解決編中編あるいは嵌められた者

文字数 4,865文字

「本当、お母さん、無防備に他人信じ過ぎ。っていうか、何とかは盲目、って言うけどその絶好のサンプルだね。今、一つのことしか見えなくなってんだよ、危ないなあ」
「だって……よくわからないけど、これ教えてくれた人、塩酸に青酸ナトリウム入れたらそこで私が死ぬ、ってわかってたわけ? つまり、最初から私を死なせるのが目的だったの?」
「ってことになるね」
「なんでそんなことしなきゃならないの? その人、私が死んだって、何の得もないはずだよ」
「そこらへんは僕もわからないけど。とにかくさ、今まで通りに工場を存続させて、今まで通りに辺利さんの傍にいたい、その為に、なんでそんな危ない橋を渡んなきゃなんないのさ? とんだ八百屋お七だよ。向こうが傍にいてくれ、って言うんだから、嫌じゃなかったらついてけばいいじゃないか」
「別に京がどうとか、っていうわけじゃない、って。工場があれば皆困らなくてすむ、って……」
「お母さんは優しいからその気持ちも本当なのはわかるよ。でも。胸に手を当てて考えてみて。本当にそれだけなの?」
「…………」
「どうなのさ?」
「そんなこと言うけど、あなたはともかく沙紀ちゃんはせっかく色々うまくいきかけてるとこだし、お祖母ちゃんだって今更どこかに引っ越しなんて……」
「悪いけどいくらかお金だけ送ってもらえたらもう僕たちだけでここでやってくことだってできるし、そのことお母さんだってわかってるでしょ?」
「そんなこと言ったって……」
「お母さん!」
 知輝は母との距離を詰めた。
「僕の目を見ながら答えて。」
「何よ? 何をさせるつもり?」
「いいから答えて。どうしてあんなことをしたの? そのことでどんな状態になるのを望んだの?」
「え? 工場が存続して、みんながいままで通り暮らせる、ことを」
「もう一回訊くよ。あなたは何を望んでいたんですか?」
「何よ、今言ったでしょ?」
「僕の知り合いの女の子、ひったくりにあったんだよ。警察に行ったんだけど、こっちは被害者なのになんで? って腹が立つくらい何度も何度も同じこと訊かれるんだって。証言として曖昧なことと本当のことを見分けるためだそうだけど、同じようにやってみていいでしょう? ずいぶん僕たち心配させられたんだから、そのくらいの権利はあるはずだよ。ね? あなたは何を望んでいたのですか?」
「だから。工場が今までとおりある、ってこと」
「あなたは何を望んでいたのですか?」
「う……ん、それで家族が笑って暮らせること」
「あなたは何を望んでいたのですか?」
「そう……家族もそうだけど、親しい人がいつも近くにいてくれて、安心できる状態、っていうか……」
「あなたは何を望んでいたのですか?」
「京に……京に傍にいて欲しい……」
 智美の目から涙がこぼれた。
「ごめん。お母さん偽善者だ。工場のみんなのため、とか言ってても、本当は……こんな歳になって馬鹿みたいだけど、京が傍にいてくれたらうれしかったんだ。それを失いたくなかった」
「じゃあ、辺利さんとずっと一緒にいられるようにしたらいいじゃない? 辺利さんがどこに行こうが着いていけばいい」
「そんなことできる? 前に精一杯私たちのこと思って行動してくれようとした京に、言いたい放題の悪口言って……きっとすごく傷つけた。それに、私しょうもない女なんだ。あなたのお父さんの、達ちゃんのことだって。命をはって私のことかばってくれてたのかもしれないのに、全然気がつかなくて、何でこんな人と結婚したんだろう、って恨んで。その時京が駆け付けてきてくれたから、こんな情のない人のことは忘れても罰はあたらないよね、京に乗り換えられないかな、なんて心の中ではそんなこと思ってたんだよ。そして達ちゃんが本当に考えてたらしいことを京に指摘されて、身勝手な自分が身震いするほど嫌になって、でも気がつくと自分へぶつけなきゃいけない怒りを、京にぶつけてた。いままでは偶然近くにいられるのに甘えてたけど、本当は私には京の傍にいる資格なんてない。工場撤退の件で、近くにいられる偶然が終わる、罰が当たったんだと思って、それでも悪あがきしてなんとかしようとして、もっと大きな罰が当たるところだった。もういい……諦める」
「言ってること訳わかんないよ。僕、あんまりよく憶えてないけど、辺利さんに聞いたとこだと、お父さんの事件のとき、辺利さんを呼んだのはお父さんだったんでしょ? お父さんもちょっと策を弄し過ぎだと思うけど、自分がいなくなってもお母さんには幸せになって欲しい、もしかしてそのための助けになってくれるなら、と思ったんじゃないの? その上で、辺利さんが一緒になってくれ、って言ってるのにお母さんはそれを拒否しようとしてる。お父さんの遺志を踏みにじろうとしてるわけだよね。何で? 今でもお父さんを恨んでるとか?」
「どうしてそうなるの? 別に私は……」
「辺利さんに対しても同じだよ。して欲しいってことをしてあげないわけでしょう? 苛めて喜んでるの? よく中学の頃お母さんに殴られたり蹴られたりした、って辺利さんは内緒で話してくれるけど、こんな歳になってまで……」
「だから違うって。私みたいな女と一緒にいないほうがいいの。京だってきっと心の底じゃ私のこと許してない」
「いいか悪いか最終的なことは誰にもわからないだろうけど、やりたいことやっておかないと後悔ばっかり残るでしょう? 辺利さんも―お母さんだって―言ったら悪いけど、もうそんなに寿命残ってないんだから、根拠のない決めつけで拒否するのは可哀そうだよ。それに普通、許せないような相手とずっと一緒にいようと思わないじゃない? いくら辺利さんだってその不快感を快感と感じちゃうほどマゾじゃないと思うし。何なら本人に直接訊いてみるといいよ、ホラ」
 かがんだ知輝の右手で肘のあたりを掴まれて、ベッドの枠に頭をぶつけながら辺利は引きずり出された。
「や、やあ……」
「京? あんたずっと聞いてたの?」
 智美の顔から血の気が引いた。
「この変態……」
 パシッ! という音が病室に響いた。
「え、とお母さん、拳大丈夫? 痛くなかった?」
 智美が辺利に向かって放とうとした渾身の右ストレートを、ずっとグローブをはめたままだった知輝の左手が、標的―辺利―の寸前で受け止めたのだ。
「知輝、そのためにずっとグローブを?」
「こうなるのは予測ついたからね」
 結構痛かったのか、グローブを外した手を振りながら
「お母さん、よくない癖。感情が高ぶったらつい辺利さんに当たっちゃうんだろうけど、本当は殴りたいわけじゃないでしょ? 本当にやりたいように素直に接してみてよ。あと、ごめんね、今度のことはあんまりあんまりほめたやり方じゃないだろうけど、こうでもしなかったら全然話進みそうもないんだもの。辺利さんもお母さんの本心はちゃんと聞いてもらえたよね。もう『本人が同意してくれないから』って言い訳はきかないから、腹くくってよ。お母さんのこと、後はよろしく。」
 知輝は出ていった。
 辺利は智美のほうを見る。涙でぐちゃぐちゃの顔だった。
「ぎょう~」
「お、おい。そんなに泣くなよ」
「だって悔しいじゃない。なんで私、あんな馬鹿なことしたのよ。自分で自分に腹が立つわよ。それで自分が産んだ子供にさんざん諭されて。おまけにあんなこと言ったのあんたに聞かれて。悔しいわよ。悔しい!」
その後もとめどなく智美は泣き続けた。そんなもので、辺利のトレーナーの胸のあたりは絞ったらしずくが垂れるくらいびしゃびしゃになった。
辺利はもちろん嬉しかったのだけれど、あれ、俺なんのためにベッドの下に隠れてたんだっけ? とちょっと不思議な気持ちになるのだった。


「なるほど。やっていることは結局自殺につながるんだけどそれを知らなくて、全然自殺する気なんかなかった。そのあと普通に帰って何日かたったら下ごしらえしておいた料理を完成する気だった、ってわけ?」
「それでどう見ても自殺としてしか考えられない事実が積み重なってるのに、心理的には知輝君のいう『茹で塩豚理論』と矛盾する、という事態が発生したわけだ」
 律と辺利の会話に、智美が口を挟む。
「あんたたちねえ、昔の同級生の命に関わる問題で、推理ごっこしてるんじゃないわよ」
 まあまあ、と律は智美を制して
「私、智美に謝らなきゃならないね」
「え、何で?」
「智美、この計画を吹き込まれたとき、ちょっと私に相談しかけたでしょう? その時ちょっと体調悪かったのかずいぶん酔いが回ってて、その話、スルーしちゃった、みたいなこと確かあったよね、記憶だけど」
「ああ、あの時ね。誰だって調子悪いときはあるもの。何か話が噛みあってないな、ってちょっと不思議には思ったけど」
 やっぱり智美は優しい、と律は思う。あの時。どう切り出されたのか、冗談に紛らわせたのだろうが、青酸ソーダを薄めるには何がいいか? 塩酸て聞いたんだけど? という質問に、ソーダ水で割るのはウイスキーがおすすめって聞いたんだけど? とでも訊かれたのだと思って、私は投げやりに「うん、それでいいんじゃない」とか答えたのだきっと。真面目に答えれば水にだって溶けるだろうけど、それだとシアン化水素の発生がそんなにはない……んだったかな?
 続いてその溶液を周りにぶちまける、つまり土壌汚染状態を意図的に作るという今回の計画を打ち明けられて、それって危なくないのかな? とか訊かれたのだろうと今になれば推測されるけど……話がソーダ水で割ったアルコール飲料繋がりで、それを粗相でひっくり返してしまったんだろうと思った私は「まあいいんじゃない、それくらい。多少迷惑かけても死ぬわけじゃないし」と返してしまったのだ。
 ビビリながらも計画を実行する方向に傾いていた智美に「多少迷惑かけても死ぬわけじゃないし」という言葉は、背中を押す最後の一言になってしまったに違いない。たとえ相手が酩酊していて正確には意味を理解できていない様子がほの見えたとしても。人間は自分が聞きたいと思っている内容を聞いてしまうものだから。
 私のせいだ。あの時私さえしゃんとしていれば、ちゃんと話の内容を理解して「馬鹿なこと考えてるんじゃないの」と諌めてさえいれば。この子をこんな目に会わせずに済んだのだ。偶然がなければ命を落としているんだから。
 だから律は、彼女を騙して死に至らしめようとしたやつに、自分の手で落とし前をつけてやろうと思った。智美をおとりにしておびき寄せるような危ない真似は絶対にしない。(智美の息子は、その筋書きを利用して辺利と彼女をくっつけようと思いついて、それはそれで悪くないアイデアだったので別途動いてもらうことにはしたが)
「守山さん、大手柄だったね。製造課の原の件については」
「たまたま髪の毛切ったところで、遠目で見たら智美と良く似た姿形になってたからね。知輝くんに頼んで、智美が通勤の時いつも作業着の上に羽織ってたジャンバーを貸してもらった。例の夜に退院するんだって偽情報を流しておいて、玄関口に出てきてもらった小田君にペコペコお辞儀して、いかにも退院する患者がお医者さんに感謝するの図、みたいな後姿を遠目に見せておいてから、暗い夜道を一人きりで智美の家のほうに歩いた」
 引っかかった犯人が人目のなさげなところで、智美に化けた律に襲いかかった。
「大川君と中山君に頼んでさらにそいつの後をつけてきてもらってたからね。楽勝で捕まえられたってわけ。警察に引っ張っていこうとしたら、連絡もしないのにいくらもたたずに向こうから現場にかけつけてきたわ。事前に、『原某という男が父親を毒殺した疑いがある』って匿名で警察に投書しておいたんだけど、あれが有効だったようで。警察は警察で彼の後を尾行したりしてたみたいね」
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