彼と彼女は恋敵

文字数 6,196文字

「あのね」
「何?」
「……やっぱりいいわ」
「なによ。気になるじゃないの」
 下手なドラマの一シーンか!
「じゃあ言うけど……別に自慢したいとかそういうわけじゃないのよ。気を悪くしたらごめんね」
「聞いてみなきゃわからないけど」
 彼女はすうっと息を吸い込んだ後
「プロポーズされた」
 なんとなく予想はできたので、それでも受けたショックを悟られない程度のクイックレスポンスができた。
「ああ、それは確かに全然自慢にならないわ。あれでしょ、辺利? まじめにそんなこと言ってくるとは身の程知らずもいいとこだわ」
「律っちゃんは昔から彼には厳しいね。そんなにひどいかな。見てくれはともかく、色々ひっくるめて見たらそんなに悪くないと思うけど。あ、のろけじゃないよ。こんな私にそう言ってくれるのは、むしろ有り難く思わなきゃいけない立場なんじゃないか、なんて思ったりするの」
「見てくれはよくないのがわかってるだけましか。でもね、やっぱり智美の感覚がちょっとおかしいのよ。バランス的には胸を張って拒絶していい。もういい歳なんだから少しは見る目を養わないと」
「いい歳なのは、まあ確かにそのとおりなんだけど」
「それで? どうするのよ?」
「歳のこともあるし、それを置いてもちょっと今さら。昔あの人にひどいこと言っちゃったし」
 ぼんやり聞いたことがある。前のダンナが犯罪を犯し、拘留中に自殺した。裏切られたという想いで混乱していたところに、実はそれは全て彼女のことを考えてくれていたためだったという可能性をあの男は伝えに来た。ダンナの自殺を知らない彼は、出所するまでの彼女と子供たちへのサポートを申し出たという。混乱に拍車がかかった彼女は、かなりきつい言葉を彼に向かって投げつけてしまった。そしてそのことを今でも悔やんでいる。
「それでもいいと思うから今またそんなこと言ってきたんでしょ。別に結婚して手元に置いてから、ネチネチ復讐してやろうとか思ってないんじゃないの。そんなに記憶力良くないわよ、あれ。」
「だろうけど。だけど、今そんなこと言い出したの、今度のあの件があるからだろうと思うのよ」
「まあ、そうだろうね。もし智美がここを動けないなら曖昧にしておいたらお別れってことだし」
「あの人のことは置いておくにしても、私自身が転勤に応じられるかっていうと……確かに今の職がなくなったら収入面ではかなりつらい。でも子供たち、というか下の子のこと考えると、せっかく学校に行けるようになったのにここで転校ってのはちょっと。母だって今動かすのはどうかな、とも思うし。」
彼女はため息をついた。
「律ちゃんも、行っちゃうの?」
「そうするしかないかなあ。まあ、前の会社辞めて、っていうか、辞めさせられてからいくらも経ってないからねえ」
 大学でも一生懸命勉強していい成績をとり、あこがれの大手の化学会社に就職したが……あそこのリストラはえげつなかった(状況は違えど、ここはまだ生ぬるいほうかもしれない)。特に郷愁もないがなんとなく故郷の近くで職を探したら、ここが見つかった。条件は前の会社とくらべものにならなかったが、入ってみたらいいこともあった。
 彼女がいたのだ。中学校のとき好きだった女子。
 あいかわらずだったので、昔みたいに好きになった。まあ、実る恋じゃないんだけどね。彼女はノンケだし。
 そばにいられるだけで良しとするか、それ以上どうにも進められないし、と思っていた。そこへこの騒ぎだ。彼女が本当にここを離れられないとしたら? こんな恋のために生活の糧を投げ打つわけにもいかない歳かもなあ、と諦めていた。
 律は、自分がどうにも辺利という男のことを好きになれないのは、結局は恋敵だからなのだと思う。同じような状況に陥ったあいつは、玉砕覚悟で切り札を切ってきたわけだ。全く男というやつはずるい。私にはその切り札さえ与えられない。

 智美のほうから居酒屋に誘ってきた。彼女は結構な左党なのだが、母子家庭であまり贅沢もしていられないせいか、珍しいことだった。しかも誘いに来たときの表情が妙に切羽詰まった感じだった。
 この話をするため?
 だがプロポーズの件は、多少の間合いはあったが、思ったよりすんなり告白された。それに対してどうしようという相談も特には始まらない。
 律の方が、今聞いた話で気もそぞろだった。引き続いてどうでもいいような話を少しされたが、さっぱり頭の中に入らなかった。ヤケ酒という意識もなかったが、少しピッチを上げ過ぎたせいかもしれなかった。
誰だかが考えたリストラに対抗して今の職場を守るための方法、とかのへんまでは憶えているのだが、話はだんだん「……ソーダを何かで割るとしたら何がいい?」とか、柿ピーとスルメだけで際限なく酒を飲む彼女らしい方向に逸れていったようだった。何がいいにもウイスキーなり焼酎なり好きな酒を割って飲めばいいじゃないか、とだんだん投げやりな気持ちになってきて、上の空でいい加減に返事をした。「それを回りにぶちまけちゃって、そこらじゅうを汚して……」とか酒の席の武勇伝(か?)には「まあいいんじゃない、それくらい。多少迷惑かけても死ぬわけじゃないし」とか何も考えずに適当に話を流した。
 不思議なのは、むしろそんな話をするときの彼女の表情のほうが、誘いに来たときと同様、どこか追い詰められた表情で、回りに聞かれるのを警戒するような低い声で話すことだった。必死になって場を盛り上げようとしてくれてた? 別にそんなに気にしてくれなくていいし、小声で言われるとよく聞き取れない。なんか変だな、とその時は思っていたのだが。
 だが、彼女の意図は全然別のところにあったのだった。真剣に話を聞いてあげていれば良かった、と律は後から後悔することになる。
 
 話は遡り二○○六年の晩秋のこと。
「もう、京? また? 何なの? どういう偶然なの?」
 いや、本当にどうなっているんだろう、こっちが知りたいくらいだ。
 中学校の頃の同級生、智美にまた会った。
 特に意図して追いかけているわけではないのだ。もちろん心の奥では会いたい、とは思っているし、会えばまあ……ずっと一緒にいたいとか、そういう想いに陥るのだけれど、結果的に離ればなれになってしまう。
 最近では、六年前に、もう二度と会いにこないで、と宣言された。
 諦めの良い辺利京は、そういう別れの度に少しだけ傷つきながら、彼女を記憶の隅っこに押しやるのである。忘れようとして、あるいは男の性として、別の女性となんとかしようともするし(今のところ長期的な成功をみたためしがないのだが)、適当とはいえとりあえず仕事をするとか、知人と飲み歩くとか恋愛以外の日々の生活にかまけているうちに、彼女のことは酸っぱさと苦さの混ざった「思い出」に変わってくれる。だが。ようやく思い出すのも稀になったときに限って。
 また会ってしまうのである。
 これは前世の報いとか何かで自分の人生に課せられた拷問の一種か? と思うくらいだ。
さて、なんでこんなに職場変わるの? と同期からも感心される辺利である。基本「できる奴」ではないし、職場の人員縮小が計画されると真っ先に放出対象としてリストアップされる方だ。今回の辞令は系列会社への出向。
その出向先の会社の工場内で着任の挨拶まわりをしたとき、智美は天井からチェーンで吊るされた「製造課」という白いプレート下、六つほどの机の島の後ろのほうの席で顔をあげた。生真面目な表情のままだった。そのときは課長さんの横に立たせてもらって、これからよろしくお願いします、とメンバー全員に平等に笑顔をふりまかいたつもりだ。よく平静でいられた、と自分で自分を褒めてあげたい気分だった。
翌日廊下ですれちがったとき交わした、最初の一言である。
「もう、京? また? 何なの? どういう偶然なの?」
 廊下の向こうから来る彼女と視線があったとき、顔を背けられるとか、最悪の場合に引き返されるとされるんじゃないか、という懸念が当たらなくて良かった。智美はにこにこしながら話しかけてくれたので、辺利はほっとした。二度と会いに来ないで、という規制は、六年の歳月を経て緩和されてきているらしい。彼女の心の傷が緩和されているかどうかはわからないが。
「だけど昨日はびっくりしたよ。心臓が止まるかと思った」
「あら、そんな気配は微塵も見えなかったわよ」
「この年になるといろいろ揉まれてるからね。その割に仕事の能力は身につかないけど。そっちこそ無表情だから、俺のこと忘れてるかと思ったよ」
「まさか。転勤を伴う異動でしょ? 本人が来るとっくの前に、掲示板に異動情報は貼り出されてるのよ。その日のうちにびっくりし尽くしちゃったわ」
 智美はフフフと笑った。
「まさか知輝の希望とおりになるとはね」
「何、知君がどうしたの?」
「いいえ、別になんでもないわ。それにしても、京がこんなところに来るなんてねえ」
 それに関して驚いたのは辺利も同じだ。
 そもそも就職した時点で、こんなに故郷に近いところを職場にすることなどあるとは思っていなかった。
入社後最初は、通信関係の事業部配属になった。それほど大会社なわけではないが中途半端な規模で、しかもいくつもの会社が何十年もかけてくっついてできたきた経緯もあり、全社的な情報の風通しは良いとは言えない。今回出向受け入れしてもらったこの会社は、産業向け製品を扱う、通信関係とはまた別の事業部に管轄される関連会社で、社内の事情に敏感にアンテナを張り巡らし情報収集しよう、というような気持ちがこれっぽっちもない辺利は、ついこの間までその存在さえも知らなかったのである。
 通信の事業部内を次々とたらい回しにされて。しかもだいたいいつも、これから伸びる事業だから人を集める、というタイミングでメンバーに組み入れられ、結果が出ずに縮小されるとき放出人員としてカウントされる、というサイクルを何回か繰り返すうちに、事業部の中に行ける部署がなくなってしまっていた。会社が切り捨てた事業が多くなりすぎたわけだ。
結果が事業部越えの人事、しかも出向である。この関連会社自体はそんなに大きな会社ではない。設備投資も控えられ続けてきているらしく、埃と油で見えにくくなっている装置の銘板をようやく読み取ると、納入日が三十年近く前だったりする。工場外壁はところどころひびが入っているし、屋外にあるトタン屋根が錆びついているトイレで用を足しながら周りを見ると、木製の部分は黒ずんでちょっとひっぱったらはがれそう、と色々古びた感じがしないではない。それでもこの会社は―増員を受け入れられる余裕があるという意味で―相対的かもしれないがグループ内でまだ成長が見込める分野を担っている、ということだろう。
辺利も最近、社会人としての自分の無能さを直視せざるをえなくはなってきているが、ある意味無能であるがゆえに、たらい回し状態とはいえなんとか会社に残っていられるという皮肉な事態である。彼は同期入社の中で最も出世が遅い。それが故に今のところ首を切られずにすんでいる。
 同期でたった一人管理職ではない、すなわち労働組合の組合員であるから。
 管理職にあがった仲間のうち、運の悪い者、上司受けの悪い者は、早期退職募集というイベントがあるたびに、一人二人減っていった。上積みされた退職金を持って早く逃げ出したほうがまし、と先を見切った者もいたようだが、組合の加護(?)もなく、問答無用で切り落とされた奴もいたはずだ。赤字決算になった場合にはリストラと組み合わせで発表しないと株価が激下がりするからなのか、最近は半年毎にこれがくる。いつの日か四半期サイクルにならないことを祈るのみだ。
 これでも現状は分類すれば「好景気」なのだというから恐れ入る。「実感なき景気回復」のようなことが言われるので、世間一般でもご利益にあずかっている人は少ないのだと思うが、辺利のいた会社は構造的に、衰退していく定めの事業が多かったのだと思う。極端に巨大化して生き残ったところはいいが、業界内で中途半端なポジションしかとれない企業は淘汰されていくのみ、というご時世に乗り遅れているのだ。
 
 まあともかく、首がつながった上に、智美と再会できたのだから、(これが拷問の続きだとしたら良し悪しは微妙なところだがとりあえず)よしとしよう。
「ああ、知ってる? この会社、同級生他にも勤めてるのよ」
「本当?」
「実家から地道で四十分くらいだからね。頑張って通ってる人も、ここで家を持った人もいるみたい、って、個別で紹介するより一括りで呼んだほうがわかりやすいか。『シテンノー』よ」
 おお、大山孝昭・中川弘文・小田淳仁・並岡安徳か。いつもつるんでた四人で、辺利が内々に「シテンノー」と呼び始めたので、みんないつか「四天王」だと思って多少の違和感がありつつその呼称を使っていた。実は下の名前が歴代天皇の名前になっているだけで、実際には「四天皇」くらいの意味だったのだが。
「正確に言うと一人は社員じゃないんだけどね。時々会社に来るよ」
「誰?」
「ええとね。小田君」
「小田淳仁か」
 四人の中でも一番低身長で、一番お調子ものだった。
「何やってるかわかる? シテンノーの一人は何してんの~ ? とか」
 ……沈黙。
「智美さ、そういうこと言う人になったわけ?」
「ちがう、ごめん。小田君っていつもそんなことばっかり言ってたじゃない。そのこと思いだしたから」
 智美、今日は少しテンション高いんじゃないだろうか?
「さてな? 出入りの業者さんかなんか?」
「全然ちが~う。多分絶対当てられないよ」
「食堂のおっちゃんとか、掃除のおっちゃんとか?」
「それだってある意味出入りの業者さんじゃない。違う」
「そんならお客さん?」
 結構大会社の人なんだな、と思ったがそれも違うと言う。
「正解はね、彼、お医者さんになったのよ。」
 え~、という感じだった。そんなに成績……良くなかったよな?
「京、なんか過去の優越感打ち砕かれてるでしょ?」
「……いや、別にそんなわけじゃないけど。」
「男子三日会わざれば括目して見よ、てやつね。それで、この近所の開業医の娘さんと結婚して。苗字変わってないから完全なお婿さん、ってわけじゃないんだろうけど、その家に住んでる。うちの会社の産業医の先生やってもらってるから、月例の安全衛生委員会のときはいらっしゃるわ」
 昔と全然変わらないわよ。安全衛生委員会の産業医のコメントの場面でも下らない駄洒落を言うから、総務課長とか苦虫噛み潰したような顔してる、とか。
「あと、律ちゃんもいるんだよ。社員でね」
 律……律……ああ、守山律か。あの怖い娘。
「これだけ揃ったんだから、社内同窓会しようか。みんなに声かけとくね」
「あ、いや~、でもずっとあちこちふらふらして、クラス会も出てないし。不義理してるからな~」
「あのシテンノーがそんなこと気にするわけないでしょ。大歓迎してくれるわよ」
 え、と。じゃあ、守山律は?
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