彼女が自分を殺してないはずはない

文字数 4,709文字

 次の日の木曜日、辺利は朝会社に電話して有給休暇を取ることにした。知輝君と二人で、智美のお母さんと沙紀ちゃんを病院に連れて行くことにした。
 智美の家について、女性二人に簡単に事情を説明する。毒ガスを吸い込んだので危うい状態であったが、とりあえず小康状態で生命の危険はない、とかその程度だが。
 知輝君の茹で塩豚からの推理をもとに、智美のお母さんに、少しだけ確認してみる。豚肉に塩が擦り込まれた後に、智美に携帯ないしは固定電話で外部からその後の行動のトリガになるような情報はなかったのか?
お母さんはやけに落ち着いて見えるが、逆になにをどうしてよいかわからずにフリーズしているだけかもしれない。
「ゆうべ、智美さんが出かけるちょっと前くらいに、どこからか彼女に電話がかかってくることってありませんでした?」
「ありませんでしたよ」
「智美の携帯が鳴ることも?」
「ええ。」
「すいませんでした。どうぞ出かける準備をしてください」
 家にいた時点での外部からの連絡が自殺の動機になったという可能性はなさそうだ。
 お母さんとの話が終わると、横で聞いていた沙紀ちゃんが辺利のほうへ寄ってくる。もう辺利と智美が知り合った頃の年齢になっているのだ。目が大きいところは母親にそっくりだが、あの頃からあった智美のおばちゃん的明るさの代わりに、むしろ文学少女的繊細さが伝わってくるのは父親譲りなのだろうか。小さな声で尋ねる。
「辺利さん、母は毒性の気体を吸い込んで危篤になったんですよね?」
「う、うん」
「それって、お仕事で使っていた、ってことですか? 昨日母が出かけた後でそれが起こったんだとしたら、時間として遅すぎるように思うんですが」
「いや、別に仕事で使ってたわけじゃないよ」
「あと、その毒ガスって、『塩素ガス』とか『青酸ガス』とかじゃないですよね?」
「どうしてそれを? 多分『青酸ガス』に分類される気体だよ。」
「もう一つ教えてください。お仕事じゃないって聞いたんで、私もちょっとどういうことなのかわからなくなっているんですけど、そのガスを扱ったりするのに、バケツや如雨露やスコップを使うことなんか……ないですよね?」
 辺利と知輝君は顔を見合わせる。
「沙紀ちゃんに何か言った?」
「ううん、全然。辺利さんは?」
「昨夜の件からこっち初めて口きいた。沙紀ちゃん、今朝方、律おばさんとか誰かお母さんの知り合いから電話とかあった?」
「連絡は誰からもいただいてません」
「じゃあ……沙紀ちゃん、なんでそんなことを知ってるんだ?」
勢いこんで尋ねる辺利に、彼女はちょっと後ずさったが、背中に回した手に持ったものを差し出した。ピンク色の表紙にビニールカバーのかかった薄い手帳。
「これ、お母さんの手帳なんです。昨日の日付の欄を見てください」
 一月分を見開きのカレンダー様の日単位表示に使って十二か月分が終了すると、続いて見開きで週単位の記載欄があり、タイムスケジュールか細かい書き込みができるようになっている。智美がこれを持ち歩いているのは、辺利も見たことがある。全体的に書き込みが少ないのは、智美がうっかり家に置いて会社に来たり、会社に来ても車の中に置いたまま事務所に行ってしまったり、逆に家で使おうと思ったときは会社に忘れたりしてきてるせいだ、と以前本人に聞いたことがある。手帳を使いこなせる人ではなかったわけだ。
 さて、昨日の日付、詳細が書き込める部分を見てみると、まず「決行!」と書き込みがある。続いて、「青」という字と「塩」という字に丸がつけてあり、矢印を引っ張って「危険、注意」と書いてある。
「これを見て『青酸ガス』か『塩素ガス』じゃないか、と思ったんだね?」
「ゆうべうちのご飯、葉物系の野菜出てませんでしたし」
 なるほど「青菜」と「塩」かなとまずは考えた訳か。中学の頃智美が、塩素と水素が反応したら味噌汁になる、とテストに書いてたことを思い出す。化学用語から何故か料理のことに連想が湧く智美の不思議な思考パターン、遺伝してないよね、沙紀ちゃん? すぐに青酸ガスとか塩素ガスにイメージがシフトしたみたいだから大丈夫かな。さて、実際にはこの書き込みは「青酸ナトリウム」と「塩酸」を意味するのだと考えると、不本意ながら昨日の状況には合致する。
 続いて「プラスチックのバケツ」「じょうろ」とメモは続く。金属バケツだと塩酸と反応するかもしれないので限定記載したのだろう。ちょっと離れて思い出したように「あとスコップも」と書いてある。
「沙紀ちゃん、これ、何処に?」
「昨日一日、私が学校に持って行っちゃってたんです」
 来春の学年持ち上がりに関して、またそれに伴って新年度開始早々に行われる修学旅行での事前準備を始めるための確認事項等、昨日は学校に提出する保護者が記入する必要のある書類の類が結構な量あったのだという。
「それでお母さん、書類をまとめて袋に入れてくれたんですけど、その中に間違えて手帳まで入れちゃってたらしくて」
 三者面談の日程の都合を問い合わせる書類とかもあったので、手帳で日時を確認しながら記入して、その後書類の山の中に紛れ込ませてしまったらしい。智美らしいと言えばらしいのだが。そして沙紀ちゃんはそれを学校で見つけたのだが、家に帰ったあと、機会がなくて智美にそれを返すことにないまま、彼女は夜の外出に出かけたのだという。
 しかし、それだと。昨日一日この手帳は沙紀ちゃんの手元にあった。ということは、智美がこの書き込みをしたのはそれ以前のことだ。少なくとも一昨日の時点で智美は青酸ナトリウムと塩酸、如雨露とバケツ、スコップを忘れないように準備するつもりでいたことになる。つまり自殺を計画していた、と?
 まずは智美と自殺、というのがいまだにどうしても結びつかない。一体、何があったというのだ? 
さらに。知輝君の「茹で塩豚と柿ピー理論」と真っ向から対立してしまうことになる。それによれば、智美は少なくとも家を出る直前まで自殺など毛頭考えていなかったというまとめになっているのだから。でないとしたら何で死ぬ前に、自分が死んでしまったら仕上げをする人が誰もいなくなる料理の仕込みをする? せめて妥協点を探すとしたら。
「沙紀ちゃん。沙紀ちゃんはもしかして、お母さんに『茹で塩豚』の作り方を教わってないかい?」
「私は、スイーツ類はちょっと教えてもらいましたけど、そういうガッツリ系は……」
「おばあちゃんは?」
「おばあちゃんも駄目だと思います」
 横に出て来ていた智美のお母さん本人も「それは一体なあに?」とか言っている。
 じゃあ、誰が茹で塩豚を仕上げると思って仕込みを始めたんだ?
 他に手がかりがないかと思って、更に手帳を調べてみる。ビニールカバーと見返しの間に、コピー用紙がたたんで入っていた。引き出して広げてみる。
 大きな川の向こう側に高層ビルが三つ四つ並んで立っている写真が目に付いた。ここらへんではとんと見かけない風景だ。
どこぞのホームページの施設案内の類をプリントアウトしたものらしく、写真の下には地図が表示されている。川沿いに水上バス発着場、花の細道、芝生スペース、彫刻の細道等、現地に立つと目を楽しませてくれそうなエリアが並ぶ。右手には名のあるホテル。左手にはおそらくマンション名と思われるオシャレなカタカナ文字の建物。中央に立つタワーの名前、三文字のアルファベットを見て辺利はオヤと思った。
 大阪だ。天神祭で有名なあたり。七~八年前くらいに鳴りもの入りでオープンした複合施設、ホテル・マンションに加えて商業施設・オフィス機能を持つ建物が集約されている。元は日本を代表すると言っていいくらいの某大手金属会社の製錬所だった跡地が、大規模な再開発の結果生まれ変わったのだ。
 さて何故智美がこんな記事を?
「最近お母さん、大阪に行こうね、とかなんか言ってなかった?」
「……いいえ。特に用事もありませんし。うちは旅行するような余裕はちょっと」
「論外だね。」
 と知輝君も言う。
 写真の横に青いボールペンで、斜め上を向いた角度で
「それでも大丈夫!」
と智美の字で書き込みしてある。
 何が大丈夫なんだ? さっぱりわからないぞ。

 居酒屋のテーブルの向こうで、それまできゃらきゃら笑っていた智美が、急に真顔になって声をひそめた。
「変な話するけどごめんね。……ソーダを割る、っていうか薄めるのって何を使ったらいいの?」
 一瞬早口になった部分がよく聞き取れなかった。
「ごめんなさい。聞き逃したわ。何ソーダだって?」
「だから青酸ソーダを……」

 律は飛び起きた。
 過去の出来事を再現したような夢だった。そう、前に智美と二人で飲みに行ったときの。だがあの日、律はなげやりな心理状態だったし、疲れていたのか酔いの回りが早かった。「ソーダ」だとか「割る」みたいな話を確かに智美はしていたけれど、良く聞き取れないながら現実には訊きかえしたりせず、彼女がなにか言うことに適当に相槌をうってすましてしまっていた。
 ソーダ水で割るならどんなお酒があうかしら? みたいな話を振られたように思ったのだ。だがよくよく思い返してみると、今さっき夢で見たように「ソーダを割るないしは薄めるには何がいいのか?」という聞き方だったような気がしてくる。「何をソーダで割るといいのか?」ではなかった、溶媒と溶質、つまり溶かす物質と溶かし込む液体を逆に聞き間違った可能性が高い。続いておそらく酒の席で起こった思われるような内容の話、こぼしたとか周りにぶちまけたとかいう話になったものだから、チューハイなりハイボールなりに絡む話だと勘違いしたのかもしれない。
 とすれば、「ソーダ」とは何ソーダの話をしていたのか?
 青酸ナトリウムは青酸ソーダと呼ばれることもある。水酸化ナトリウムが苛性ソーダとも呼称されるのと同様だ。化合物の名前の中で使われる場合、ソーダとナトリウムは同じものだと考えていい。元の言語が違うだけ。ナトリウムという言い方がドイツ語語源で、英語ではソディウム。それがなにかと化合物になるとソーダ、となるわけだ。
 ちなみに炭酸水のことをソーダ水、とか言うのは、その昔炭酸水を作るときに重曹を使っていたときの名残らしい。重曹はすなわち炭酸水素ナトリウム、その別名が重炭酸ソーダ、全部漢字をあてると重炭酸曹達、それを略して『重曹』となったわけで、要は重炭酸ソーダで作る水、という意味で「ソーダ水」になったという。今や「水」が抜けて「ソーダ」だけでも炭酸水の意味になる。回りまわって略語の影響もあって面白いことになっているものだ。「メロンソーダ」と言ったら本来の意味しか知らない人には、メロンとナトリウムの化合物? と誤解されたり……はしないか。
 もしかしたらあの時智美は本当に―夢の中のように―「青酸ソーダ」と言っていた? どうもそんな気がしてきてしかたがない。律の不安はどんどん膨らんできた。
 智美はあの頃から自主的にあの行動、つまり自殺を計画していたのか? 化学のことだから私に詳細を聞きたかったが、集中力のない酔っ払いに成り下がった私がおかしな反応しかしなかった、それでも相談内容が相談内容で、冗談のように訊くならともかく、何度も訊きかえすのはためらわれたのかもしれない。
 つまりあの時私がしっかりしていたなら、彼女がこんな目に遭うのを阻止できたかもしれない?
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