天外焼失?

文字数 5,806文字

 しばらくは平穏が続いたのだが、その二か月後。
 二日前から、また智美の父親はいなくなっていた。八月の初回、十月の二回目に続き、通算三回目だ。塚原さんから電話で、しばらく出張になると事後報告が来たのも前回と同様だ。
 部屋に上げてもらうと、智美はマジックで画鋲を黒く塗っていた。押し込むための円盤から針の部分まで丹念に。一つ、二つ。今は三つ目だ。黒く塗りつぶせ~♪ とか小声で歌いながらやっている。
「あのさあ」
辺利が声をかけても聞いてもらえる気配がない。
「理科の宿題わからないから教えてくれ、っていうから来たんだけど、する気ある?」
 クラブクラブ侵入事件以来、智美が辺利に話しかける頻度は高くなり、また頼ってくることも多くなってきた。
 数学か理科の宿題が大量に出た日が多い。たいがいは放課後図書室に引っ張っていかれるのだが、今日のように自宅出張家庭教師のこともごくまれにある。

智美は理系のことには思考がなじまないらしい。特に化学方面はからっきしだ。塩素と水素が反応すると何になるかという試験問題に「味噌汁」と書いて、後で
「『水』とか『塩』とか『素』とかって字が出てくるじゃない。そうするとどういうわけか、水に味の素とお塩入れて……とか料理のほうへ発想がいっちゃうのね。火の上でお水とか沸騰させたりするじゃない。化学って私の中じゃ家庭科と大差ないようなイメージなのよ。どうせわからないし、そんなお料理気分で書いてみたんだけど、ちょっとひど過ぎたかなあ。水とお塩と味の素が一緒になったって、味噌汁にはならないわよね」
とため息をつき
「塩じゃ駄目よね、味噌でなきゃ。塩味スープって書けば良かった」
と反省していた。
 要するに興味がないのである。

 ちなみにこのお勉強指南役に着くにあたっては、智美の知らないところで少しトラブルになったことがある。
 何週間か前のことだが、前の授業があった理科室に筆箱を忘れ、取って帰る途中で始業ベルを「アウトだ~」と聞きながらたまたま玄関前を通りかかった辺利は、下駄箱に女生徒が立っているのを見た。
 スリムな体にさらっと長い黒髪、目も大きいが端のほうが少し吊り上っているので少しだけ狐をイメージさせる。三組の守山、っていう女子だ。もう授業が始まってるはずなのに何をしているんだろう? しかも立っているところ、視線の先って、俺の下駄箱のへんじゃないか? 自分の下駄箱の前にそこそこ可愛い女の子、という妄想してくれというばかりのシュチュエーションに辺利は息を殺して見守る。守山は辺利の下駄箱の中に手を伸ばすと。
 中にあった辺利の靴を掴むと、開いていた玄関の口から、みごとなソフトボール式のアンダースローでぐるんと腕を一回転させると外に放り投げた。玄関の前はそれほどの幅もないまま公道なので、靴は多分その上に、もっと飛距離が出ていればその先の畑に着地したのでは、とそれくらいの勢いだった。
 構内へと振り向いた彼女は、辺利が呆然と立っているのを見つけて一瞬固まったが、すぐに狐目をしかめて「チッ!」と聞えよがしな舌打ちをした。辺利の横を通り過ぎながら「あんまり調子に乗るんじゃないわよ」と低い声で言う。臭いわ~手を洗わなきゃ~と大きな独り言と共に彼女が廊下を曲がるまで、辺利は動けなかった。
 なにあれ? 守山……さんってあんなに怖い人なの? イメージ違うんだけど、と思いながら、「守山さんってどんな人?」と聞いてあるくのも不自然かと思って、一人でしまいこんでいたのだが。
 何回目かの「理科宿題会」のときに、智美の一言で、なんとなくわかった。
「京は良くこんなこと理解できるよね。まあまあ、律ちゃんには負けるかもしれないけど」
「律ちゃん?」
「ほら、三組の守山律さん、って。真面目だし、すごく頭いいよ。特に化学関係はすごい得意。女子なのにすごいよね~。薬学関係の大学出て薬剤師さんになりたいんだって。私、去年までクラス一緒だったし、同じバスケ部だったから、いろいろ教えてもらってたんだ。今、一組と三組、先生違っちゃったでしょ。宿題のことダイレクトに聞きづらいんだよね。向こうも受験とかあるだろうし。部活もなくなってスケジュールもあうから、そこで最近は京の出番になっているわけですよ」
 真面目……な子なんだ。ただ薬剤師さんには向いているのかな? その仕事がどんなものか知ってるわけじゃないけど、病人の立場から考えると、体が弱ってるときにあんな冷たい視線を浴びたくはないな。
 僕にあんな仕打ちをしてきたのって、それじゃあもしかして。今までの地位を奪われたと思っているんじゃないだろうか? 嫉妬? レスボス島の詩人みたいな人かいな、と世界史の復習を兼ねて考えてみる。

 いくつか画鋲を黒く塗り終わった智美は、今度はその針の部分を下に向けて親指と人差し指でつまみ、回転をかけて空中に放り投げた。
「おっしゃあ、いい具合で回った!」
部屋の中央に置いたちゃぶ台の上で、画鋲は独楽と化して回っている。
いやまあ、小学校くらいのときはこうして遊んだけどさ。
「ほら、京、勝負するわよ!」
 ため息をつきながら辺利が放り投げた画鋲は、簡単に智美の画鋲を弾き飛ばした。
「あ~っ、なんか得意げな顔してる。さんざん回ってた私のにいきなりぶつけるのは卑怯よ!」
 とか文句を言う彼女に
「お父さんのこと、心配なんだ?」
と言うと、横を向いてうなだれてしまった。
「そりゃそうよ。もともとわかんない理科なのにこれじゃ、絶対一人じゃ宿題なんてできない、と思って来てもらったのに、それでも全然手につかない」
 おかしなことになってるなんて、全然気のせいだよ。ただの出張ってお父さんそう言ってるんだろ、と笑って言ってやりたいところだが、クラブクラブで見た光景が、それを妨げる。
「一体どうしたらいいの? お父さん、最近、塚原君がすごく良くやってくれて、とか塚原君がいい提案を出してくれたから早速取り上げることにした、とか塚原さんのことばっかり。なんか完全に言いなりみたいに聞こえるわ。何が狙いなのよ、あの人?」
 階下で呼び鈴が鳴った。二度三度と鳴る。
「あっ、お母さん出かけてるんだった」
智美が降りていったが、やがて血相を変えて戻ってきた。
「京、いくわよ!」
「え? どこへ?」
「別荘よ、別荘」
「別荘へ? 何しに?」
「お父さんが居るんだって。今、重爺が見たんだって」
 別荘とは言っても、二時間三時間かかるわけではない。そもそもこころへん一帯が既に田舎であり山の麓であるので、車だったら二十分ほども上がっていくと、急激な高度上昇とともに気温もだいぶんと低くなる。
 そこで十年くらい前からだというけれども、避暑地として建売で別荘開発がちらほらされている。智美のお父さんもそれに一枚噛んでいて、最後まで残った一棟を、自分の会社の接待だとか保養だとかに使おうとして自分で買い取った。
 重爺さんは、以前智美のお父さんの会社で働いていたそうなのだが、たまたまその別荘地の管理人となった。なんやかやと智美の家には出入りしている。今日は、そもそもは取れた大根を持ってきてくれたそうなのだが、彼の言うには出がけに智美のお父さんが別荘にいるのを見たというのだ。当然智美がそれなら帰るついでに別荘に連れて行ってと頼んだわけだ。
「いや~、お嬢さん。外は寒いですよ。雪はここじゃちょっと舞ったくらいって聞いたけど、別荘んとこは二~三センチ積もったかな。俺が出るときはやんでたけどね。とにかく寒い。旦那に何か用があるなら、見かけたら儂から言づけておくけんども」
「ううん。直接会って話したいの」
「あ~、でも儂が出てきたのはもう三時間も前の話だ。それからあちこちでいろいろ用事があったもんで。まだいらっしゃるかどうかわかんねえよ」
「駄目でもともとよ。あと、この子も一緒に乗せてってくれない?」
「俺の軽トラ、二人乗りだよ」
「何とかなるわ」
 智美を膝の上に乗せたらいいのだろうか、とか考えた辺利君であったが、ただ単に軽トラの荷台にしがみついていくことになっただけだった。あえてもう一度書いておくが、ちょっと前まで雪がチラホラ舞っていた冬空の下で、である。
 そして彼らは事件に出会った。

 寒い。それに別荘地の入口付近からすれ違う車、前後を走る車一台とてない。別荘地の敷地の境界にあるアーチをくぐってからは、多分二~三台の小さな車が通った程度の跡しかない。
何回か急カーブを通るので、軽トラの側面を掴んでこらえるのだけれど、これが金属製。辺利には手袋もないときている。感覚がなくなってきた、もう駄目、と思いかけた時、やっとこさ救われた。管理人棟の駐車スペースに重さんが車を停めるのだ。
「そこの階段を昇ると、お父さんの会社の棟なの。このまま車で行くなら、もう少し上まで行って、ヘアピンカーブを過ぎるとその建物の真ん前に出るんだけど、こっちのほうが早いし」
 その選択、有難うございます。
 目標の建屋の敷地との間に三メートル程の高低差がある。夏は芝生で青々としているだろう斜面に、丸太と木の板で土止めした階段が上の敷地まで続いている。
「あんれ? これは一体?」
 登り切った重さんが頓狂な声を上げた。
「どうしたの?」
「火事、だったんかな?」



そう言えば駐車した軽トラの荷台にいた時点で既に焦げ臭かった。目の前、建屋裏手真ん中あたりの部屋の窓ガラスに黒く煤けた所があるし、カーテンがほぼなくなった状態で、部分的に黒い燃え残りみたいなものがぶら下がっているだけだ。三人が煤けてない部分のガラス越しに見てみると、畳が焦げていたり、布団の燃え残りみたいな固まりも見える。今まだ炎が上がっている、というわけではないが。
「あそこ、旦那がいた部屋だな」
「やだ、なんで? そんな。お父さん!」
 智美は窓ガラスを更に割ってでも入りかねない勢いだったのを男二人で止めて、入口があるという建物正面に回り込む。
 智美と重さんは玄関から家の中へと急いだ。
「お父さん、お父さ~ん。いるの? 出てきてよ~」
 彼女の声が中から聞こえてくる。
一方の辺利は後をついて家の表側まで回ったが、遠目であることに気づいて、玄関前をスルーし、二~三センチ積もった雪の中を、そのまま進んだ。目指した場所で、雪の上に残されていた跡を見た。これは変だ。上を踏まないように少し離れながらちょっと跡に沿って移動してみる。おかしい。こんなこと有り得ない。
しばらくして外に出てきた智美は
「ちょっと京。何ぼーっと立ってるのよ。家の中回ってみたけど誰もいないの。重爺の話じゃその中にお父さんもいたのかもしれないのに、いないのよ。どうしよう」
「誰もいないの?」
「そう」
「でも、逆に……ごめん……焼け焦げた姿になって、というのもないんだろ?」
「うん。部屋もそんなには焼けてないみたい。ボヤみたいな感じ。ほとんど物も置いてないし」
「いないんなら、うまく逃げ出せて、今頃事後処理とかに回ってるかもしれないじゃないか? あとでお母さんにでも電話して、様子を訊いてもらったら?」
「そう……ね」
「でも誰もいないのは不思議だな。火事の前なのか後なのかはわからないけど、今日、この家の中には四人の人が入っていってそれきり出てきてないはずなんだけどな」
 智美はポカンと口を開けた。
「何言ってるの? 何でそんなことわかるの?」
「あそこに残っている跡を見る限りはそう思えるんだ。あ、踏みつぶさないように気をつけて。自動車のタイヤの跡が一筋、いや右と左のタイヤの分で二筋というか、あるだろ? つまり一台分。割と細めのタイヤだし、左右のタイヤ跡の間隔もなんか狭いような気がする。軽自動車なのかなあ、とか思うけど」
 自動車でこの建物にやってくる人たちは、京たちが昇ってきた階段とちょうど反対側の道路から敷地に入ってくるようになっていると思われる。今ちょうどそのルートでタイヤの跡が建屋から五メートルばかりのところまで残っていた。
「そのタイヤ跡の終点から、建屋のシャッターに向かって足跡が残っている。靴底の形だとかサイズだとかから見ると、足跡は四種類に分けられる。それらがすべて建屋の中に入って行ってる。ええと、あの大きなシャッターの向こうは、ガレージってわけ?」
正面から、つまり車の道側から建物を見た場合、右端に玄関があるが、それと対称、左端に大きなシャッターがついている。今そのシャッターは大きく開けられたままだった。大きな金属棚があって、工具箱とかが載っていたり、ほうきやスコップが立て掛けてあるのが見える。智美はうなづいて
「屋内車庫、っていうのかな? 見ての通り、車一台分くらいとめられるコンクリート打ちっぱなしのスペースになってるの。そこから直接家の中に入れる扉が付いてるから、車一台だけで来た場合は、玄関使わなかったりするんだけど」
 人間の足跡はそのシャッターへと続いている。ちょうど車幅くらいの間隔を空けて、二列に分かれている。右側に二人分(二種類)、左側に二人分(二種類)と別れているようだ。もし車をタイヤ跡の終点で止めて、右のドアと左のドアから二人づつ降りて歩いて屋内車庫に入っていったのなら、おそらくこんなパターンで足跡は残るだろう。まあこの足跡たちにはどうしようもなく不自然な点があるにはあるのだが。
「四種類の足跡が入っていっているから、四人の人間がいたはずだ、ってわけ? でも重さんと二人で探したけど家の中に誰もいないのよ。その人たちの乗ってきた車って……」
 そこで智美もさっきから辺利が悩んでいる問題に気づいたらしい。
「いなくなってるのは人間だけじゃないわよ。車! 自動車がないじゃない! 入ってきたタイヤの跡だけはあるけど、それならタイヤの跡の終点には車があるはず。なのに何もない!」
「そうだね。消えちゃったみたいだ」
「消えちゃった、って、車が一台丸ごと? 一体どこによ!」












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