゆうかん)。受かったら超エリート」

 つやのある声が、重々しい空気を引き裂いた。声の主は、要だ。頬づえをつき、どこか気だるげだ。

「めっちゃ勉強しないとじゃん。休むからには受からないとね」

 熊沢とは違う善意ある言葉だ。

 純は朗らかにほほ笑んで、会釈した。



          †



 熊沢の言うとおり、グループの仕事は可能な限り前倒しとなる。

 朝のニュース番組のインタビュー、雑誌撮影、音楽番組でのパフォーマンス、先輩の冠番組の出演……。九月は常に忙しい。純はイノセンスギフトのメンバーとして、ギリギリまで仕事をした。

「あ、純、明日から休みなんだよな?」

 事務所の裏口にいた純のもとに、空が笑顔で近寄ってきた。

 この時期のこの時間、外は薄暗い。事務所の裏口に残る他のメンバーは、スマホを見ながら親の迎えを待っている。

 就業を終えたマネージャーはすでに自分のデスクへ戻っていた。

「もしかして電車移動? よかったら一緒に帰るか?」

 空は嫌みのない顔で純を見あげる。その瞳は、無邪気な子どものようにキラキラしていた。

 申し訳なく思いながら、純は首を振る。

「ごめんね。社長によばれてるから、いかないと」

「あー……それは、しょうがないな」

「ごめんね。またね」

 笑顔で空に手を振った純は、事務所に入る。エレベーターを使い、社長の部屋に向かった。

 と見せかけて適当な階に降り、トイレに入る。個室に閉じこもり、通学カバンを抱き締めながら、ため息をついた。

 トイレは静かだ。個室に閉じこもれば、ちょっとした話声は聞こえてもいやな視線を感じることはない。

 以前のように会議室に一人でいることは許されないのだ。たくさんの人の目に声、感情が渦巻くこの事務所で、純にとってはトイレが一番マシな場所だった。

「ほんっと、やっと目障りなのが消えたって感じだよ」

 聞き覚えのある声。純はとっさに息を殺し、気付かれないようにする。

「受験勉強で休み取ったってだけだろ」

「いや、マジでもう戻ってこないでほしい。空気読んでこのまま辞めてくんないかな」

 熊沢ともう一人。おそらく別のタレントのマネージャーだ。

 純はよりにもよって、マネジメント部門が入るフロアに降りてしまったようだ。

「デビュー会見で父親の名前使ってでしゃばろうとしてたし。けん制したからそれ以来なにもしてないけど」

「会見、見てたけどさぁ。そりゃ聞かれたら答えるだろ。それに返しも申し分なかったし。うまく育てたら化ける可能性あると思うけどな」
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