解決編後編と爪痕を残した問題

文字数 6,719文字

「なんで諏訪湖で琵琶湖の歌の碑なのよ?」
「伊丹市に上島鬼貫って江戸時代の俳人の碑がたってるんだけど」
「聞いた。あの人からの受け売りでしょ?」
「そう。で、色々碑に掘られた俳句はあるんだけど中に『にょっぽりと 秋の空なる 富士の山』というのを彫った碑が伊丹市に建っている。達彦さんの手紙に書いてあるんだけどね」
「それで?」
「何でこの碑は伊丹市に建ってるんだろう?」
「何が言いたいのよ?」
「だって別に伊丹市から富士山は見えないんだぜ。富士山を詠んだ句碑が建ってるのはある意味不思議だろ?」
「それはその上島鬼貫って人が伊丹市の生まれだから……って、え?」
「そう。作品の舞台になったわけじゃなくて、作者が生まれた場所であることを記念して建っている。そのことに気づいてみると、ビデオに映っていた『琵琶湖周航の歌』の碑も同じ理由で琵琶湖以外の場所に建っている、という可能性もあることに気づいたんだ。その場所が琵琶湖よりもN市に近いならば、その碑をアリバイ偽造に使えるかもしれない。危なっかしいやり方だけどね。
「ガイドブックを読んで、作者が『長野県』出身だということはわかっていた。歌碑は湖のほとりに建っているほうがいい。目の前に湖があって、横に琵琶湖のことを歌った歌碑があるのなら、目の前の湖が琵琶湖である、と間違える可能性は高いからね。とはいえいくら旅慣れていないお母さんを騙すとはいえ、あまり小さい湖では琵琶湖のかわりと言いくるめるのは難しいだろう。長野県の湖を考えて見ると、木崎湖とか青木湖、野尻湖とかでも大きさ的にちょっとしんどいし、そもそもこの三つは長野県の奥のほうにずいぶん走り込んでいかなきゃならないんで時間的なメリットもない。白樺湖とか女神湖は多少近くても大きさ的にどうにもならない。『湖』と銘打っていても、もともと灌漑用の池に過ぎなかったんだから。まあこんなもったいぶった前振りをする必要もなく、長野県最大の湖、諏訪湖が中央道から一番近くにあったんだけどね。
「そこで湖周辺の三市町村、諏訪市・下諏訪町・岡谷市の観光協会に電話をしてみて事実を確かめた。岡谷の人が教えてくれた。歌碑ありますよ、って。この歌の作詞をした小口六郎さんって人は、諏訪湖の近辺で生まれ育って、旧制三高に進んだ人だったんだ」
 湖は違えど『われは湖の子』という歌詞が普通に生まれてくる素地はあったのである。この小口六郎さんを記念して、歌碑は岡谷市の釜口水門の近くに建っている。ちなみに諏訪湖には流れ込む川は無数にあるのだが、流れ出ていく川はただ一本、天竜川のみである。釜口水門はその源、ということになる。
「ちょっと待ってよ、お母さん変なこと言ってたわよ。通りすがりのおじさんと雪のことで立ち話をして、地球温暖化で『近江あたりなんかもうなかなか見られないですよ』ってそのおじさんが言ってたって。近江、って滋賀県のことでしょう? 長野の岡谷市かどこかの人が、どうして滋賀県の話を急に持ち出す必要があったの?」
「お母さんの聞き間違いなんだ。そのおじさん『雪国じゃないんで元々そんなに降るわけじゃないけど、そこそこはね』て言った時点で雪の話は終わったつもりでいた。確かにもともと諏訪周辺はそんなに雪が降る土地柄じゃない。逆に雪が降らないから、寒さが厳しいと言っていいくらいでね。カマクラの中は案外あったかい、っていうだろう? その逆さ。とにかく寒さで諏訪湖は全面的に凍っちゃったりするわけだ。
「そのまま諏訪湖の話を続けるけど、氷の厚さが増していって、それが寒暖の変化で膨張収縮したりすると、その歪が局所的に集中するせいなのか氷が裂けたり盛り上がったりして、湖を横断するように筋状の、三十センチから場合によっちゃあ二メートル高さの氷の山脈とでも言うものが出来上がる」
「あ、待って。それ何とかっていうのよね。聞いたことある」
 思い出そうとしている智美に構わず辺利は続ける。

「諏訪で大きな神社と言えば言わずもがなの諏訪大社だけど、この諏訪大社というのは湖を挟んで上諏訪側の上社と下諏訪側の下社の二つの社があって、それぞれ男神と女神が祭られている。男神が女神にほうへ渡った跡がこの氷の筋だと考えられて『御神渡り(おみわたり)』と呼ばれているんだ。この出来具合を見てその年の吉兆が占われたりもする重要な神事でもあるんだが、地球温暖化の影響で、近年はこの『おみわたり』が観測されない年も多いらしい」
「そう、『おみわたり』だ。『近江あたり』と確かに聞き間違えやすいかもしれいけど。じゃあ何? その通りすがりのおじさんが言ったのは、地球温暖化の影響で『(雪を)近江あたりなんかもうなかなか見られない』じゃなくて『御神渡りなんかもうなかなか見られない』だった、ってこと?」
「そう」
「は、は、は」
 智美は力なく笑った。
「偶然に助けられてるだけかあ。なんか笑っちゃうくらい杜撰な計画だね。恰好悪い。お母さん確かに目は悪いし、もともと人の車に乗せてもらってるときに標識なんか確認する人じゃないから、気づかれない可能性は確かにあるよ。でも綱渡りだよね。湖畔であった人がこんな都合のいい発言をしてくれるとは限らない。全部ぶち壊すようなことを言うかもしれないのに。それに、これを一人で調べ上げた京はえらいと思うけど、警察が本気になって調べたら、こんなのすぐわかっちゃうのが普通じゃないの? こんな情けない作戦使ってまで、年とったお義母さんを巻き込んでまで、あの人はそれでも自分の保身を図りたかったってことね?」
 ああ……わかった。この反応だ。こんな偽アリバイで逃げ切れると思っていたわけじゃない。達彦氏はこれを狙っていたんだ。真相が明らかになったとき、いかに自分が卑怯で、浅はかで、みじめに見えるかを。
「その前に、お年寄り一人見殺しにしてるんだよね、多分。苦しんでるのに助けもしないで。自分で頼み込んでした借金をちゃらにするいい機会だって言うんでさ。そういう人だったんだ、あの人」
 智美は下を向いて、目の周りをゴシゴシこすっている。
「あんな人と結婚しなきゃよかった。もっと私の事、家族のこと一番に考えてくれそうな人のとこに行くんだった。例えば……」
しゃくりあげながらかすかに彼女は言った。
「京みたいな」
そしてここで、俺が登場する。偽アリバイを崩すのは警察でもかまわないが、俺を引きずりこんでおけば、多少は万一の見逃しの可能性は下げられる、「透明人間」による刺殺事件を解決したのを知っている達彦氏はそう考えたのかもしれない。
だが多分、俺に振られたメインの役割はアリバイ崩しではないのだろう。
うすうすは気づいていた。だが、(推測ではあるが)もし弁護士があんな手抜きをしなかったら? 俺が既婚だったら、達彦さんはこんな依頼をしなかった。そうじゃないから依頼の手紙を渡された、そのことを知らなかったら?
家族持ちじゃないことを確認した上で智美のところへ、真相がわかった―場合によっては当の本人の俺が真相を明かした―ときに、心が折れて誰かに頼りたくなるだろう智美の元へ俺を送るということは。
条件つきの依頼だったことをもし知らなかったら、俺はこの局面でどんな風に行動するか? はっきり言って、俺は今でも智美のことを思っている。何も裏読みする必要がなかったのなら、自分がここでどうしていただろうかは簡単にわかる。見透かしていたのか? 達彦さん。いや、セーフティーネットの一つとして用意しただけなのかもしれないが。
 彼は罪を犯してしまった。妻子を誰か、大事にしてくれそうな人に委ねる作戦だったのか。自分への思い出も想いも全て地べたに落とさせる、わざとそんな行動をして。心情的後腐れをすべてなくさせて。
だが、だれだって愛する人に最低の人間と思われるのは辛い。気づいてもらえなくても、いや絶対気づかれてはいけないけれども、そうじゃない証拠をどこかに残したい。愛する人には伝わらなくても、世界に一人くらいは、自分の本当の気持ちを知っていてほしい、せめてそのための手がかりだけでも渡しておきたい。
 ピントがずれた譬えだ。でも言いたいことはわかるよ、達彦さん。多分若者に恋していたんだろう、恩返しをしながらウグイスの精は思ったんだ。正体を気づかれたらもう恩返しを続けられない、でも、それでも本当の私をわかって欲しい、二月の扉を開けてはいけない、でも、本当は開けて欲しい、と。
 その鍵を俺に預けたのか? 荷が重すぎる。二月の扉は開けてはならない。でも……本当にあんたそれでいいのか?
「人に真実を全部伝えることが、必ずしもいい事とは限らない。特に女の子の場合はね。向こうだって本当のことなんか知りたくない場合も一杯あるんだ」
 すごい昔に誰かに言われた言葉が頭の片隅をよぎったが、そのときはもう遅かった。辺利はポケットから手を出すと、智美のほうに差し出していた。
「これを見てくれ」
 智美は腫れた目をあげて、眉を寄せた。
「何これ? お母さんの?」
「じゃないんだ。お母さんのは今でも箪笥の中にあると思う」
「どういうことよ?」
「達彦さんの手紙と一緒に受け取った」
「あの人は誰に?」
「これ、結婚指輪なんだよな」
 趣味的にはどうかと思うおかしなデザイン。数字の5をかたどっているのだ。真ん中に小さな宝石が入っている。
「五味家に入ってくる記としてもらった、とお母さん言ってた。家事がしづらいから、何か記念のような日にしかしない、って言ってたけど。結婚指輪だからもう一人持っている人はいるよな。よくよく考えたらその人がその指輪してるとこ、俺見たことあるんだ。その人から手渡されたんだよ、達彦さん、きっと」
「そんな馬鹿な。お父さん? あの人会ったことないはずよ」
「でも、探していたんだろう、達彦さん? 智美との結婚を報告したい、って。それがずいぶんたって実を結んだのかもしれない。ただ、その頃には本当に智美が父親には会いたくないと思っているのがわかった、あるいはほかの理由があって、黙っていたんじゃないかな。おそらく彼は実際にお父さんと会っている。そしてこれからは、俺の想像にすぎないんだけどな、智美」
 深呼吸する。
「日本で借金に関連して起きる悲劇の大部分は、『連帯保証人』制度に起因するらしいんだ。借金した本人がトンヅラしたり、借金の返済を拒んだというだけで、連帯保証人はその全てを返済する義務を負ってしまう」
「何が言いたいの?」
「達彦さんは堅実な人だった。なのにある日、大枚の借金を背負っていることが判明する。その理由を絶対智美には話さないんだろ? 一方でお父さんは、事業が失敗してから……ごめんな……いくらもたたないうちに君とお母さんを放り出してどこかにいってしまう人だ。そんな人が娘の夫に、それもかなり人のいい部類に入る夫に秘密で会っている。なにかをしてもらう代わりに、これしか価値のある物がないんだ、と小さいけれど宝石の入った指輪を置いていく、というようなことを考えるのは、想像力が飛躍しすぎだろうか?」
「借金の連帯保証人を頼んだ、っていうの?」
「証拠は全然ない。想像だけなんだけど」
 達彦さんの戦略は、自分が最低の人間だったと智美に思わせること。そして、彼女の父親と接点を持っていたことを示す指輪を、絶対彼女には見せてはいけない、と指示している。そのことで自分の戦略に支障をきたすからだとすれば……辺利にはこんな状況しか想像できない。
「結果として借金をした本人は夜逃げして、連帯保証人になった人間に全責任が回ってきたとしたら? 時が経って、ちょうど金貸しが絶命しようとする場面に居合わせた達彦さんは、救命行動を一切行わずに『か』行の顧客ファイルを持って逃亡する。彼が『川崎』だから、というのはわかりやすい説明だ。だが智美、君のお父さんは『五味』。同じ『か』行だ。借金を親類縁者のだれが肩代わりして返さなきゃならないとか、いや実は返す義務はないとか、小難しい法律の話は俺にはわからない。達彦さんも、もしそうだったとしたら? この先自分がどうにかなった時に、借金した本人と連帯保証人のどちらとも関係のあった人間に返済義務が生じるとか、そんな恐ろしい可能性が頭をよぎったとしたら? 苦しんでいる貸金業者を目の前にしながら、これが全てをチャラにするいいチャンスだって、悪魔の囁きに従ってしまったとしても、あながち責めることもできないんじゃないか?」
「…………」
「全部想像にすぎないんだ。でも、だから。一度、達彦さんと会って話をしてみて欲しいんだ。僕の想像が外れていたら、達彦さんが私利私欲のために老人を見殺しにするような人だったんなら、智美は自由だ。でも、僕の想像が合っていたら、達彦さんのことを待っていてあげることはできないだろうか? いや、一人で頑張れとは言わない。彼が罪を償うまで、それまでの君や家族のことは僕が全力で応援する」
「あの人が出てくるまで、それまでしか面倒を見てくれないの?」
「え?」
「京はずるいよ。なんで今になってそんなこと私に話したの? 黙っていてくれてたらよかったじゃない! もう、遅いのよ。いまさらどうしようもない」
「でも……決して遅いことは……」
「私、今日忙しい、って言ったよね。何でだと思う? あなたが来るちょっと前に連絡が入ったのよ。あの人は……死んじゃった。留置所の中で、首を……」
 馬鹿な、そんな。
 京は、最初に智美に会いに行くことを決めたとき、一応返信用封筒まで入れてきてくれたことだし、そうする旨を弁護士事務所に向け連絡したことを思い出した。
あれがトリガだったのかもしれない。
事態が想定通り動き出したことを確認した達彦氏は、計画の最後の段階を実行することに決めたのだ。老人の死を看過した罪を自らの命で贖うプロセスを。
 「それでもあなたに会ったのは、京があの人を断罪してくれると思ったから。あの人がろくでなしだって、完全に証明してくれることを期待してたのよ。それなのに、こんな話を聞かされたら、私はこの先どうしていったらいいの。一人で生きていくのはしんどいわ。誰かにもたれかかりたい、って疲れてるときにはふっと思う。でも、こんな話聞いたら、あの人を忘れて違う誰かを頼みにして生きていくなんて、もうできないじゃない!」
 開けてはならない「二月の扉」を開けてしまった。既に今のタイミングでは、開けたことによって誰一人幸せになるわけではないことを知らないまま。
「京は自分が公明正大でいい人だって思ってるかもしれないけど、そうじゃない。ただの臆病者だ。黙っててくれてもよかったじゃない! 真実かもしれない恐ろしい推理なんか、一人の胸の中だけにしまってさ。そんな度胸もないんだ。見損なったわ。馬鹿!」
 しばらく嗚咽が続いた。その後、顔を伏せたまま智美は言った
「……ごめん。本当にごめん。今言ったことは忘れて……なんて虫のいいこと言っても駄目だよね。全部私のわがまま、自分勝手な言い草だってわかってる。でも、醜くてもなんでも、これが今の私の本心なんだよ。どろんどろんの本心なの。だから、もうここから出て行って。そして……」
 顔を上げて辺利を見た。
「もう二度と会いに来ないで」

***
「なんか不満そうだね?」
「いや、だってそこそこ大きいって言ったって、諏訪湖を琵琶湖と間違えるかなあ?」
「う~ん、でも湖の大きさって湖畔に立って見るだけじゃあ、わかんないもんだよ。琵琶湖だって場所によって―俺の知ってるとこなら奥琵琶湖っていうのか、北側のほうから見たら―すごく小さく見えるところあるよ。入り組んだ形になってるところだと、もっと奥までつながってるのに小さく閉じて見えちゃったりしてね」
「ふ~ん、でも『琵琶湖周航の歌』の歌碑、五番だけない、ってのは可哀そうだね」
「ごめん、これ2000年の話だから。2005年に彦根突堤に建てられてる。」
「あとさあ、彦根あたりでネコとかウサギとかの姿でかわいいマスコット作ったらどうか、って書いてるけどそれって……」
「もういるっていうんだろ? それも初登場が二〇〇七年の、『国宝・彦根城築城四百年祭』のイメージキャラクターとして登場したのが始まりだそうだよ。次は調度そのころ、二○○六~二○○八くらいの話をしようか」


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