北区天満橋一丁目

文字数 4,886文字

 会社が終わってから律は智美の見舞いに行った。
 かなり回復してきているようで、ただ、小田の言うには午前中に智美の家族と一緒にやってきた辺利をものすごい剣幕で追い返したとのこと。さすがに本調子ではないところにそれがこたえたらしく、律には横になったまま弱々しい声で
「ごめんね、ごめんね」
と言うだけだった。
 なにがあったのか訊ねても、やはり「ごめんね」を繰り返すだけで、説明はしてくれない。それどころか、何があったかを知っているのは、律・辺利・シテンノーだけなのなら、昨夜あったことは他の誰にも話さず、なかったことにしてくれ、と繰り返すのだ。まあ、昨晩からそう言っていたのは聞いてはいたので、今朝早く出社した律は、会社門前に放置していた智美の車を知らんぷりして従業員駐車スペースに移して置いたりはしていたのだが。

 次の日、思いついて並岡と話せないかと総務へ行ってみた。
 律の考えはこうだ。誰が計画したにしろ何があったにしろ、工場内で事を起こすに際して水曜日を選んだのは理由があるだろう。ノー残業デーだから人が残っていないのを見越して、のはずだ。
 大山の送別会については、最初智美も参加する、という話だったと聞いてる。だが後刻急に不参加になったそうだ。参加から不参加に変更したのは、自分だけで決めたのか誰かに指示でもされたのか、水曜日の夜に別の予定を、この事件に関わるなにかの予定を入れ直したからに違いない。そのタイミングで一体何があったか、運よくつきとめられれば、この件を解き明かす手がかりになるかもしれない。そのためにはいつ送別会の欠席が伝えられたのか、まず幹事だった並岡に訊ねようと思ったのだ。
「ああ、智美が欠席する、って言ってきたときね。先週の木曜日だったかな」
 夕方行くと、並岡は疲れ切った様子で机の前で一人たそがれていた。工場閉鎖の事前準備にやってきていた業者の応対が終わって一息入れていたところらしい。他の課員がだれもいなかったので、これ幸いと話し込むことにする。
「ちょうど今の律と同じタイミングさ。他に誰もいなくて、俺が疲れ切ってるときにここにやって来たんだ。例の『みんなで移転についていこう』運動かなんかの協力のお願い、とか言って」
「おや、ずいぶん遅かったわね」
「組合員が少ないから後回しにしてた、それに総務課長がいるんじゃ、ある意味敵の本丸だから、とかそんなことを言ってたかな。ああ、でもあのときなんか変な感じだったな」
「何が?」
「本題に入る前に、少しだけ大山の送別会の話をしたんだよ。俺もいずれ辞めなきゃならないけど、すぐにじゃないから今回のと一緒じゃなくて、送別会は別途してくれよ、とか。智美、そのときは何にも言わなかったんだけど、話が終わってまたちょっと雑談した後、帰り際に急に思いついたように、『やっぱり送別会行けないわ、欠席』って言うんだよ」
「あんまり気にしてなくて、帰り際まで言うの忘れてたんじゃないの?」
「え~、大山にもだけど、忙しい中幹事引き受けた俺に対してもちょっとひどくねえ?」
「並岡が移転防止作戦に協力しない、って言ったから気を悪くしたとか」
「いやいや、ちゃんと協力する、って言ったよ。あと出欠の件とは別に、智美いつもどおり元気一杯で入ってきたのに、帰るときは萎れてる、っていうかなんか思いつめたような感じで、あれ? 何なんだろうなって思った」
「本題は意識調査のときに『転勤します』って言ってくれ、っていうだけだよね?」
「おう」
「雑談って何の話したの? 前途の見えない暗い話?」
「いや、全然。明るい話じゃなかったのは確かだけど、ただ単に俺の愚痴聞いてもらってただけだよ。閉鎖準備で色々あるのに、次長課長は外飛び回ってるだけだし、女の子はすっかりモチベーションなくして休みがちだし、俺一人にやたら仕事がかぶってくる。今週はあれとこれ、来週はそれとどれ…… とか一種の忙し自慢みたいな。智美が落ち込む必要はない話だと思うけど」
 じゃあ、なにかの拍子に目に入ったもので気が変わった?
「話してる最中、智美、なんか見てた、とかある? どこに座ってた?」
「きょろきょろはしてなかったぜ。長くなったから、そこのパイプ椅子引いてきて、俺の机の横にすわってた。たいがいはお互い顔を見て話してたけど、たまにまっすぐ向くこともあるから、そのときは俺の背後の壁に視線は行くわな」
 律は同じように椅子を出してすわってみた。並岡の背後の壁。壁に押しつけて灰色の腰までの高さのキャビネットと、その上に神棚が設けてある。律の感覚からすると、二十一世紀の企業の総務事務所としては、このエリアは迎々しい。神棚自体もかなり大きいし、その横に、縄にとぐろを巻かせた形で積み上げたものも置いてある。縄の太さ三センチ、底辺直径と積み上げた高さが三十センチほどにもなる。これはある意味ミニチュアで、この地方では家だの公共施設の前だのにもっとずっと大ぶりなものが置かれているのを良く見かける。蛇神を象徴するものだ、とかどこかで読んだのを思い出した。
上下に樹皮が着いたまま、つまり木を縦割り方向に切り出した細長い板が横にして吊るされていて、達筆でなにか書いてある。祭のときに歌う木遣り歌の歌詞が書かれているというのだが、達筆すぎて律には読めない。智美も同じだと思う。だいたい何年も前からこの様子は変わっていないのだし、今更これを見たことで智美が予定を変更したとも思えないのだが。

 部屋に帰ってきてから律は気がついた。
 私はもう一つとんでもない勘違いをしていたのかもしれない。そう考えると辻褄があってくることが多い。
 どうしてそうなったのか考えてみる。なんのため? 思いつくのは……智美、結局あなたは……
 最近よく聞く言葉で言えば「ツンデレ」だったんだ。口では色んなことをいうし、若い頃は殴ったり蹴ったりしてたけど、その男がやっぱり好きなんだ。もしかしたらずっと昔から。そしてずっと傍にいたいのに、その気持ちに素直に行動できない。別の大義名分を掲げなければ……
 わかっていたけど失恋じゃないか。ああ馬鹿らしい、と思いながらパソコンチェアの貧弱な背もたれに体を預けて天井を見る。目尻からちょっと生ぬるいものがあふれた。

 辺利も一人の部屋で考えていた。
 木曜日、智美とまともな話はできなかった。
 小田は空いた病室に智美を移してくれていた。五味家の面々の後について病室に入ろうとした瞬間に。顔面に枕が飛んできた。
「帰って、京! 来ないで!」
 真っ赤な顔をして智美が叫んでいた。
 続いてティッシュペーパーの箱。呆然として立ち尽くしていると、今度は枕元にあった病院の備品っぽい目覚まし時計に手を伸ばすのが見えた。あれで直撃されたらたまらない。ほうほうのていで部屋の外に逃げ出した。
 俺が一体何をしたというんだ?
 しばらくして出てきた知輝君たちに話を聞いても、彼女は
「ごめんね」
というきり、詳しいことは何も話さないという。
「まあ、体のほうはもうほとんど問題ない、って言うから、何日もしないで家に帰ってくるよ、お母さん。辺利さんもしばらくしてほとぼりがさめたら、遊びに来てね」
「そうだな。すぐに行ったら、生きて帰れそうもないしな」
 とぼとぼと一人で帰ってきた。
 ぼんやりとパソコンを立ち上げて、なんらか今回の件について手がかりはないかと、まずは智美のメモから出てきた紙にのっていた、件の大阪の複合施設について検索をしてみる。一見、特に彼女の興味を引きそうな要素は思い当たらない。なんであの施設の資料に、なにが「それでも大丈夫!」だと書き込みをするような必要があったのか。その思いはなんぞや?
 公式ホームページを見ると、レンガなどで意匠をこらし、涼やかに流れる小川やら、鮮やかな花があしらわれた花壇やら、施設内のおしゃれなスペースの画像が次々に映し出されていく。そして横を流れる河の両岸に、春、咲き乱れる桜。ああ、そうだ近くにあるものな、花見の名所。
 だがまてよ。まさにハレの場所、というイメージではあるけれど、元はと言えば製錬所の跡地というのなら。もしかして。
気になって、ふと思いついた、とある四文字言葉をスペースに続けて入力、再検索してみる。
 やっぱりそうだ。
 出てくる出てくる。そう、思い出せば当時結構騒ぎになったような記憶がある。
 だが、わずか数年しか経っていないというのに、ホームページの華美な映像からは、もうすっかりその頃の負の印象は浮かんでこない。
 調べてみると、あまり世間の耳目を集めないような対策が続けられて現在に至ってはいるようだが、少なくとも表舞台を見る限りでは。まさに、「何事もなかった」かのようだ。
 まてよ、だからこそ。
 そのイメージを利用して、そんなことをしてしまっても、一時は大騒ぎになったとしても、実際にはたいした問題ではない。「それでも大丈夫!」だったと、もしかして思い込まされてしまったとしたら。

 それであれば、如雨露の説明も……いやだがしかし。そんな方法で?
 もし本当にそんなことが起こったのだとしたら?
智美。君は掛け値なしで。
 
 馬鹿だ。

 だがそれだけに……
 工場が存続して
「ずっとこのままでいられたら私はそれ以上のことは望まない」と言ってくれた智美。
 それだけで工場移転を止められるとは思いづらい「みんなで会社にしがみついて移転しますと公言しよう」運動も熱心に進めてくれた。
「最初から失敗したときのことは考えない。ポジティブシンキング、よ」
と笑った顔が浮かんだ。
 それが引き金になったように、色々なシーンがよみがえってくる。
 味噌をお酒で溶いておくくらいの手間を惜しむから全体に広がらないの、だからあんたは駄目なのよ、と言いながらホイコーローを作ってくれた智美。
 同じ趣味を持つには至らなかった。息子と辺利が熱中する推理小説に
「京もいつまでも子供っぽい物が好きなのね。」
と少し呆れたような表情でこちらを見ていた智美。
並岡に聞いたが「堀川さんこの間泣いてたんだ。それは不安になるよね」と職を無くす恐怖におびえる同僚を気遣っていたという優しい智美。
 何故か、はるか遠い昔、クラブクラブの事務所前でつかまった辺利を助けるために、スコップで塚原さんを殴り倒した雄姿も思い出した。時々とんでもないことをする奴だったんだ、そういえば。
 そんな皆に優しくて、時には無茶をしてしまうようなところに付け込んだ酷い奴がいる。そう考えるのが妥当だ。そいつのことは許せない。
 

 失恋した女のすることといえば決まっている。
 律は髪を切った。
 律っちゃんの長い髪すごく綺麗! と智美が羨ましがったものだった。スリムな律っちゃんにとてもよく似合う、と。だがもうそれも昔のこと。年月とともにそれなりに体に肉もついてきた。太っているというほどではないが、スリムとはもう言えないだろう。
 一方の智美は、中学の頃はぽっちゃりしたほうだったが、大人になってだいぶすっきりしたようで、今でもそれをキープしている。背丈は昔から同じくらい、髪も切って似たような長さになり、皮肉なことに諦めようと思っている智美の姿に似てきちゃったじゃん、と苦笑いする。
 週明けまで待つまでもないだろうと思い、だいたいの場所はわかっていたので、辺利の部屋を訪ねていって話をした。
 彼は彼なりの情報から、律とだいたい同じ結論に達したらしい。
 とはいえ大事なことが全然わかっていない。智美といいこいつといい全然駄目だ。傍から世話を焼いてやらないとわからないのか?
 まあそれはそれとして。事件の黒幕は放っておくわけにはいかない。律はそう言って辺利にある計画について説明した。その黒幕を罠にかける計画、だと。智美の子供にも協力してもらえる話はもうついている。
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