巨大蟹は人間の靴を履くか?

文字数 6,977文字

「消えちゃった、って、車が一台丸ごと? 一体どこによ!」
「わかんないよ。四次元空間に落ち込んでしまった、とか」
 その発言は無視して智美は少し考えていたのだが、当然まず考え付くはずの結論にたどりついた。
「いや、ちょっと待って、違う。違うわ。その足跡とタイヤの跡ってここに入っていった跡じゃない。反対よ。ここから出ていった跡なの。重さんがお父さんがここにいるのを見たのは、もう三時間も前のことよ。その時はまだ雪が降る前だったのよ、きっと。そして車をこの場所に置いて、四人は家の中に入っていった。それから雪が降りはじめて、降り終わった後で四人は車庫から歩いて出て来て、車に乗って出ていった。それならこの通りの足跡ができても全然不思議はないよね?」
「いや、不思議だよ。智美の言うとおりのことが起こったなら、こんな跡はつかない」
「何わけわかんないこと言ってるのよ、ぶつわよ!」
「待った待った。よく考えてみなよ。雪が降る前から車があの場所に止まっていたのだとしたら、タイヤの筋の終点付近、車体の下だったはずの場所は雪が遮られるから、車の形どおりに雪が全然ない部分が残るはずだ。地面が見えてるところ、ないだろ?」
「あ……まあそうだけど。でもそうだ! 雪が降ってる最中にやってきたのよ。ある程度雪が積もってから。そしたら車体の下に雪はもうあるわよね。この場所に車を停めて一旦家の中に入って行く」
「車のタイヤ跡が一筋しかないことを忘れないでね」
「……わかってるわよ! 入って来て停める前に、車は前向きに出せるように方向転換しておく。そのうちに雪がもっと積もって入ってきたときのタイヤの跡、それと建屋に入っていった時の人間の足跡を隠してしまう。乗っていた人たちはその後建物から出て来て車にむかう。車に乗り込んで乗り込んで出ていった。今残っているのは足跡にしろタイヤ跡にしろ、出ていったときの跡なのよ。これなら完璧でしょ?」
 辺利は首を横に振る。
「車の下の雪の問題だけど、あるかないかだけで考えたって駄目だよ。量も含めて考えなきゃ。長時間停まっていたら、その間に降った雪は車体の下には積もらない。周りと比べたら、車の形とおりにきれいに雪の高さに差ができるはずだよ。今の話だと、停車した後、入ってきたタイヤの跡を隠してしまうくらいの厚さに雪が積もった訳でしょう? それ結構目立つくらいの差ができてるはずだけど、近くに行ってよく見てご覧、そんな段差はない。車体の側面は人の足跡とかあってちょっと見づらいだろうけど、車の前面と後面になった可能性のあるあたりでも、雪面はきれいにフラットだよ」
「う……く。」
「それとさあ、重さん、出て行く前に雪は止んでた。みたいに言ってなかったかなあ」
 ボソボソと独り言のような辺利の言葉に気づかずに、智美はまだ一生懸命考えていたらしく
「こんなのどう? 雪がやんだ後でやってきた車が、来たときと寸分たがわない経路でバックで帰っていったのよ。タイヤの跡がぴったり重なって一本に見えてるんだわ」
「何のために? って疑問は残るけどまあいいや。で、タイヤの跡だけどさあ。人の足跡でも来た足跡を完璧に踏んで帰るの難しいと思うけど、車は……無理なんじゃないの?そんなの可能だと思うか?」
 智美も首を横に振ったが一応、二人で遠巻きにしながらタイヤ跡をしばらく並行して観察してみる。直線部だとタイヤの跡が二本に見えるわけだが、これは実は右・左それぞれの前輪と後輪が同じところを踏んでいるわけで、多少ずれたりはしている。前を通る道に出る付近から曲がりはじめていているところで、「内輪差」っていうのだったか、全部のタイヤが通るルートが違ってくるために一本づつの跡が別々にくっきり残っていて
「直線のところも、前輪と後輪がかぶっているのはともかく、それがさらに行きと帰りと踏んだようには見えない。このカーブのとこに至っては絶対二重には踏んでないよなあ?」
「全然ずれたような跡ないわねえ。だいたいカーブでこれほどぴったり四本のタイヤとも同じルート通るように運転するのは無理な気はする」
 タイヤの跡は車道に出ると、両脇に別の別荘が構える中を真っ直ぐに続いていた。冬季の平日の昼間なので、他に通る車もなかったのだろう、二本のタイヤの跡だけが―機械に取り付けられているものだから当然だが―見事に等間隔を保ったままで伸びて行っている。山中にしては珍しくまっすぐな道で、片側で五軒分くらいの建物のさきまで見通せる。その先で曲がって、折り返すような形でこの建物のすぐ下の管理人棟の前を通るということだ。
「寸分たがわず二重になったタイヤ跡を残して往復する、という案も駄目だとすると、いよいよこの車は雪がやんだあと外から入ってきて停まった場所で煙のように消えてしまったか、さもなきゃ京のいう四次元とかからいきなり雪の上に出現して走り去っていってしまった、ってことになるの? どっちにしろ無理なんだけど、入ってきたのか? 出ていったのか? どっちなんだろ?」
 ここで「ああ、なんだ!」と智美は手をたたいた。
「タイヤのことは良くわからないけど、そこから続いてる人間の足跡で考えたらいいんじゃないの? 爪先がどっち向いてるかで。家のほう向いてれば人間は家に入っていった、つまり車は彼らを乗せて『やってきた』んだし、逆なら人間は出ていった、ってことで車はその人たちをのせて『出ていった』ってことになるんじゃない?」
 辺利はため息をついて
「普通の場合だったらそれもいいアイデアかもしれないけど……意地悪くいえば後ずさりしながら歩くことだってできるわけで、意図的に目撃者を攪乱しようとする事情があるなら、それで得られた情報が正しいという保証はないけどね。ただ、そんなことを言う前に、今回のこの件に関しては―結果が正しい正しくないはとりあえず置いておくとしても―爪先の向いてる方法で進行方向を推定しようと考えが、根本的に無理なんだ」
「どういうこと?」
「自分でその足跡の向きをよく見てみなよ」
 言われる以前から智美も近くで見ていたのだが、動転して気づかなかったのだろう。タイヤの跡の終点から点々と家屋まで続いている四人分の足跡は全て、つまさきの向きが進行方向に対してほぼ直角をなしていたのだ。つまり、横歩き。
 智美は真っ青になって叫んだ。
「横歩き? 蟹! 蟹の仕業だっていうの? やっぱりクラブクラブが関わってるの? あそこって蟹の化け物の集まり?」
人間の靴を履いた、巨大蟹? 辺利の頭に浮かぶのは、江戸川乱歩の少年探偵団物「空飛ぶ二十面相」だった。グルグル渦巻き形状の尾を持つ彗星Rが地球付近に現れると、それに呼応したように蟹の頭をした怪人たちがあちこちで悪さを始めるのである。この化け蟹たち、彗星Rからの異星人とも思われ、なんと空までも飛んでおなじみ少年探偵団の面々を翻弄するのである。まさかそいつらがこの場所に現れたのか?
まあ、もしそうだったとしたら、空飛ぶ円盤も操る彼らが、どうして自動車に乗ってやってこなきゃならんのだ、という疑問は置いておくとして。蟹の頭でほぼ人間くらいの身長という設定だったとは思うが、彼らが靴を履く必要があったか、また履けるような足の形をしていたのか、そして実際に履いていたのか、そこらへんの記述もなかったけど。
「あ~、もうわけわかんないわ。出て行ったの? 入ってきたの?」
「もしかしたらその問題は、重さんに訊いたらすぐに決着がつくかもしれないよ」
「なんでよ?」
「僕らが下の重さんの管理棟から上がってくるときに、実はもう目の前の雪の上に足跡がついてたのを憶えてる?」
「憶えてないわよ。あんたみたいに下だけ見て歩いて何が楽しいの?」
「いいことあるかもしれないよ。うつむいて歩こう~、って歌もあるじゃないか?」
「『上を向いて』じゃないの?」
「それは坂本九。『うつむいて歩こう』は愛川欣也の歌。優しさが落ちてるかもしれない~♪、ってね。」
「そんなお母さんとあんたにしかわかんないマイナーな歌の話はいいわよ。その足跡が何なのよ?」
「さっき僕らと歩いてきた時の重さんの靴の跡と同じだった。見比べたら同じだった。この別荘地を出てくる前、三時間ほど前に重さんがつけた足跡じゃないかな? で、よく見るとその足跡は雪で埋もれたりぼやけたりはしていない。もしかしてその時、重さんはその足跡を付けながら上がってきて、智美のお父さんがいるのに気がついたのかもしれないとか思ったりして。彼がどういうふうにお父さんに会ったのか、詳しい話はまだいてないけど……」
「あ~、窓越しに覗いて見たら見えただけなんだって。ちょっと不安になるような話だったわ。後でもう一度直接訊いてみて。」
 嫌なことを思い出したように彼女は黙り込む。そうか。智美はここまで来る車中で重さんと話したんだな。俺は吹きさらしの荷台だったからわからなかったが。
「さて重さんの足跡に戻るけど、下から上がってきてあのボヤをおこした部屋の前まで行って、確かに窓のへんに一旦近づいてから、今度は家にそって表側の方に回って行っていた。屋内車庫のシャッターのほうへ、玄関のほうに向かったさっきの僕らとは逆回りにね。ちなみに言っておくと、家の前のほうから同じように帰ってきて、そのまま管理人棟まで戻っている足跡もあって、一往復になっているんだけどね」
「はいはい、よく見ていなかった私にご説明有難う」
「重さん、ボヤの部屋をさっき『旦那がいた部屋』と言ってたし、だとすればその部屋の窓越しに智美のお父さんを覗き見て、その後、家の前側に回っている、ってことだろうね。今、ここから見ると、タイヤの跡の向こう側に人の足跡が見えない? あれが裏側から回って出てきた重さんの足跡の続きじゃないかと思うんだ。とすれば、重さんは―おそらく三時間前に―家の前の状態が確認できるところまできてる。そしてその時の足跡が雪で埋もれたりぼやけたりしていない、っていうことは、重さんは多分、雪が降り終わった状態での建屋の前がどんな状態だったか目撃してるんじゃないだろうか? そのとき車が停めてあったのか? タイヤの跡があったのかなかったのか、とかさ」
「そうか! 訊いてみよう、訊いてみよう」
 二人で喧々諤々としているところへ、やっぱりどこにも旦那がいねえ、と言いながら重さんが出てきた。
「重さん、重さん。教えて欲しいことがあるの?」
「何だね?」
「車の中で話してくれたような状況で、重さんは一旦ここを出てくる前に、部屋の中にお父さんがいるのを見たのよね。その後、家の表のほうに回った?」
「ん、ああ。表の方、見に行ったかなあ。お客さん、もし一杯いるようだったら、後で御用があるかもしれんで。」
 屋内車庫には車は一台しか入らない。数台の大グループでやってきたのなら、家の前側のスペースに屋内車庫に入れられなかった車が停まってるかもしないから見に行った、という。
「その時、もう雪は止んでたんですよね?」
「そうだよ」
「そして向こう側に見えてる足跡は、重さんの足跡?」
「おお、そうだそうだ。あそこまで来て様子を見て、それから引き返しただ」
「じゃあ。ここからが本当に知りたいところなんです。今、あそこには車のタイヤの跡と人の足跡がありますが……」
「おや、本当だ。なんか変な足跡だなあ、あれ。」
「重さん、三時間前に、重さんが家の前を見たとき、あそこはどういう状態だったですか?あんな跡ありましたか? 車がとまってたとか? それとも……」
 重さんは即答する。
「いや、何もなかった。」
「本当に、何もなかったわけですか?」
「うん。タイヤの跡だろうが足跡だろうが何にもなかった。真っ平に雪が積もってるだけだった。」
「じゃあ入ってきてから消失したパターンだ!」
 自動車は。
 雪が止む前から、今見えているタイヤ跡終点位置にいたのではない。ということは。
雪が止んだ後、この場所に入ってきた。
そして、消失した。
「重さん、三時間前からこっち、もう一回雪が降ったとかないわね?」
 智美、そんなこと訊いたって、と突っ込むより先に重さんが
「いや俺はいなかったわけだから知らんけども。出る前に見たのと同じくらいの雪の積もり具合だからな、降ってはないとは思う。なんなら留守番してたかあちゃんに訊いてみてもいいよ。」
(後刻智美が重さんの奥さんに確認したみたいだが、それに間違いはなかったそうだ。)
その事実は少し智美を悩ませることになりはしないだろうか? 辺利は危惧する。
 雪が止んで、例のタイヤ跡を残した車が入ってくる前に、智美のお父さんはもう部屋の中にいたところを見られている。それから別に車が一台入ってきて、おそらく四人の人間が何故だか知らないが横歩きで建屋の中に入っていった、と思われる。消失した車のことも謎だが、この入ってきた四人、出て行った跡もないのに建屋の中にいない、これも不思議。とまれそこまでは得体の知れない四人組のことだから、割と平気でいられるだろうが、実は出ていった跡がないのは智美のお父さんも一緒なわけだ。彼も屋内にいない。
 智美はそのことにまだ気がついてないようで
「ところで重さん、この子にもお父さんを見つけたときの様子を詳しく話してあげてよ」
「詳しい、っていうか、儂もちょっと覗いただけで。ああ、覗いたのは悪かったかもしれんけど、許してください。家を出る前に見上げたら、いちばんうちの方に近い窓から明かりが見えたもんで」
重爺さんの居場所、管理人等は、さっきも通ってきたとおり、智美のお父さんの持っている建物のすぐ裏、なおかつすぐ下にある。
「止むには止んだけどまだ雪雲が厚くて結構な薄暗さだったもんで、今は燃えた跡のあるあの部屋にカーテンの隙間からちらっと、電気ついてるのが目立って見えて。ああ、旦那来てるのかなあ、それにしてもいつもはこっち来るときには儂のとこに一声かけてくれるのに、変わったこともあるもんだなあ、と思って。ちょっくら上がって様子を見ておこうかな、と」
「で、どうだったの?」
「ああ、旦那がいた」
「いつも通りだったわけですね」
「あんまりいつも通りじゃなかったけどな」
「ええと、どういうことですか?」
「そのカーテンの隙間から見ると、旦那、布団敷いて寝転んでてなあ。隙間からちょうど頭のところが見えたんだけど」
 重さんはちょっと言葉を探した。
「かぶってたんだ」
「え、何を?」
「なんていうかなあ。ヘルメット?」
「ヘルメット? そのヘルメットから、もしかして電線みたいなのがいっぱい出てて……」
「そうそう、良くわかったな。」
 智美は、ほらね、とでも言いたそうな不安顔で京を見た。数ヶ月前、「クラブクラブ」で見た光景と同じだ。なにかの装置を頭にかぶせられて……智美のお父さんまで? 記憶改変だとか洗脳だとか、嫌な言葉が頭に浮かぶ。
「変な格好だな、と思ったけんども、目を閉じてお休みのようだったでな。邪魔しても悪いかな、と思ってそのままにして、さっきも言ったように家の前だけ確認して、用事を足しに出てきた」
「周りに誰かいませんでした。それかヘルメットから出た電線の逆端がどんな機械に繋がってたとか。」
「カーテンの隙間から見えただけなんでなあ。本当に旦那の顔のへんしか見えなかったのよ。周りがどうなってたのかはわからんなあ」
 考え込んでると、重さんのほうから質問があった。
「お兄ちゃん、あのタイヤの跡見て、車が消えたのだとかなんだとか言ったな。」
「え、ああ。」
 重さんにも一連の流れを説明する。
「不思議な話だな。だけど、もしかしたら、車はもう一台消えてるかもしれないよ。」
と不穏なことを言う。
「え、もう一台停まってるのを見たんですか?」
「いや、見ちゃあないが。ここって、車がなきゃ来られねえだろ?」
 確かにその通りで、一応、二~三時間間隔の路線バスで最寄のバス停までやってきて、そこから一時間弱くらい歩くという強者がいるという可能性も―夏に限っては―否定はできないのだが。
「そんなら旦那が乗ってきた車があったはずじゃねえか、と思ってね。車庫の中に。」
「車庫ってそのシャッターの中に?」
「そうだ。そのシャッターは、三時間前に表に回って見た時は閉まってたもんで、中が見えたわけじゃねえ。つまり直接車を見たわけじゃないで、そうじゃないかなあ、と思うだけだけど」
 それもまた貴重な指摘ではあって、社長の車がその時もう車庫の中にあったとしたら、それは一体どこに行った? という疑問も当然である。その車が車庫から出ていった跡だってないのだから。でも二台の自動車消失! とかいう事態はできれば考えたくないものだ。社長は一旦誰かに送ってもらって、送った人は帰って行った、雪が降る前に。その後で、別の車、あるいは同じ車がすぐそこまでやってきて、消えた、とわずかでも楽なシチュエーションのほうを選びたい。
 
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